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あちこち歩記 弐
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このページではあちこちに出かけたことをご報告して参りますが、場所、日程が主となります。追い追い内容の充実をはかって行きます。ご参考になればと願っています。因みに
わたしは小金井市に住んでいます。
【あちこち歩記弐
(2003年以降の分)】
♥2007年10月の「あちこち歩記」 ♥2007年4月の「鈍行の旅」 ♥2006年10月の「あちこち歩記」 ♥「ある若い画家のあちこち歩記」 ♥ 「JR東海道本線(京都線)、JR東海道本線(琵琶湖線)、北陸本線、小浜線、舞鶴線、北近畿タンゴ鉄道(宮津線)、山陰線本線、福知山線経由ローカル線の旅」 ♥「しまなみ海道、予讃線、予土線、くろしお鉄道、土讃線、徳島線、淡路島ハイウェイ経由ローカル線の旅」 ♥「加古川線、播但線、姫新線、津山線の旅」 ♥「04年秋の奈良2カ所」 ♥「番外編 権兵衛峠を歩く」 ♥「飯田線、大糸線の旅」 ♥「久しぶりの富士五湖」 ♥「秋の六甲山縦走コースを歩く」 ♥「水郡線、磐越西線、只見線の旅」 ♥「春の大阪近郊」 ♥「北海道道南旅行」 ♥「東京近郊の湧水とせせらぎの道」
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(2002年までの分)」はこちらにあります>>
☆2007年10月の「あちこち歩記」 (2007.11.5)
1.10月27日 室生古道を歩く
残念ながら今回はいろいろな事情があっていわゆるローカル線の旅を楽しむことができなかった。
わたしは例年この時期、正倉院展を覗くか奈良にある文化遺産のいずれかをを訪ねることが多い。
今年はいつも参加している奈良学文化講座(東海旅客鉄道株式会社/奈良学文化講座運営委員会主催)の臨地講座として『室生古道を行くーー室生古道を行くー室生寺から”南の大門”仏隆時へ』の開催を知りこれに参加するため申し込みをしておいたところOKとなったのでこれに参加することにした。
この講座は首都圏在住の人々を対象に年数回奈良に関する文化講座を実施しており、ときどき臨地講座を行っている。東京では参加する人が多いのは当然であるが、臨地で実施する講座に200人も参加する盛会ぶりである。
女性がおよそ7割を占めているのは他のこの種催しと同様である。夫婦で参加もちらほら。わたしのように男ひとりの参加は全くの少数派である。
午前の座学に参加した何人かの人と話をしたが、朝一番の「のぞみ」で駆けつけたという人がほとんどでまるで首都圏のどこかで実施される会場に行くかのような気軽さで参加しているのに驚いた。その上正倉院展が午後7時まで参観できるレートサービスを利用して同展を観て帰る予定だという人もいて更に驚いた。それも女性がである。そのパワーには脱帽した。
座学は室生寺の慶雲殿で山岸公基氏(奈良教育大学准教授)「山寺と王権−室生寺金堂の美術を中心に−」を聴講した。
なかなかの熱弁であった。「室生山は近畿を貫流する大河木津川の水源の一つ、周囲と隔絶した仙境の地で、龍王の棲む祈雨の霊地とみなされ天応元年(781)以来奉幣・祈祷の例が枚挙にいとまない。」から始まり、金堂や弥勒堂や五重の塔といった建造物やその中に安置されている数々の仏像の由来に深く関係する天皇や親王や開祖やそれを引き継ぐ傑僧の名を挙げ話を進められた。
また、雨の多い室生の地ではあるが室生寺を中心として伊勢神宮参りの交通の要衝として多くの人々が往来した室生古道の意味についても言及された。
その室生古道の一部を歩く臨地講座は、午後から案内役の鎌田道隆氏(奈良大学長)がFMラジオを通して語る「江戸時代の室生古道と庶民の伊勢参り」を聴きながらのウオークであった。
わたしは室生寺にはもう5回以上はきているが、その大半は雨天であった。この日も例外ではなく朝からの雨が室生寺門前の太鼓橋を出発するころも止みそうな様子がなく雨中のウオークとなった。ざあざあ降りということにはならずときどき止むこともあるという状態であった。
この日歩いた区間は下の地図に示すように林道の部分もありほんとうに古道の面影のある道は唐戸峠から仏隆寺に至る下りの山道で見ることができた。
わたし自身好天の日にもう一度歩いてみたいというという気持ちを持っているが、この駄文を読んでいただいた方々の参考のために当日の順路を記した講座の資料を転載させていただたいておく。
案内役の鎌田先生の話の中で書き留めておきたいと思った言葉をいくつか。
「街道を歩くということは今どきの若い学生の教育にも役に立つ。途中の民家の人々のおもてなしの心が彼らにもよく伝わるのである。」
「完全装備の足元では木々が痛みを感じているのではないだろうか。」
「歩くというこにより自然が呼んでいるのだと感じることができる。」
「自分ひとりの力で歩いているのではない。人々の力の助けを借りて歩いているのである。」
このほか多くのことが語られたのであるが、昔の人々がいろいろな街道をどんな思いで歩いたのか少しは分かったような気になった。
もてなしの心というのは言葉をいまに置き換えてみるとボランティアの心ということになるのであろうか。


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2.10月30日 河南町広川寺
この日は西行法師の庵跡のある大阪府下河南町広川寺に行った。ここは桜の季節がいいのであるが、今回は季節外れの訪れであったのに躑躅と桜の狂い咲きを眼にする結果となったのでほんとうに驚いてしまった。地球温暖化の影響かなどといいたくはないが、とりあえず写真を出しておく。


(満開の躑躅) (よく見えないが桜の花びらが5輪ほど)
☆2007年4月の
「鈍行の旅」 (2007.4.25)
体調はまずまず良好もっと積極的にあちこち歩き回っていてもいいはずなのに、年間定例になっている春秋の墓参のための大阪行き以外には出かけていない。
旅好きの立場から言えばよくじっとしていられるねと言うことになりそうだが、自分でも文字どおりそのとおりと言うしかない。
経済的余裕もさることながら気持ちの上でなにか鬱屈したものがあり、どうしても気持ちの余裕がなく出かけることに踏み切れないのである。そんなことをこのようなところで書くことは憚られることである。そのうちにもう少し楽な気持ちになることができたら少しずつ始めたいと思っている。
前置きはそれくらいにしておいて、今回の上阪にあたっては往路は名古屋から伊賀路を経由して天王寺まで、帰路は天王寺から和歌山線経由で奈良県を縦断するかたちで京都に出るルートをとることにした。
往路はJR側の事情で伊賀路での途中下車ができず、帰路は時間的に無理があったのでこちらも途中下車がなく文字どおり車窓からだけの旅となってしまった。ただし亀山では強制的な途中下車を
させられてしまったが。
1.4月14日(土)の往路
名古屋 ==> 亀山==> 加茂 ==> 奈良 ==>王寺 ==> 天王寺
<−−−−−−−−−− ( 関 西 線 ) −−−−−−−−−−−−−>
この旅ではまず名古屋で最初の躓きがあった。関西線のホームに上がって次の発車時刻と番線を確認しようと電光表示盤を見たところ、テロップが流れていて「本日関西線は保線工事のため亀山から先加茂方面行は名古屋午前9時8分発から午後2時8分発まで連絡がありません」と出ている。
新幹線車内ではそんな周知はなかった。名古屋駅での乗り換えの時も同じ。
なんということか、これじゃ伊賀上野での途中下車どころか亀山から先へ行けないということではないかと舌打ちするしかない。そのまま名古屋にいてもしかたがないのでとりあえず亀山まで行ってみることにした。
亀山まで車窓から見える風景は普通の都市郊外風景である。それでも所々桜も咲き残っているしむしろ関東付近よりは桜の開花が遅かったらしいというのが窺えた。
わたしの座った座席の近くに立っている7〜8名の若い女性グループがいてにぎやかにおしゃべりをしている。ちょっと浅黒い感じがしてそれに話している言葉はどうやら日本語ではない。わたしの経験から判断してフィリピンの人たちかなと思った。彼女たちの降り際に駅名について「ここは桑名ですか」と聞かれた。そのときの会話でどうやら日本へなにかの研修で来ているということが分かったが、あとは時間がなかったのでそのままバイバイということになった。
さて、亀山に着いて駅員に確認したところ今回の運転休止に関連して代行連絡バスの運行もないのだという。とにかく加茂行きは15時42分に出るという。新幹線での車内放送のなかったことなど少し苦情めいたことを言ってみたが、彼はただ申しわけありませんと言うだけである。
考えてみると今やJRは全国各地の地域会社に分かれており、わたしが今回通った区間だけでも東日本、東海、西日本とそれぞれにまたがって通ることになっている。亀山は丁度東海会社と西日本会社との境界にあたっている。幹線ルートのことならいざ知らずローカル線の鈍行客に対してまで十分周知が届かないこともあってもしかたがないかと物わかりよく諦めることにした。
どうしたものかと黙り込んだわたしに、彼は事務室の奥から亀山の観光地図などの書かれたパンフレットを持ってきてくれた。
とにかく天王寺には暗くなる頃までには着きたいので、関か伊賀上野での途中下車は諦めて亀山で約2時間を過ごすことにした。
駅の左正面に小高くなったところに城跡らしい建物が見えているのでとりあえずそこまで行ってみることにした。
手始めにパンフレットに従って亀山宿場跡、侍屋敷遺構、亀山城跡、亀山神社、花菖蒲園へと歩くことにした。
侍屋敷遺構見学を終わり城跡への上り坂を歩いていたところ前から一団の若い女性達のグループが降りてくるのとすれ違った。見るとはなく見ているとどうやら朝車内で見掛けたフィリピン女性達のように見えた。外国の人の場合どの人も同じように見えるとはよく言ったものである。そのときわたしは時間と距離を考慮に入れる前にそうだと思い込んでしまったのである。
すれ違うときにどちらからともなく「こんにちは」と声を掛け合った。わたしは彼女たちにはたしかに車内で会ったという気がしていたので、「先程電車の中でお会いしましたね」と言ったところ彼女たちいずれもが怪訝そうな顔をしてこちらを見つめている。そのときアッと気がついた。そうだ朝の彼女たちは桑名で降りた、わたしはそのまま亀山まで来た、これではここで会えるはずがないと。
彼女たちは二組に分かれて行動していたのである。分かったことを口にして気持ちよく別れの挨拶をした。
そのあと城跡の石垣の上に立っている建物を写したのが左の写真である。
右は神社横の公園にあったSLである。往時SL華やかなりしころここ亀山には操車場があったのではないかという記憶があるのだが。

この建物の裏側に石段があり、それを下りて隣の亀山神社の境内に行った。
翌15日12時19分頃三重県中部亀山地方を震源とする強い地震(震度5強と報じていた)があったのを覚えておられるだろうか。夕刊1面に石段が崩壊した写真が出ていた。
また交通に関して「JR・近鉄乱れ21万人に影響」という記事があった。
この事実に実に不思議な気持ちにとらわれた。こんなこともあるのだということを。
そういえば駅前でコーヒを飲んだあの階段の急な2階の喫茶店は大丈夫だったのだろうか。
15時42分加茂行きは無事発車した。ここから加茂までの区間はもちろん単線だし未電化区間である。
ここからは山間を行くので桜や燃え立つような若葉がこれでもかこれでもかと目に入ってくる。実に気持ちのいい時間が過ぎて行き、朝の躓きも忘れてしまうほどであった。
春の季節をいう言葉「山笑う」とはよく言ったものである。
終点近く笠置を通過、電車は川の近くを走るがもう8年くらい前にクルマで柳生から笠置に行ったのを思い出した。あのときは山の上の方から電車の走っているのを見たのだった。
2.4月23日(月)の帰路
天王寺 ==> 和歌山 ==> 五条 ==> 高田 ==> 奈良 ==> 京都
(阪和線) (和歌山線) (桜井線) (JR奈良線)
「山笑う」を堪能した6時間であった。
JR奈良線は多くの区間で単線であった。一部複線化の工事をやっているようであったが京都と奈良という大都市間を結ぶ線としては朝夕の通勤通学時には不便を感じることもあるのではないかと心配になった。
☆2006年10月の「あちこち歩記」 (2006.11.4)
1.10月26日(木)
例年2回か3回のローカル線の旅をすることにしているのであるが、今年は春に丹後地方のローカル線の旅をしただけでそのあとどこへも出かけていない。理由はたった一言「先立つものが乏しい」からである。今の健康状態だけから言えばまだしばらくは大丈夫らしい気がするのでしばらく機会を待ってみようと思う。
両親の墓は大阪にある。今年の秋の墓参りは10月25日に行った。いつものとおり妹宅に世話になることにして1週間ほど大阪に滞在した。この間友人と会ったり、別の友人宅を訪問したりした。
今年は天候に恵まれ、秋の1日奈良に行くことにした。折から正倉院展が始まったばかりであったのでいつもどおりのパターンを踏襲しようかとも考えたが、今回は正倉院をパスして奈良県立美術館の「応挙と芦雪展」を観ることにした。
円山応挙と長沢芦雪は師弟関係にある。今回の展示は3コマに分かれてそれぞれ「人物」、「花鳥」、「山水」としてまとめられていた。
会場を進んで行くに従って芦雪が非常に細かい観察眼を持っていて鳥や昆虫や植物などに多くの作品を残していることを知った。
「花鳥」の会場で重要文化財に指定されている芦雪の「虎図」に出会った。もう27〜8年くらい前になるだろうか和歌山県下の簑島に在勤していた頃休みを利用して串本の無量寺という小さなお寺を訪ねたときのことをありありと思い出した。
そうだあのときに見たあの襖絵ではないかと。
先に述べたように芦雪は非常に正確な観察眼を持った人であったのに、この虎はどうも超大型の猫の絵のように思えるのはなぜかという疑問である。こんなことを書いたからと言ってあの絵の芸術性を否定するものではないことは当然のことである。
よく考えてみると当時日本では実物の虎を見る機会はなかったのではないだろうか。ということは芦雪は中国渡来の絵などを参考にして虎の絵を描かざるを得なかったが故に少し猫的な虎の絵になったのではなかろうかと思うのである。
さて、美術館をあとにして向かったのは奈良公園と平行して少し東大寺寄りに近づいたところにある依水園である。ここは麦とろの名所である。たいてい奈良を訪ねるとお昼には寄ることにしているが、前回は定休日で食べることができなかった。
もう1時半になろうという時間だったが、今回は具合よく食することができた。座敷からきれいな庭を見ながら静かに麦とろを食べるというのは本当にゆったりした気持を味合うことのできる至福の時間であった。
上手に箸を使っている外人などの姿も見られ、観光に来ているやや高齢の物静かな夫婦連れも多い。
もう1カ所入江泰吉の写真美術館(現在奈良市立写真美術館と名前が変わっているらしい)を訪ねたかったのであるが、時間的にゆとりがなかったので割愛せざるを得なかった。
大阪へはJR奈良駅からローカル線の桜井線で高田駅へ、ここで今度は和歌山線に乗り換え王寺へ、和歌山線を走ってきた電車はここから大和路線経由で天王寺へ直行
する。やっとミニローカル線の旅である。
電車は奈良を出ると奈良盆地をほぼ南に縦断するかたちで進んでいく。稲の刈り入れが終わったばかりの田園地帯が続く。実にのどかな風景である。
この線は難読の駅名も多い。まず京終(きょうばて)・帯解(おびとけ)・櫟本(いちのもと)。また、難読ではないが古代を感じさせる巻向(まきむく)・三輪(みわ)・香具山(かぐやま)・畝傍(うねび)と続く。三輪山のおだやかな山の姿を後ろにして乗換駅の高田に着く。どの駅で途中下車しても歩くところにことかかないだけに実に残念である。

櫻井線の車両 和歌山線の車両
2.10月29日(日)
この日は末妹に案内して貰って泉北の和泉市にある「りさいくる農園」に行った。
この妹はある写真クラブに所属していてあちこちの花を尋ねたりしており、秋の花を撮りたいのだというとコスモスがそろそろ咲いている頃だと言ってここへ連れて行ってくれた。
この農園は公共団体などが設置しているものではなく、1私企業(
大阪・兵庫を中心に産業廃棄物処理・リサイクルを行っている大栄サービスグループ)が管理しているのだという。周囲の金網などは
設置してあるものの見学などを目的として農園を整備しているのではないという。駐車スペースは一応確保されてはいるものの見学のための設備は何も用意されていないところである。

かなり広いところで行ったときにはコスモス、ひまわり、ラベンダー、朝顔、ダリアなどが咲いていたが、そのいずれも最盛期とは微妙にずれていた。

コスモス ひまわり
帰途寄り道をして松尾寺へ行った。途中樹高30メートルを超す天然記念物に指定されている大くすのきがあったが、撮影の対象としては少し無理がありカメラに収めることができなかった。

松尾寺 仁王像 松尾寺 山門
☆ある若い画家の「あちこち歩記」 (2006.5.12)
雑誌「芸術新潮」2006年4月号をパラパラとみていたらおもしろいページにぶつかった。パラパラというのはこの雑誌が名前のとおり芸術に関する雑誌であるため絵画、彫刻、焼きもの、写真などなどグラビアページが多いためであると考えていただきたい。
わたしが毎号楽しみにみているページのひとつに、芸術家などが自分のお気に入りの作品やコレクションなどについて書いているコラムのようなページがある。題して”my
favorite things”という。
おおむね自分の好きなもの、お気に入りのものということで対象としてはもの(作品)を取り上げてそれについての熱い思いを述べているのが普通である。しかし、今日見つけたページでは若い画家の町田久美さんが「端っこへの旅」という旅という行為そのものを「わたしのお気に入り」に取り上げているのである。「端っこへの旅」の実体としての(もの)は、半ば雪に埋もれた長良川鉄道・北濃駅の線路終端を写した写真のようである。
これだけでもいささか驚きであるが、その内容が旅ときてはそのまま読み捨てることはできない。
わたしがこのページで拙文を綴り続けているようなことが実に要領よく書かれている。
まだお若いのに足跡を残しているところが多くなんとも羨ましいような気がする。
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その全文を引用させていただく。
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中学くらいからぼこぼこ独り旅に出ていました。実家は群馬県の高崎なんですけど、金沢経由で京都までとか。車掌さんに不審がられても、親戚の家に行くんですと言えば、偉いねで終わり。さすがに宿には、親からも声をかけておいてもらいました。
20代の頃は、東欧や中近東へ出掛けました。旧共産圏が大好きなんです。道も建物も風景も直線だけからなっていて、およそ曲線というものを欠いている。色彩も無機的で、誰かを居心地良くさせようなんていう気はさらさら無い、あの突き放し方にぐっときます。国内では、辺境っほいローカル線の旅によく出ます。特に路線の終点、端っこの駅。何を見るというあてもなく、ただその場所へ行きたくて行くだけだから、泊まりもせずに目的地からとんぼ返りすることもしばしは。
能登の穴水駅、山形の左沢駅、三陸の宮古駅、身延線の鰍沢口駅、信越線横川駅、紀勢線の和深駅……。下北半島では大間、野辺地、大湊それぞれ印象深いですがその後、廃線になってしまった大畑線の大畑駅が最高でした。ちょうど今時分、春先でしたね。昭和30年代のまますべてが止まり、工場の廃屋と枯れた木々のむこうに恐山が見える。古い振り子時計が置かれた旅館の廊下では、突き当たりの巨大な鏡に自分の姿だけが映っていました。
青春18きっぷなどを使って普通列車や快速や夜行を乗り継いでゆくことが多いんですが、窓辺でただ景色を眺めているだけで何時間乗ってても飽きません。ドップラー効果で聞こえてくる踏切の音を聞きながら、しみじみLたり。地上の人と目が合うと、これだけで一生会うこともないんだろうなと感慨に耽ったリ。ディーゼル・エンジンが一所懸命走ってる感じも好ましい。叙情的になるというか、わーっという驚きの気持ちがストックされて、貯金みたいに溜まっていきます。さびしい、わびしい、うら悲しい、人間最後は独りなんだと実感出来る、そんな場所をこれからも訪ねたいですね。[談]
☆JR東海道本線(京都線)、JR東海道本線(琵琶湖線)、北陸本線、小浜線、舞鶴線、北近畿タンゴ鉄道(宮津線)、山陰線本線、福知山線経由ローカル線の旅 (2006.4.9〜10)
前回の四国の旅ででも感じたことであるが、JRの民営化にあたって第3セクターに移管された路線がなかなか健闘している(経営的に黒字という意味ではない)のを見たので、今回は兵庫県の丹後半島を半周する北近畿タンゴ鉄道に乗ってみることにした。
旅行費用切りつめのため日程的にかなり強行軍を承知で移動したため、ほとんど途中下車もなしというおよそ旅を楽しむということからはほど遠いことになってしまったがそれもしかたのないことと割り切ることにした。
利用者にとって最も不利な点は、こうした切り捨て路線は通し切符の対象とならない即ちジパング倶楽部の割引恩恵が受けられないということにあるといってよいだろう。ではあるがまあ乗ってみてのお楽しみということもあるだろうくらいの気持ちで次のような計画を立てた。
(第1日)
大阪 ==> 京都 ==> 米原 ==> 敦賀 ==> 東舞鶴 ==>西舞鶴 ==> 宮津
(京都線)
(琵琶湖線) (北陸本線) (小浜線) (舞鶴線)
(タンゴ鉄道宮津線)
==> 豊岡 ==> 玄武洞
(山陰本線)
(第2日)
玄武洞 ==> 豊岡 −−> バス−−> 出石 バス−−> 豊岡 ==> 福知山 ==> 篠山口
(山陰本線)
(山陰本線)
==> 大阪
(福知山線)
余談になるが、この切符を緑の窓口で購入する際発券まで約20分近くかかり、わたしの後ろに5〜6人の列ができてしまった。こちらとしては並んだ方に対して非常に申し訳ない気持ちになってしまった。担当職員が発券機器に不慣れなためではなく鉄道路線に関して普段の勉強が足りないせいではないかという気がする。JRの民営化後全国の鉄道が地域会社に分割されたことは事実であるが、日本全国の鉄道はいまでも全部繋がっていることは全く変わっていないということを常に意識しておいてほしいと思う。
第1日目の4月9日は好天に恵まれ全く申し分のない旅気分に浸ることができた。昨年のローカル線の旅のときと同様道中車窓のみぎひだり至るところ花ありでなんとなく気分がうきうきする。
米原から長浜、敦賀、小浜と走る間見える山々は二三日前に降った雪で白く化粧をしている。しかしいずこも麓の方は花がもう開いている。この対比の妙がほんとうにいい。わたしの乏しい表現能力では表し尽くせないのが残念である。

敦賀駅構内
タンゴ鉄道との乗換駅である西舞鶴駅で1時間あまり駅周辺を歩くことができた。列車が西舞鶴駅に入る直前に進行方向右側に公園がありほぼ満開に近い桜が見えた。駅から15分前後の見当だろうと思いすぐに行ってみた。
公園は舞鶴公園と呼ばれている。正面の石垣は平成2・3年度に行われた発掘調査で田辺城本丸の西端に位置する「天守台」の東側石垣であることが確認されたということである。
修復された石垣の上に田辺城資料館が造られていた。中を見学するために覗くとシルバーのボランティアの方がいろいろと説明してくれた。
田辺城は、細川幽齊(藤孝)、細川忠興親子の居城であった。細川幽齊の夫人があの明智光秀の三女ガラシャである。シルバーボランティアの方がくれたパンフレットの一枚に、【東軍側の田辺城は西軍側の優勢な兵力に攻めたてられたが、幽齊が「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成天皇が勅使を送り西軍の諸將の囲みを解かせたという話は有名である】と出ている。
公園としてはまだ整備の途中ででもあるのだろうか、印象に残る桜の木がなかったのは少し残念な気がした。

タンゴ鉄道の車両 舞鶴公園で
この日はこのような首尾で宿泊場所である玄武洞に無事着いた。
しかしなんとこの日の宿泊客はわたし一人であった。そういえば2年前の大糸線の姫川温泉のときと全く同じなのである。あのときは満天の星の下の露天風呂などが堪能できたのであったが、今回はそのような余録もなく明け方には屋根を打つ雨の音に眼を覚まされてしまった。
足元の準備が不十分だったので出石行きは諦めることにし、雨の中の沿線のしっとりと濡れた花を楽しむ旅となってしまった。

雨の玄武洞駅(無人駅)
ちょうど1年前多数の犠牲者を出したあのJR西日本福知山線の脱線マンション衝突事故の現場を通過したが、それらしい建物の位置も全く確認することができなかった。
☆しまなみ海道、予讃線、予土線、くろしお鉄道、土讃線、徳島線、淡路島ハイウェイ経由ローカル線の旅 (2005.10.23〜26) (2005.11.6記)
いまは四国への旅行というと飛行機でのアクセスが多いようである。そこはあくまでも天の邪鬼なわたしのことアクセスには3ルートもある本州四国間の橋を使うことにした。
本州と四国間を直接結ぶ瀬戸大橋は既に経験しているので今回は島伝いルートを経験することにした。
このいずれを使っても本当に短い時間(約1時間30〜40分)で渡れる。そのことは非常に結構なことだと思うが、JRと共同の瀬戸大橋については渡る間瀬戸内海の美しさを十分堪能できるのに対して、島伝いの2ルートはただ経由するためにだけに意味があるような気がした。折角の美しい橋をしばらく楽しむという余裕あることにはならないようにダイヤが組まれている。現代人はそれほど時間について余裕が持てない生活を求めているということなのだろうか。
しまなみ海道へのアクセスは尾道と考えるだろうと思うがバスのルートは福山からがメインになっている。したがって今回の旅は福山から始まる。
福山は3年前の4月のローカル線の旅の帰路に通過したが、お城のあたりをぶらぶらしたのを覚えている。福山駅の正面はお城の反対側になっているようで大きな道路がまっすぐに伸びている。駅前の地図によると中央公園というのがそう遠くないところにあるようなのでぶらぶら歩き出した。この道路の両側の所々に立派な彫像が設置されているのに気がついた。これらの彫像に導かれるようにして中央公園に着く。公園そのものはそれほど大きいものではなかったのであるが、その一隅に千羽鶴が吊された記念碑が目についた。
太平洋戦争が終わるほんの1週間前の8月9日の米軍機による焼夷弾爆撃により焼死した3人の母子の慰霊記念碑であった。あらためて戦争のむごさを感じた。
ここで今回の行程を記しておく。
《10月23日(日)》
(新幹線) (しまなみハイウェー)
新大阪 ==> 福山 福山駅前 −−> (赤崎 ) −−> 大三島BS −−> 今治駅前
(予讃線)
今治 ==> 松山
《10月24日(月)》
(予土線) (土佐くろしお鉄道)
松山 ==> 八幡浜 ==> 宇和島 ==> 岩井 ==> 中村
《10月25日(火)》
(土佐くろしお鉄道) (土讃線) (徳島線)
中村 ==> 岩井 ==> 窪川 ==> 高知 ==> 阿波池田 ==> 徳島
《10月26日(水)》
(阿波エクスプレス)
徳島駅 ==> 三宮駅
JR四国の予讃線、土讃線、徳島線と乗り継いでみて健闘しているではないかという印象が強かった。予讃線は電化しているが土讃線と徳島線は気動車である。列車編成上1両ないし2両の場合はすべてワンマン運転となっている。それでも車両は見苦しくない程度に整備されている。土佐くろしお鉄道もそれなりに頑張っているのだろうが宿毛駅でのオーバーラン事故があったことを考え健闘の対象から外した。
今治から宇和島までの間に見た川は総じて水量が貧弱であった。今年は1回の例外を除いて特に四国地方の水不足が深刻であるというニュースを何回か聞いたり見たりした。それを思い出しながら見ていたがいまでも何となく水が少ないという印象が拭えなかった。
それが宇和島から岩井までの間の四万十川水系に入ってからは、もちろんいまはそれほど水量が多いわけではないがつい先だっての台風による水害の爪痕がこんなに上の方まで川が溢れたのかとびっくりするくらいの高さのところにビニールなどの切れ端が引っかかっていた。宇和島から土佐昭和まで隣り合わせた地元の方の話でその恐ろしさの一端を知り得たかのような気持ちになった。自分の眼による記憶だけで残念ながら写真は撮れなかった。
宇和島では駅前の闘牛像や機関車を見たあと、和霊神社に行った。ここの鳥居は石造としては日本一大きいのだとか観光案内所の女性が教えてくれた。実際に見た感じではもっと大きなものを見たような記憶があるような気がしたのだがどうなのだろうか。
予土線とくろしお鉄道の乗換駅である無人の岩井駅で小一時間時間をつぶした。ほんとうに周りに何もなくてそのあたりに咲いている花を撮ったりするだけであった。
昭和の次は大正だった くろしお鉄道 若井駅
中村では駅前でレンタサイクルを借りて四万十川のサイクリング道路(堤防の)を約3キロメートル走って佐多の沈下橋に行くことにした。この日は快晴でサイクリングそのものは快適であった。沈下橋とはどういうものかひとことでいうと全く欄干のない平面橋のことである。上で述べたように四万十川というのは名うての暴れ川である。いったん増水すると簡単に橋を呑み込んでしまい橋を流し去ることが過去何回も繰り返されてきた。増水しても流されないためにどうすればいいか考え出された人間の知恵の結果生まれたものである。中村から上流にかけて数本あるらしいが、今回はとりあえず最も近い佐多沈下橋まで行った。
この話を後日ある人に話したところ何のために観光に行ったのかと、頭から否定されてしまった。生活の知恵でそういう橋を設置しなければならないということを理解しないわけではないだろうが、そんな橋をわざわざ見に行くのは観光ではないということなのだろうか。わたしは名所旧跡だけが観光対象ではないと固く信じているのだが。こういうところを見ることこそがそういう地域に住む人の生活の愛や歓びや悲しみを偲ぶことができるのだと。
実際にその平面橋を少し歩いてみたが何も掴まるところがないということは平衡感覚を著しく損なうものらしく20メートルほど進んだが、恐くなって足が竦んでしまって動けなくなってしまった。そのとき対岸を見ると軽自動車がこちらに向かって走り出してくるのが見えた。とっさに避けようがないと思ったわたしは橋の中央を確保しながら小走りで岸辺に戻ったのである。この話も笑いの対象になりこそすれ理解されなかった。

佐多沈下橋 赤 鉄 橋
中村から阿波池田までは時間の都合で特急に乗るしかなかった。隣の女性は清水で薬局を営んでいるとかで、当日高知で会合があるとかで日帰りするのだといっていた。高知までの1時間あまり四方山話をした。自分の知っているIT関連の話を披露したつもりであったがどう受け取ってもらえたか。
高知からしばらくして吉野川の峻険でありながら景色の美しい吉野川沿いに列車はひた走りに走る。大歩危小歩危などの有名な峡谷を通るのであるがゆっくり楽しむことはできなかった。しかし、こういう列車に乗っていると鉄道というのは世界に誇れる偉大な文化遺産だという気がする。
阿波池田では徳島線への乗り換えに2時間近くあるので駅前の観光案内図を見て池田湖に行くことにした。むかし高校野球で有名だった池田高校のそばを通っていくのだと教えられ階段を上がって行った。文房具屋からの帰りらしい女子高校生と一緒になったので最近の野球部は少し元気がないですねなどと話しかけた。気持ちよく応対してもらえて嬉しかった。池田湖は四国電力の管理する発電ダムである。
徳島線はこれまで経由してきた各線と違って海岸線や山の中や川沿いの鉄道ではなかった。阿波池田から予讃線と反対側の吉野川沿いに走りやがて右に低い山並みを見ながら走る平野の線である。
徳島着15時38分、いまや日が短くなっているので今夜泊まる宿へぶらぶら歩いていくとして1時間半くらいしか余裕がない。ただ眉山公園へロープウェイで上がるだけでは能がないような気がしたので相談したところ眉山の取っつきに瑞巌寺という庭のきれいなところがあるという。途中には阿波踊りのからくり時計の塔もあるらしい。
近くの小学校の前まできたところ三重の塔の屋根の一部が少し顔を覗かせている。樹木が生い茂っているので全容は見えない。お寺に入って拝観のために声をかけたら頭の上の方から声があって庫裏の方へまわれという。どうやらご住職自身が庭木の剪定をしているらしいということが察せられた。
すぐ目の前に眉山の斜面が迫っており庭の奥行きはその斜面に遮られてほんとうに狭いものである。でも緑が濃く落ち着いたいい庭である。三重の塔のところまで上がったがとてもカメラを構えて撮るという場所を確保できなかった。紅葉にはまだ少し早いようであった。
気持ちのいい時間を持てたことを感謝する。
その夜新町川の両岸を歩いてみた。遊歩道がきれいに整備されており堤防の街路樹にトゥリーイルミネーションがつけられ光っている、その下を女性が自転車でゆっくり走っている。何となく安心して歩ける街という印象を持った。
翌日は徳島県文化の森総合公園に行く。ここは徳島の総合文化施設になっており開園15周年記念企画展をやっていた。県立図書館・博物館・近代美術館・文書館・21世紀館があるが、時間の関係で近代美術館を鑑賞した。
この日は企画展、音楽「色、線、形、そして音」をやっており絵画と音楽の関係を色々な観点から考えてみようというちょっと変わった展示であった。わたしには面白かったがさて一般受けするかどうか疑問である。それにしても午前10時過ぎとはいえ約1時間鑑賞客はわたし一人きりでなんだかわるいような気がし少し居心地がわるかった。
☆加古川線、播但線、姫新線、津山線の旅 (2005.4.15〜16)(2005.4.23記)
最近は異常気象とか天災地変というのがむしろ通常の状態のような気がするほど、この種の現象がよく発生する。今年は3月末から4月の初めにかけて開花を寸前にして冷える日が続いたためか、例年より1週間程度遅れて始まった。
これが今回はいい憑きになった。
そのひとつは、全国的にも有名な大阪造幣局の通り抜け花見が例年はそろそろ散り始める頃から始まるのに、今年は二日目の14日に行ったところほぼ満開というところで同じ満開でもはらはら花びらが落ちる満開ではなくしっかり花びらが茎についている満開であったことである。

その二つは、表題の各線の沿線の桜がこれも今を盛りの満開でまるで一日中花見の旅であったことである。
これらの線の旅を計画するにあたり、元々尼崎に住んでいた古い友人から阪神大震災のあと兵庫県境に近い岡山県の別荘地に居を移し定住を始めたという連絡を五六年前に貰っていたことを思い出した。
地図で当たったところ姫新線と津山線に挟まれた地域のようである。とりあえず岡山ででも会えればとメールしたところ、折り返し返事があり彼のところから岡山というのはクルマで一時間以上掛かるのでむしろ自宅の方に来ないかと誘いを受けた。会えれば二十何年ぶりかになる。
最寄りの駅は姫新線の林野になるので駅まで迎えに行ってやるよという。その言葉に甘えることにした。
経路は次の順で組んだ。
(1日目)
大阪 ==> 加古川 ==> 西脇 ==> 谷川 ==> 福知山 ==> 和田山
==> 寺前 ==> 姫路 ==> 播磨新宮 ==> 佐用 ==> 林野
==>
(津山)
(2日目)
津山 ==> 岡山 ==> 播州赤穂 ==> 相生 ==> 姫路 ==> 大阪

二日とも本当に好天に恵まれこれ以上ない旅行日和であった。言葉をこれ以上付け加えることのない本当に満足した2日間であった。
でもこれだけでは「あちこち歩記」にならないので今少し書き足すことにする。
大阪からの車中で芦屋までの区間電子辞書を活用して英文の翻訳をしている女子大生を見かけた。何年か前武蔵野線の車内で30分近くの間化粧に専念していた女性を見た記憶があるだけに何となく好ましい気分になった。その彼女の電車が芦屋に着く直前ほんの2〜3分の間の化粧直しの早業には驚いた。
加古川線はホームも新しくエスカレータまで設置されている。40年近く前の記憶では気動車で加古川を出ると線路の両側に菜の花畑が続いていたが、今は住宅地になっており所々に菜の花が
点在するのが見えるだけである。もうこのあたりは神戸方面への通勤通学圏になっているのであろう。
西脇に近くなって「日本へそ公園」という駅があった。そういえばこのあたりが日本のへその位置に当たるのだと聞いたことがあるのを思い出した。
加古川線全線電化完成の横幕が張ってあった。

谷川で福知山線に乗り換え更に福知山で山陰線に乗り継ぎ和田山に向かう。福知山を出てから線路は川に沿って走るがその川がかなり荒れていた。途中で軽乗用車だろうかほとんど原形をとどめない1台が逆さまになったまま放置されているのが見えた。昨年は日本を直撃する台風が多かったからそのうちのひとつによる被害なのだろう。
和田山では播但線に乗り換えるのだがちょうど1時間の待ち合わせである。ここから寺前までは気動車である。昼時なので食事でもしようかと外に出てみたが、正面の地方事務所前までの約百メートルの道沿いにそのような店が1軒もない。何となくのんびりした時間が流れているような気がした。
播但線に入ってからも駅が近付くとそこには桜があり、途中川があると堤の桜があり、学校や公共の施設があるとそこにも桜があり、目を山の斜面に転じると本当にあちこちに桜のほんのりした白が目に入ってくる。人里に近いところの桜は皆人が植えたものであろうが、山の中のものは自生したものであろうか。
それにしても日本人は桜が好きなのだとあらためて思う。
姫新線の林野には友人が迎えに来てくれていた。二人とも歳相応に年をとっているがまだまだ若さを失っていない。彼はかっての文学青年の面影を未だに失わず持っていた。往年を思い出し懐かしかった。わたしは彼に対してどんな印象を与えたのだろうか。
友人の家に行く前に美郷温泉に案内して貰った。湯上がりで奨められるままに種類の異なった酒の杯を重ねたためか二人とも大いにできあがってしまい、同じように前後不覚に陥ってしまった。
翌日は少しというか大いにというか二日酔いの症状である。目が覚めたときすぐ近くで鶯の声が聞こえ、さすが別荘地だなと感じた。
奥さんの運転で津山まで送ってもらい、衆楽園を見学そのあと古い家並みの残っている町並みなどを歩いた。


☆04年秋の奈良2カ所 (2004.11.1&3)
1.11月1日
2002年の秋と全く同じ歩みとなった。正倉院展を見学後元興寺とならまちの散策である。
古都奈良の秋を彩る今年の正倉院展は56回目を数えるのだそうである。出陳点数は75件で初出陳は12件だという。
毎回観ていてこれは観たことがあるという宝物が多いと感じていたが、このように出陳宝物についての解説を読むとなるほどと頷かされる。その多くが遙か異国の地から運ばれてきたもので、精巧な技術に裏打ちされた美術工芸品であることを目の当たりに見るまたとない機会となっている。
今回は開会3日目の月曜日の午前という時間帯を選んだので比較的空いてはいたが、それでも時間があるからといって一点ごとに解説をゆっくり読んで、展示物をじっくり観るということにはほど遠かった。
それでも往時の宮廷での生活のさまが色鮮やかに思い浮かべられるような気がした。
さて、元興寺はこの2年の間に世界文化遺産に登録された。登録されたからといって何かが変わるというものでもないのであるが、少しは見学者の数でも増えたのかと思い聞いてみたが格段の変化はないとのことであった。変わっていたのは特別展を開いているからという理由で拝観料が500円から800円に値上げされていたことくらいであろうか。
現在の元興寺は本来のものではなく、もともと明日香の地にあった前身の法興寺を現在の地に移したものといわれており、伽藍も少なくなり境内もそのころとは比較にならない狭いものとなっているのだそうである。たしかに小さなお寺である。
現在残っているのは極楽堂(国宝)と禅室(国宝)だけという寂しいものである。極楽堂の本尊裏側に掛けられている重要文化財の智光曼荼羅は是非拝んできてほしいものである。
ただここに設置されている財団法人元興寺文化財研究所は、単に元興寺の移籍や文化財を研究しているだけではなく、高い技術力があるので奈良県の他のところの仏像の修復や仏教民俗の調査などにはいろいろと関与しているという。
古代瓦の色が鮮やかであった。この写真である。
もうひとつ数は多くなかったが萩の花が咲いていた。
2.11月3日
ある旅行雑誌に「日本で一番古い国道竹内街道を歩く」という記事が出ていた。
竹内街道(たけのうちかいどう)は古代都が奈良のどこかにあった当時、船の着く堺から奈良の入り口である長尾を結ぶ道であったらしい。いってみればシルクロードの一部ということもできるのではないだろうか。そう考えるとなんとなく古代のロマンを感じることができるような気持ちになった。
たしかにそんな部分もあったが、大半はトラックや車が走る歩道のない現代の国道を歩く羽目になり大いに感興を殺がれてしまった。奈良県も大阪府ももう少し遊歩道の整備に力を入れてほしいものである。途中古墳や史跡が多くあるだけに本当に惜しい気がする。
<コース> 約9キロメートルの行程
近鉄南大阪線磐城(奈良県當麻町)==>長尾神社==>竹内集落、中程に綿弓塚==>竹内峠==>万葉の森==>竹内歴史資料館==>孝徳天皇陵==>近鉄南大阪線上ノ太子(大阪府太子町)
☆番外編 権兵衛峠を歩く (2004.10)
「飯田線、大糸線」の旅をするに当たって途中の宿泊地を選ぶのに伊那市役所にパンフレットを送ってもらうよう依頼したところ、気持ちよく送っていただいた。その縁であろうか伊那市の行うイベントのダイレクトメールが届いた。
題して「第24回・米の道・権兵衛峠を歩こう」というのである。塩の道、絹の道という言葉はよく聞くが米の道というのはあまり聞いたことがない。
案内を読むと1泊2日の行程で新宿からのバスツアーを組んでいる。米の道は2日目に予定されており約2.8kmを2時間半かけて歩くとなっている。参加費一人2万円で途中リンゴ狩りなどがあって、山道を歩くとは健康にもいいしこの料金ならまずまずかと思い、参加することにした。
新宿==>南箕輪・大柴荘(昼食)==>マレットゴルフ==>リンゴ狩り==>カーネーション狩り==>伊那・羽広荘(宿泊)==>与地==>七曲り==>権兵衛峠==>頂上
(昼食・米の道イベント)==>奈良井宿==>新宿
伊那市はこのようなイベントにも力を入れているようで、首都圏からの客と中京圏からの客を集めているようである。話を聞いているとリピータも多いらしいことが分かる。
権兵衛峠への出発地点に着くと地元からの参加者も合流して約360人とか。就学前の小さな子供からシニア世代までなかなか元気である。途中まで舗装道路で入り、道路と分かれて葛籠折れの山道が始まる。やがて七曲りの茶屋あとを過ぎるが、山道にはには針葉樹の落ち葉が深く積もっておりなんとなくふんわりした感じで歩き安い。
伊那谷と木曽谷とは一つ山越えで隣り合わせているが、途中には難所があって米所の伊那から耕地面積に乏しい木曽谷へ米を運ぶのに難儀したらしい。元禄年間古畑権兵衛らにより改修された道だというが、ここを農耕馬に米俵を背負わせて運んだというのである。馬も大変だっただろう。
逆ルートで漆器や木工製品が運ばれた重要な通商路だったのである。
谷川の流れの音が初めは遠く、やがて近くで聞こえるようになり急斜面を流れ降りるのが見え、自然の気持ちよさを堪能できた。途中数回の休憩を挟んで約2時間半で頂上に到着。
これだけの大人数となるとなかなか統制が難しいものであるが、全体として旨く運んだと思う。大汗ではなく適度の汗をかいたあとの昼食は久しぶりにおいしかった。振る舞われたキノコ汁が特に良かった。最後余っているようなのでお代わりをしている人も大勢いた。
途中の山道で深い落ち葉がえぐられたり掘り起こされているところがあり、まるでブルドーザーが通ったあとのように見えるところがあった。前を歩いていた地元の人に聞いたところイノシシがミミズを求めて掘り起こしたあとなのだそうである。夜よくミミズの存在が分かるものだと思うが、おそらく匂いであろう。ミミズが大の好物とは知らなかった。
奈良井宿はご存じ中仙道の往時の面影を残す街道宿場の一つである。今日は久しぶりの晴天とあって大勢の観光客で混み合っていた。家並みのほとんどの家が観光客相手のいろんな店を営んでいるようである。
この宿場全体と周辺の環境を含めて1978年に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。このように指定された地域で生計を立てるというのはいろんな意味で難しいものがあるだろうことが思われる。
街並みのちょうど中間くらいのところに大宝禅寺というお寺があり、隠れキリシタンのマリア地蔵の石像がある。頭部や抱かれた子供の膝も破壊されておりわずかに十字架の部分が残されているという悲惨な姿になっている。昭和7年(1932年)に地元の人が藪の中に埋もれていたのを掘り出したものといわれている。
この寺には本堂の裏に小さいがいい庭があった。

(町屋の作り) (マリア地蔵)
☆飯田線、大糸線の旅 (2004.4.12〜14) (2004.4.26記)
今回のローカル線の旅は、飯田線と大糸線を選んだ。
具体的なコースは次のとおりである。
▲東京==>豊橋==>伊那市(羽広温泉宿泊)==>岡谷==>松本==>信濃大町==>南小谷==>平岩(姫川温泉宿泊)==>糸魚川==>富山==>大阪▼
当初飯田線沿線の高遠町の「こひがんざくら」をみたいなという気持ちであったが、宿の選定などの関係から少し無理な行程になりそうということがわかり残念ながら諦めざるを得なかった。しかしといってはなんだが今回の沿線の各地は大体においてちょうど満開の時期に当たりあちこちで目を楽しませて貰った。
もちろん飯田線の車窓から左側遠くに見える雪を山頂付近に残す南アルプス、右側近くに見える中央アルプスの山容、中央線左に見える雪の北アルプスの遠景そして大町を過ぎてから見る北アルプスの息をのむような峻険な各山々の白の美しさを満喫させて貰ったことはいうまでもない。
さて、今回の小旅行においても特に記しておきたいような出会いとか感想はいくつかあるが、別のページ(ここ)に掲載しているので訪問して頂ければ有り難いと思う。
よく旅はそれを思い立ったときから「どこへ」「いつ頃」「どの経路を通って」「どんな宿に」など計画を立てるところが一番楽しいなどといわれる。わたしにとってもそれは同じで大きな楽しみである。
いつもなら大版か小版かは問わずとも時刻表片手にいろいろと計画を練るところであるが、今回は少し趣を変えてすべてネットでやってみることにした。
まず列車時刻の探索はパソコンに「駅すぱあと」というソフトを入れているが、時刻に関してはあえて使わないことにして「えきから時刻表」(URL:http://ekikara.jp/)を使うことにした。
詳しいことは省略するがこのページを訪ねると、まず県名別に区分された日本地図が出てくる。今回の例でいえば飯田線の始発駅のある豊橋のある愛知県を選ぶところから始める。すると愛知県下の路線図が出てくる。JR飯田線をクリックする。駅時刻表が出てくる。発駅の時刻のところをクリックするとその列車の停車する駅名と発着時刻が一覧表になって出てくる。このような順序で次々に調べていけばいい。
また、私鉄やバスの時刻についてはその会社のサイトにアクセすれば見ることができるので、これも活用したい。
次に宿探しは、泊まりたい宿の所在する市町村のホームページを訪ねその中の観光案内のページを探す。たいていのところはこのようなページを開設しているので大いに助かる。気に入った宿が見つかればネットで申し込みのできるところが多い。宿へのアクセスなどについて詳しいことが知りたい場合は、市町村の観光関係部署にメールで問い合わせをすることも一つの方法であると思う。たいていは親切な返事を貰える。
飯田線は豊橋から岡谷まで205.2q、92駅、6時間46分の旅となる。途中愛知県・静岡県・長野県にまたがって線路は延びている。3県境界の駅は「小和田」である。
今回は伊那市駅で途中下車しバスと徒歩で約50分ほどのところにある広羽温泉に泊まった。宿の前から見ると東の方角に盆地を挟んで遠く南アルプスが望める高台に位置しており眺望のいいところである。クルマであれば高遠まで足を伸ばすこともできるところである。翌朝風呂場で隣り合ったおじさんが、昨宵は高遠の夜桜を見物してきたと話していた。毎年来ているが満開の日に当たったのは初めてだったと言っていた。

(飯島駅構内の桜) (北アルプスを背にした松本城公園)
翌日は、飯田線終点の岡谷で中央線に乗り換え、松本、信濃大町、南小谷と乗り継いで大糸線の平岩まで行く。松本で3時間くらい時間を取ってぶらぶらした。まず松本城へ、ついで明治9年に建築され昭和39年に現在地に移築された重要文化財指定の開智学校へ、そのあと松本市美術館へ行く。
松本から大糸線になる。糸魚川まで105.4q4時間7分の旅である。今日の泊まりは平岩下車の姫川温泉である。大糸線は名前は優しい姫川沿いに走っている。この姫川がまだ記憶に新しい大水害を起こしたその川なのである。その名残のような大石小石があちこちにごろごろとな転がっている。
平岩駅で下車したのはわたしを含めてたったの2名であった。温泉のある駅にしては寂しい限りである。宿の主人が言っていた言葉が今も耳に残っている。「7年前の大水害が不景気を背負ってやってきた結果がこのざまです」と。丁度バブルの崩壊と重なったと言うことであろう。この日の宿泊客はわたしを入れて3名とのこと。
3日目、糸魚川までまた姫川沿いに下っていく。大石小石ごろごろの感じが続く。両側から山肌の迫った川筋が続く。少し雨が降れば急斜面を滝のように流れる様が目に浮かぶような気がする。
糸魚川駅に入線するときの車内アナウンスでエッと思ってしまった。ここは新潟県だからてっきりJR東日本のエリアだと思っていたのになんと西日本といっているではないか。そういえば松本からの電車は南小谷までだった。ここから乗り換えた電車は少しばかりオンボロだなという感じがした。そういえば駅のホームや駅名板などもどこかしら違いががあるように思える。南小谷からJR西日本エリアとなっているようだ。
糸魚川からからは北陸本線で富山に出る。なんと電車は嘗ての寝台列車(上下2段の)の車両を使っている。外はどんより曇っているがまだ降り出しそうにはない。電車はほんとに淡々としてという表現がぴったりの感じで走り各駅ごとに止まって行く。

(嘗ての寝台列車現在の普通電車)
富山では大阪行き特急サンダーバード32号まで約3時間あるので駅前の観光案内所で行き先を相談する。まず市役所庁舎の展廊から富山市の360度を展望する。生憎の曇天で遠くの方の景観を見ることはできなかった。目の下の城址公園内の富山県近代美術館は工事中で緑色の網を被っていた。
このあと富山県水墨美術館に行く。市電に乗るかしばらく迷ったが、約2キロ余の距離30分と見て往きは歩き帰りに電車を使うことにした。県庁前から歩き始め途中で神通川の長い橋を渡る。二筋の流れは上流の雪解けもあるのだろう濁って水量も多いようであった。
水墨美術館はその名にふさわしい和風の広い庭に囲まれた落ち着いた建物である。常設展示は「近代水墨画の系譜」と題し竹内栖鳳、横山大観、菱田春草、川合玉堂、入江波光、村上華岳、前田青邨、小林古径、小松均たちの画が展示されている。その中に横山操の画もあった
。

(水墨美術館の庭園)
☆久しぶりの富士五湖 (2003.11.29〜30)
(2003.12.29記)
私事になって恐縮であるが、去る10月1日でいわゆる「古希」と称される歳になった。自分自身としてはとても古来稀なほどの年齢という意識もなく最近ではごくごく当然のことのような認識しかない。別に大してめでたいこととも思っていないが、娘夫婦がこの日を記念して富士五湖巡りでもしようかと誘ってくれた。
11月初めに予定しようとしたが、お互いの都合がうまく合わず下旬になってしまった。今年は紅葉の時期も遅れていたので好天ならば却って丁度よい時候になるはずであったが、数日前からの予報どおり生憎の悪天候になってしまった。
朝出発するときから雨。折角のドライブもさっぱりである。中央高速を利用せず甲州街道を行く。途中相模湖で一休みと思ったが、雨脚が強く休む気にもならずそのまま素通り。河口湖畔まで予定どおりの時間で到着。
雨が強い、公営駐車場があったので駐車しようとしたところ明日河口湖マラソンがあるので今日は駐車禁止とのこと。参加者たちが雨の中を走ることにならなければいいがと思うが、どこに停めようかと暫くうろうろした。
ここで甲州名物の「ほうたう」を食べる。山梨県のあちこちに何回も来ているのに「ほうたう」をこれまで食べた記憶がない。信玄ゆかりというから戦陣で食べたごった煮うどんといってよいのだろうか。
今日の泊まりは、山中湖畔である。雨で湖畔一周もできず宿に少し早めに着く。宿の女主人と話していたら、車で10分くらいのところに近年できた温泉施設があってそこを泊まり客に紹介しているが評判がいいという。
宿にも温泉があったが、早速われわれも行ってみることにする。割合大きな露天風呂が二つ、サウナや大きな湯船が二つ三つ結構時間つぶしの可能な施設である。連日家族連れなどで賑わっているという。「紅富士の湯」が温泉の名前である。そういえば前回山中湖畔で泊まったときには温泉なんてなかったから、近年開発されたのだろう。
露天風呂に浸かっているとき雷鳴のようなズンと腹に応える音が割合低いところから聞こえてきた。そのときは雷だとばかり思っていたが、宿に帰って話をしているときにそれは米軍だか自衛隊だかの砲弾演習の音だと改めて知った。
雨は一晩中降り止まず、翌朝も雨である。そろそろ出発しようかという8時半を過ぎた頃から小降りになった。
鳩首凝議の上今日のコースを決める。
山中湖を半周し富士市方面に向かい須走口から5合目までのドライブ、富士市を目指し白糸の滝、朝霧高原、本栖湖、精進湖、西湖から河口湖で今回の富士五湖巡りを締めくくることにすることにした。
幸いなことに途中白糸の滝で少し降られた程度でほとんど雨には祟られなかった。ただ残念だったのは5合目までのドライブウェイは1週間ほど前に冬季閉鎖になっていて2合目あたりまでしか果たせなかった。
この日撮った写真の数枚は、先に「お気に入りの写真」にそれぞれ”本栖湖畔からの富士””山中湖畔からの富士””白糸の滝(富士山麓)”としてアップロードしているので見ていただけるとありがたいと思う。
☆秋の六甲山縦走コースを歩く (2003.10.31)
前日(30日)に、まや山のオテル・ド・摩耶で50年ぶりに集う会があった。もちろん六甲は初めてではないが、いちばん新しいときをとってもももう20年以上も前のことになろうかほんとに遠い昔のことである。
阪神大震災を挟んでその後の神戸の元気な姿を見るまたとない機会でもあると思い喜んで参加することにした。
三宮から友人たちとタクシーに相乗りで摩耶山に向かった。神戸の地理に疎いのでどこをどう走っているのか定かでないまま、どこに震災があったのだろうかと思うような街を過ぎて行った。被害の大きかったのは海岸に近い地域が中心だったとか。
六甲山にはたぶん表六甲ドライブウェイを上がったのだと思う。どうもドライブウェイに入るまでの道筋がはっきりしない。上にあがってから左に折れて摩耶山に向かったと記憶しているのでこのドライブウェイを辿ったのは間違いないのだろう。
運転手さんの話では今年は秋の訪れも少し遅れていると言うことであった。たしかに山の景色はまだ紅葉には早いようでほとんど色付いていなかった。
翌31日皆と別れ1人で六甲山縦走路を歩き六甲ケーブル下駅まで出ることにした。
ホテルを出てすぐ「摩耶山天上寺」がある。ここは厄除けの秘仏十一面観音と釈迦の生母摩耶夫人(まやぶにん)をまつる安産腹帯発祥の名刹といわれている。境内は昨日歩いているので、今日は参詣道入り口への階段を下りて車道に併設されている従走路に出る。

まだ早い時刻なので車はほとんど通らない。途中穂高湖という湖があったので左へ折れて湖岸に出る。小さなダム湖である。湖岸に神戸市立の青少年自然体験施設があった。

再び車道に戻り今度は神戸市立六甲山牧場に向かう。ここでは羊を飼育しているらしい。左側に飼育小屋やチーズ工場などの建物があり、右側の斜面は牧場になっているようである。途中で一群の羊と出会う。羊たちが車道を歩いている間は車も一時停止である。実にのどかな風景。レストランで休憩し羊ミルクでのどを潤す。

いつまでも車道を歩くのは能がないので自然遊歩道の標識を見つけそちらに進む。ここでも遊歩道は時々車道をまたぐようになっている。丁字ガ辻に出たところで下山の遊歩道が見つからずウロウロしていたとき、足取りも軽そうな登山姿の人と会ったので尋ねた。もう少し先にアイスロードに出る道があるという。その人もどうやらそこを下りるつもりらしい。見失わない程度に速度を早めついて行く。ふとその人が立ち止まり振り返ってこの道というように指さしをしてくれた。あわてて頭を下げる。こちらがその場所に着いたときにはその人の姿はもう見えなかった。ずいぶん歩き慣れた人である。
しかし、ここにはアイスロードに通じる旨の標識らしいものは何もなかった。
そこからはつづら折れの石ころだらけの急斜面の山道を下ることになった。目に入る周りの山に気を取られる余裕もないが、紅葉の色は飛び込んでこなかった。何度か転びそうになりながら1時間あまりでアイスロードに出た。
そこからは文字通り大型の車がぶんぶん走る車道を身に危険を感じながらケーブル下駅まで歩いた。何とか駅にたどり着いたときは本当にホッとした。

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従走路の話はここまでにして、下山後大阪の友人黒田氏に数日前に教えてもらった「無料の公衆電話」の写真を撮るために、梅田地下街に立ち寄った。阪急電鉄からの階段を下りてすぐ近く、地下鉄梅田駅の改札口や阪神百貨店に近いところにそれはあった。
写真を見て分かるように公衆電話機の下にあるディスプレイに通話を始める前に10秒程度のCMが表示される。設置者はそのCMを見てもらうことで無料のサービスを提供しているのであろう。さすがに大阪だと思わせる感じがしたのだがどうだろうか。

☆水郡線、磐越西線、只見線の旅(2003.7.29〜30)
今年1回目(次の目処が立っていないので今回だけに終わるかもしれないが)の「ローカル線を楽しむ旅」は、とりあえず近間のローカル線を選ぶことにした。
例年ならもうとっくに明けていなければならない頃なのに異常気象といってもいいような長梅雨で7月29〜30日にかけても生憎の雨模様であった。それでも訪ねる場所への道すがらはそれほどひどい降りにもならずまずまずの旅ができたように思う。
最初にクイズめいたことを言うようなことになって申し訳ないのだが、一緒に考えていただければと思う。今回の訪問地は水戸と会津若松である。宿泊地はそのいずれでもなく猪苗代にした。水戸では水戸市が市制施行100周年を記念して建設した水戸芸術館を訪れた。会津若松では飯盛山の「さざえ堂」の見学をメインに据えた。
JR切符の購入の条件として、始発駅から帰着駅まで通しの切符を買うことにする。つまり1枚の切符で行って帰ってくるのである。JRの切符購入に当たっては経由地ではなく経由線を記入することになっているのはご存じのとおりであるが、経由線だけでは実際にどこで乗り替えるのかわかりにくい場合がある。そこでわたしは購入票だけではなく経由地(駅名)を記載したメモを付けて窓口に出した。
そのメモは、武蔵小金井−−>上野−−>水戸−−>郡山−−>会津若松−−>只見−−>小出−−>浦佐−−>大宮−−>南浦和−−>西国分寺−−>武蔵小金井、となっている。
もうこれだけごらんになればJR路線を一度もダブることなしにぐるっと回って帰ってくることができるのはおわかりのとおりである。
これが実際の切符に経由路線がどのように記載されていたかというと、中央東・常磐・水郡・磐西・只見線・上越・高崎線・武蔵野・中央東、となっていた。
注意していただきたいのは只見と高崎に「線」という字がくっついていることである。考えてみるとこの両者は経由地としての駅名と線名が同じであるので、おそらくそれが理由で「線」を付けるようにしているのだと思われる。
今回このプランを作成するに当たっては図書館の大冊の時刻表のお世話になったのであるが、実際に手元に時刻表を持たないであれこれ調べるのは大変である。毎月発行される時刻表を個人で購入するのはとても無理なことで手元にある古いものを使うことがままある。時刻改正があった場合など間違った時刻をベースにしてしまう危険がある。
今回は、インストール済みの「駅すぱあと」の活用もさることながら、インターネットのこのサイト( http://ekikara.jp/)のお世話になった。
まず都道府県から選択し、出てきた路線図から線を選び駅時刻表・路線時刻表を使う。駅名の読み方などもわかる。暇のあるときなどいろんな目的にも使えるように思う。
前回水戸にきたのはいつだったろうか。茨城県立近代美術館ができてまもなくだったと記憶している。
今回は平成元年に水戸市制100周年記念に開館した水戸芸術館を訪れることにした。事前に調べたところでは、施設は音楽、演劇、美術の各分野で市民が発信できる場を提供するのだとあった。ユニークな文化活動に大いに役立っている総合文化施設ということであろうか。
8月の展示替えの時期で美術関係の企画展はやっていなかった。また時間の都合で展示場、劇場や音楽ホールの見学は省略せざるを得なかった。
この施設のひとつの見物として、100周年に因んだ100メートルのタワーがある。写真に見るような奇妙なキューブの組み合わせでできているのだが、建設に当たっての困難な工事の様子などビデオで見ることができた。
タワーと展望窓から見た仙波湖、近代美術館、県庁などの遠望を出しておく。

水戸で乗車したとき水郡線の車両は気動車の2両連結で、後ろ1両は大子行きとなっていた。すでに夏休みの筈なのになぜかしら高校生が多くほぼ満員の状態であった。男生徒も女生徒も例外なく携帯電話を持っておりなにやらカシャカシャやっている。日本各地どこへ行っても同じ風景が見られる。
初め平地を走っていたがやがて山間部に掛かってくる。大子を過ぎてしばらくしてそれまでの山間を抜けて川を挟んで両側に区画の大きい水田が広がってきた。どうやら福島県に入ったようである。このあたり福島県中通りの西寄りになるのだろうか。なにやら穀倉地帯といったおもむきがする。
水郡線の大きな特徴は、単線にありがちな対向列車待ちがほとんどないことであるといってもいいのではないだろうか。本当に少なかった。
窓の外は弱い雨が続いている。
水戸で2両連結であった車両は大子から1両となり郡山に着いたときは当然1両である。郡山で磐越西線に乗り替えを待っている間にふと水郡線のホームを見ると折り返して水戸行きになる列車はいつの間にか3両連結になっていた。

郡山は新幹線の乗り替え駅でもあるし貨物の中継地ともなっているようである。たまたまこの時間帯は各ホームとも列車の往来が多かったように思えた。郡山から会津若松を経て喜多方方面へ行く磐越西線は電化されている。6両連結である。冬はスキー客が多いのだろうか。こちらも5時前という時間からか高校生や中学生の姿が目に付く。しかし混むという状況にはほど遠い。相変わらずの雨模様で窓外の展望は全く楽しめないままである。
翌30日も雨である。ふつう旅行というとあそこも見ようここも見ようと手を広げがちであるが、今回は初めから時間の都合もあり水戸もここ会津も1カ所だけと絞っている。
駅前からまっすぐのびる広い道を進めば白虎隊で有名な飯盛山にたどり着く。今日の主目的は国重要文化財の「さざえ堂」(旧正宗寺・円通三匝堂<えんつつうさんそうどう>)の見学である。
ここ飯盛山も2度目か3度目であるがさざえ堂の記憶が全くないので初めてのつもりになる。
説明によると、「寛政8年(1796年)郁堂和尚が考案建立したもので六角3層高さ約16メートル、昇降別々のらせん形通路により階段がなく一方通行で上下するという日本唯一、世界にも例のない名建築とされている。」となっている。
切符売り場のおばさんは、「行きも帰りも二度と同じ道を通りません。不思議な建物」といって見学者を呼び込んでいたように思うが正確ではないかもしれない。何か狐につままれたような変な気がした。入り口に飯盛山正宗寺開祖残夢大禅師の座像が安置されており、出口には全く同じように円通三匝堂郁堂禅師の像が安置されているので同じところに出たような気がするが位置は全く逆のところであった。

いよいよこれから待望の只見線である。直通で小出まで行くのは一日に2本しかなく、途中只見で乗り換え連絡のあるのと併せて3本しかない。
13時8分発は小出までの直通分である。これが子供たちに人気のトロッコ列車やSLになったりするのであろう。生憎今日は平日だからふつうのディーゼルカーである。この頃になって旨い具合にしつこい雨も一応上がった模様である。
走り出してかなり時間が経ってからやっと気が付いたのであるが、会津盆地というのは随分広い盆地であることよ。約50分間会津坂下を過ぎるまですっと盆地のほぼ真ん中を走り続ける。穀倉地帯である。旨い酒も産するわけだ。
一体いつになったら只見に入るのだろうかと心配になりかけた頃列車はやっと上り勾配にかかり始めた。しばらく山あいを進むうちに幸運なことに雲の切れ間が覗き始めた。
そういえばこの気動車は洒落た冷房装置を持たず天井の扇風機が風を送ってくれるようになっている。そういう意味で雨が上がると小さく窓を開けることができるので有り難い。
割に広い川が続く。そのうちに時々谷間に渓谷がずっと下の方に見えるところも出てくるようになる。が、やがてダムらしい水量の豊かな湖面沿いを走るようになる。堰堤や水門らしいものが時々目に入るところからすると多段式のダムなのだろうか。只見まで3時間弱走ったのであるが、ここまでずっと会津地方なのである。

好天のときにもういちど走ってみたい線である。湖面というか水面というかそこに色とりどりの車両を映しながら進んでゆくというのは思っただけでも楽しい気がする。
只見を過ぎて長いトンネルをいくつか過ぎるとそこは新潟県魚沼群である。あの田中角栄の入広瀬村などを通過していくことになる。
☆春の大阪近郊あちこち (2003.4.16日、18日、22日)
春と秋の2回は必ず墓参りをすることにしている。たいていはわたし一人ということになってしまっているが、それだけ身軽でその序でにあちこちと足を伸ばすことが多い。
両親の墓は大阪箕面から更に北の方に入ったところにあるので車か一日に数本しかない定期バス(北大阪線千里中央駅から約1時間)の利用ということになる。精進さえよければこの時期墓地のあるあたりは山桜が満開ということが期待できるのだが、生憎今年は当日雨模様で花を愛でるどころではなかった。
1.4月16日
大阪造幣局の桜は有名なのでご存じの方も多いと思うが、日時を限定して一般公開されるのが通例となっている。この日は朝からからっと晴れ上がり絶好の花見日和となった。今年の通り抜け花見の最終日前日ということであった。
10時開門と聞いていたので少し早めにと思って9時40分頃に行ったのであるが、もう既に大勢の人が並んでいるような状況であった。すぐ後ろに並んでいた人たちの会話を聞くともなく聞いていると「ここの通り抜け花見も今年で終わりらしい」と話している。来年以降どんな形で公開されるのかあるいは公開されないのかわからないらしい。
それなら尚更よいときに来たという気がした。通り抜けできるのはおよそ7・800メートルというところだろうか。幅数メートルの道の両側に種類の違う桜が今を盛りと咲き誇っている。人混みと人の流れが途切れることのない状態なので写真もゆっくり撮れない。
今年の花は「関山」ということであった。
帰途入門口とは反対側に出たところすぐそばにOAPタワービルという高層ビルがあった。立て看板を見ると通り抜け花見の期間中30Fを無料公開していると出ている。これを見ないてはないとばかりすぐ上に上がった。窓は片側にしかなかったが左手に伊丹空港方向、正面右手に生駒山、ずっと近く右下側に大阪城が見える。そしてもっとすぐ近くの下に造幣局の桜が見える。高いところからの花見もまたいいものである。
なんだか随分得をしたような気分で地上に戻った。

2.4月18日
この日も晴天。
今日のコースは、JR奈良駅起点==>興福寺境内==>奈良国立博物館==>春日大社==>二月堂・三月堂==>東大寺==正倉院==>般若寺==>奈良県立美術館(特別展「大和を描く 杉本健吉展」)==>JR奈良駅である。
県立美術館に着くまでの行程訳3時間弱と踏んでいたのであるが、正倉院から般若寺に行く途中標識のとおりに歩かず近道できないかと通りかかった地元の人に尋ねたところ教えてくれたのであるが、その人の教えてくれたとおり歩いたつもりがどこかで間違ったらしくおよそ1時間近くのロスをすることになってしまった。般若寺に着いたときはもう1時をとっくに回った時間になっていた。この般若寺の見物は日本で一番高いといわれている十三重石塔である。また秋には庭一面にコスモスが咲き乱れ、一名コスモス寺と呼ばれている所以であるとか。
帰途東大寺近くの依水園で時間外れの昼食に食べた麦とろが旨かった。大体奈良に来るとここに寄ることにしているのであるが、火曜日が定休日であったりして毎年というわけにはいかない。庭が非常にいい。このところ外人客が多いそうである。もう営業時間を終了するという時刻であったが、相客は一組みで多分フランス語だろうを話す若いカップルであった。

3.4月22日
たまたま手に取った旅行雑誌「旅」に古寺逍遙というページがあり毎月全国の名刹を紹介しているのを知った。その中に兵庫県三木市の伽耶院というのがあった。多宝塔は国重要文化財である。国宝の仏像もあるようだが特別展示のとき以外は見られないようであった。静かな片田舎のお寺であるから本当に静かなもので観光客の姿もごく僅かであった。同じバスを降りた二人連れ、後からやってきた10人足らずのグループ、いずれも全員女性である。
このあたりも阪神淡路大震災の被害を受けたようでこのお寺の山門2基が現在修理中であった。ふと石垣の修復碑を見ると平成13年となっていた。
ここに行くために初めて神戸電鉄粟生線に乗った。三宮から途中新開地で乗り換えが必要である。神戸市の後ろに立ち塞がる山地を地下で抜けて山間を抜けて行くと広々とした台地になっている。三木市はこういうところにある。新興住宅地でもあるが、全体としては田園地帯である。伽耶院からの帰途バス停の少し先の方を山陽自動車道が走っているのが見えた。

☆北海道道南旅行 (2003.3.18〜20日)
もう4か月近くどこにも出掛けない日が続いていて、いささか閉塞感にとらわれていたとき弟から電話があった。2月末の頃である。夫婦で行くつもりで南北海道名湯スペシャルというコースを申し込んでいたところ、どうしても義妹の都合が付かなくなったので行く気はないかというのである。
わたしはどちらかというと自分で計画を立ててのんびりと行く方が好きである。あらかじめ用意されたコースをガイド付きで回るのは海外旅行を除いてほとんどくやっていない。旅先で同行者と同室することはたとえ親しい友人でもお互いに気兼ねなものである。日数が長くなればなるほど折角ののんびり期待が思わぬストレスを貯めてしまうことにも繋がることがある。
しかし、4か月も旅行していないことによる閉塞感を考えたとき同行者が弟ということもあって応じることにした。それに料金を聞いたときに思わず安いという言葉がでてしまったくらいであったから。往復航空機利用で函館湯の川温泉、洞爺湖温泉に2泊しそれなりの観光地を巡るというコースで一人約2万6千円という。後で聞いたところによると受付開始後しばらくは話中で繋がらず1時間余りで受け付け終了となったということであった。
もちろんわたしはもう何回目かの道南旅行にはなるのであるが、いつも季節のいい頃しか行っていないのでこの季節の道南もまたよかろうという気になったということである。
この季節ということを強調したが、案の定というかやはりというか3月下旬近くとしては珍しく雪が舞う日になった。特に長万部から洞爺湖にかけては吹雪の中を走ることになった。それでも恐らく見られないだろうと思っていた昭和新山は前後10分くらい写真を撮る間雲が途切れてくれたし、最後の日洞爺湖は快晴で湖全体の展望がすばらしかった。展望写真はここをご覧いただきたい。
そして洞爺湖から札幌に抜ける中山峠は快晴の中雪の白さが目に染みるようであった。高い木々の中途に見た目にはふんわりした雪玉ができていて落ちないで引っ掛かっている不思議なオブジェのような風景が目を楽しませてくれた。
久しぶりの温泉を満喫した。ホテルの設備もまあまあだし、この歳になると贅沢な食事も量も必要がないので十分であった。不満の残ることもないではなかったが、たまにはパックツアーも悪くないなという気持ちである。閉塞感は一時的に解消された。
往復とも航空機は各社のツアー客で満席であった。よく考えてみると観光シーズンから見れば季節外れのこの時期に航空会社も、バス会社も、ホテルも、土産物屋も、それぞれの従業員たちもそれなりに活動できるということはお互い幸せなことだと考えていいのではないだろうか。たとえわずかな稼ぎにしかならなくてもとそう思う。これだってわれわれも参加している立派な経済活動の一環である。
参考までに今回のコースを書いておく。
◎第1日目:羽田−−>函館−−>トラピスチヌ修道院−−>五稜郭−−>元町界隈−−>函館山−−>湯の川温泉
◎第2日目:大沼公園−−>長万部−−>洞爺湖−−>昭和新山−−>洞爺湖温泉
◎第3日目:中山峠−−>札幌市内散策−−>小樽市内散策−−>新千歳−−>羽田
☆東京近郊の湧水とせせらぎの道 (2003年1月12日 快晴)
今住んでいるのは小金井市であるが、このあたり武蔵野台地が多摩川に近くなって段丘差を形成しているいわゆる国分寺崖線(がいせん)の走っていいるところである。この崖線はあちこちで湧き水をもたらしている。それがこの辺では野川と呼ばれる川になって流れている。野川についてはこのサイトを参照していただきたいが、この野川は崖線沿いに上手の国分寺市あたりから始まって小金井市、三鷹市、調布市、狛江市世田谷区へと続き多摩川に合流する。
この崖線を左手に眺めながら野川を下っていくコースをいつかご案内したいと思うが、今日は国分寺市の更に上手の立川市から国立市にかけての崖線を源とする矢川のあたりを歩いてみた。このコースはある食料品企業の株主向けPR雑誌に掲載されているのを見て知った。
コース:JR南武線矢川駅−−>矢川橋−−>矢川緑地保全地域−−>ママ下湧水−−>南養寺−−>谷保の城山歴史環境保全地域・国立市古民家−−>谷保天満宮−−>JR南武線谷保駅
このコースは東京都が選定した「雑木林の道」のうち「矢川・青柳コース」と呼ばれるものらしい。矢川橋から矢川緑地保全地域にかけては特に案内標識はなくてもすぐにわかる。自動車の流れの途切れる間もない甲州街道に小さな橋を見つけ右に折れると幅3メートルくらいの川を上流に向かう。対岸の木々の影で水面はほの暗く続いているが、かるがもが数羽浮かんでいるのが見えた。途中小学校があり校庭沿い(塀やフェンスがなく柳や桜の木があるだけのようだった)に進むとすぐ矢川緑地保全地域に到着する。この地域の右前方少し高くなっているあたりをJR中央線が走っている。

このあとママ下湧水に行く道はわかりにくい。とにかく車の切れ目のない甲州街道を渡る。ママというのはこの地域の言葉で崖のことをいうらしい。前の方を見て少しでも段丘差のありそうな低くなっているところがないかと探してみるが、標識もなく非常にわかりづらい。犬を散歩させている若い女性に尋ねると中央高速の高架沿いに行き左に曲がる道を行けばいいと教えてくれる。何か標識のほしいところである。ママ下湧水はなかなか見つからない。丁度道路拡幅工事を行っているところに当たっているらしいので尚更わかりにくい。やっと崖線沿いに流れている細い用水のような川を見つけたが、湧水の箇所は今ひとつはっきりしなかった。

このあと南養寺、谷保の城山歴史環境保全地域・国立市古民家への道も標識らしいものもなく出会う人に聞いてもよくわからない。大体崖線も小金井のあたりのように際だった段差もないところがあって多分この方向に行けばいいのだろうくらいの頼りなさである。国立市古民家もどうやら工事中のようだった。
こういう自然の景観保全や古文化遺産の保全などに関して、東京都と地元自治体との連携が旨くいっているのだろうかといささか危惧の念も抱かされた。標識の件もそうであるし道路工事との関係でもその感を強くした。城山ではその一部が民有地で現に住居として使用されている区域があり立ち入り禁止の注意書きが出ていた。この問題も地域全体の保全との関係で難しい課題になっているのだろうと想像される。
南養寺の手前にまだ新しい国立市の郷土歴史民俗資料館があったので入館したかったが、今回は時間の関係でまたの機会にすることにせざるを得なかった。
何度も道に迷いながら、それでも何とか谷保天満宮にたどり着くことができた。

矢川駅午後2時30分に出てここまで約2時間15分。
最後に天満宮の本殿裏の湧水を見ることができたので、「湧水とせせらぎを見る散策」としては一応全うできたということだろう。
わたしが参加している研究会:ネットワーク研21(ネットワークやパソコンの研究会)
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