のだめカンタービレ
マルレから帰ってすぐ、コートをかけてタバコに火をつけた。
ウィーンに連れて行くと約束したあの晩以来、なんだかんだ(主にテオからの呼び出しで)と忙しくて。
(・・・疲れた、めちゃくちゃ疲れた)
ふう、と一つ息を吐いて、ソファーに沈み込む。
それでも、少しずつ会員も戻ってきていて、それに伴う忙しさ(事務だけど)なのだから疲労感も心地よい。
(もうメシ食ったかな)
そんなことを考えながら、あいつのことを考える自分に苦笑する。
こんな時は、正直あいつの隣という特等席から離れたことを少しばかり後悔する。
あのメロディーが聞こえないから。
のだめのピアノの音が恋しい。
(本当に、昔の俺が聞いたら、卒倒間違いナシだ)
携帯を鳴らしながら、また笑みが零れた。
Rhapsodie du nodame
「明日の午後、時間がとれそうなんだ。」
『ふぉぉ、先輩、ホントですか?』
「うん」
耳元で上がった奇声に携帯を耳から離し、落ち着いた頃を見計らって元に戻す。
「おまえも休みに入ってるんだろ?」
『むきゃー!嬉しいデス!』
「どこか行きたいところとか・・・」
俺の言葉に、のだめは『あ!』と言葉を遮り『のだめ、行きたいトコあります!付き合ってくれますか?』と弾むような答えが返る。
「じゃー俺がそっちに・・・」
『何言ってんデスか?待ち合わせデスよ!待ち合わせデート!も〜真一クン、決まってるじゃないですか〜!』
のだめの無駄に浮かれる声に、待ち合わせ場所の約束をして「マルレ出る前に連絡するから」と伝えて通話を終えた。
半纏を着こみ、こたつで喜んでるだろうなって想像できる。
想像はできても、いつもそれを上回ることをしでかす"のだめ"という生き物。
明日はどんな"のだめ"に会えるのか、楽しみであり・・・少々恐ろしくもあり。
離れてしまって、余計にあいつのことを考えてたりする・・・なんてことは、死んでも知られたくない。
* * *
朝から、嫌な予感はしていた。
事務所前で怒り心頭のシモンさんにすれ違った時から。
あの時、本能に従って事務所の扉を開けなければ・・・。
「今から出るから。」
慌ててコートを羽織ながら、肩口に携帯を挟み込んでデスクをちらりと見る。
(おいおい、今日は顔出すだけでいいって言ってたの誰だよ?)
こそこそとパソコン画面に隠れるテオを睨みつけながら、12時どころか15時になろうとする腕時計の針に内心冷や汗が流れた。
昨日あれほど終わらせておく!と豪語していた会報の製作作業と名簿作りがまったく進んでいなかったんだ。
シモンさんが怒って帰っても仕方ない。
(で、俺が手伝うってのもおかしいよな!?)
(しかも3時!?3時間オーバー!?ありえねえ・・・!)
やばいぞ!このままじゃ!
ここのところ、のだめに負い目を感じることが続いているというのに、これじゃあまりに酷い。
せめてもの救いは、連絡を入れるまで、のだめがアパルトマンで待機してることだ。
『も〜仕方ないですネ〜働くお父さん・・・』
「誰がだ!誰が。お父さん言うな。・・・なあ、おまえが言ってたとこって、まだ大丈夫なのか?何か食べた?」
ランチか何かだったら、随分待たせてしまったことになる。
チクチクと、罪悪感から胸に痛みが走る。
『まだダイジョーブです!それに、ターニャが美味しいご飯ご馳走してくれたから、お腹もいっぱい』
そういう俺自身、何も食べてないから腹が空いてる。
何か食べるのは、とにかくのだめと合流してからだな。
「じゃあ、教会前で」
『はい、気をつけて来て下さい』
事務所の扉を閉めて、ポケットに携帯を突っ込んだ。
嫌な予感はこれで終わりにしたい。
・・・と願う時に限って、トラブルは雪だるま式にやってくるもので。
いつの間にか走り出していた俺は、すでにその雪だるまに巻き込まれていたらしい。
悲鳴が聞こえたのは、待ち合わせのサン・ジェルマン・デ・プレ教会の尖塔が見えたところでだった。
「な?」
きゃーという悲鳴の後に響いた声は「泥棒ー!」というなんとも分かり易い日本語で。
振り向いた先には、旅行者らしき日本人。20前後の女性2人。
突き飛ばされたのか、一人は通路でうつ伏せになり、もう一人は「バック盗られたー!」と大声で喚いている。
俺は一瞬立ち止まって、すぐにブランド店の袋を通路に撒き散らして騒いでいるその二人に近づいた。
「Ne me touche pas!」
助け起こす親切なおばさんの後ろで、背の高い男が便乗犯よろしく道路に落としていたバックも奪おうとしている。
俺の声に反応して、杖を持ったおじいさんがそいつを撃退して、男は慌てて反対方向へ逃げていく。
追いかけようか迷ったが、深追いは危険だと知っているから、とりあえず泣き喚いている2人連れに駆け寄る。
フランス語で話しかけられても(大丈夫?だとか怪我は?という言葉だったけど)、パニックしてるからかまったく耳に入っていない様子だ。
突き飛ばされた女の子は座り込んだまま泣いていたし、コートからハンカチを出して渡しているもう一人は「なんなのよーーーー!」と半分キレかかっていた。
「大丈夫?怪我は?」
俺が声をかけると、その二人は一瞬顔を見合わせた。
「何を盗られたの?」と覗き込む俺に「日本語〜!」と見事に声を合わせて俺に抱きついた。
――これは何か、悪い呪いでも掛けられているんじゃないか?と本気で考える。
「バック、と、デジカメが・・・!」
「バックの中身は?」
最悪の状況に出くわしてしまったらしい。
パスポートなんて入れてるなよ!?と俺も青ざめる。
「財布とパスポート!ってか、あのバック、さっき買ったばっかりなのにぃ〜!」
「・・・警察と大使館、行った方がいいね。足、歩ける?」
二人の女性に抱きつかれたままの俺は、とりあえず荷物を集めてくれた通行人に「メルシー」と頭を下げる。
「大使館どこですか!?」
「警察行くんですか?どうしよう〜ゆうちゃん呼ぶ?あ、携帯充電切れてる・・・!」
「あたしのは、バックの中〜!もーどんだけえ!?」
仕方がない、このままここにほっとくわけにもいかない。
「大使館の近くだから、警察も。・・・・送っていくよ。」
「あの、あの、携帯貸してもらえますか?こっちに居る友達に連絡取りたいんで。」
「でも、携帯ないと連絡先わかんないよ〜!」
「わ〜あの、ユウタ君って知ってます?カワサキ ユウタ君」
「いや、ごめんわからないな。(わかるわけない。誰だよ、それ。)番号、控えとかないの?」
「実家にあるかも!」
(国際電話かよ!?)
突然舞い込んだこの騒動に、涙目になりそうだった。
結局、警察について行き、「紛失届け証明書」の手続きを何故か俺がして、その間に彼女たちは俺の携帯で日本に電話をかけ(向こうとの時差8時間・・・向こうもびっくりだろ)、カワサキ ユウタ君(パリ在住)とやらに連絡をつけた。
その足で大使館に向かい、「ありがとうございました」「後は日本語通じるので」と頭を下げる彼女たちから、ようやく携帯を貸してもらい、俺は解放された。
「そういえば、あの人どこかで見たことない?」
そんな声が背中で聞こえたけど、俺はもう全速力で駆け出していた。
今、いったい何時だよ!?
時計はもう16時・・・27分!?
「携帯!」
握り締めていた携帯を走りながら開いて、愕然とする。
「電池切れ!?」
なんでこんなことに!?と改めて今日の我が身の不運さを呪う。今度こそ間違いなく、寒空の下で待たせてしまっている。
のだめを思って、あいつじゃないけど「ぎゃぼー!」と叫びたくなる。
いや、あいつのことだから・・・・ああ、待ち合わせであいつを待たせたことがないから、何をしてるか想像つかない。
のだめも連絡をくれたかもしれない。
ずっと通話中だっただろうし、今となってはメールすら確認できない。
「くそっ!」
今はとにかく走るしかない。
(もう居ないか?いや、いっそ居ないほうがいい!アパルトマンに帰っててくれ!)
もう祈るような気持ちで教会前まで走る。
腹は痛いし、何も食べてないから気持ち悪い。
ようやく見えてきた教会の前。
そこには、俺の願い虚しく、うずくまるようにしゃがみこんだのだめが居た。
「のだめ!」
胸が苦しい。
息は切れ切れで・・・こんな寒い中ずっと待ってたのかと思うと、大きな塊が喉の奥に詰まったような感覚になる。
のだめは俺を見つけるとのろのろと顔を上げ、まるで捨てられた仔犬のような顔をして恨めしそうに俺を見てる。
俺が故意にしたことは一つもなく、悪くないけど、やっぱり俺が悪いんだよな?
ゆらりと立ち上がったのだめが、それでも両手を広げて俺にしがみついてきた。
俺は冷たくなったのだめを抱きしめる。
「せんぱい〜なんで携帯通じなかったんですか〜。はうぅぅ〜」
情けない声を出すのだめの髪に指を絡めると、仄かにシャンプーの香りがした。
ああ、ちゃんとシャワー浴びてきたんだ、なんて思うとまた申し訳なさが増す。
「とりあえず、充電させてください・・・のだめ、先輩が足りません・・・」
のだめはそう言って、すうっと大きく息を吸い込んだ。
(今日ばかりは、自由にさせてやろう)
道行く人が微笑んで手を振るから、俺は真っ赤になって俯いた。
「む、むむむ・・・・真一くん・・・浮気してたンですか?」
「へ?」
「充電・・・できません・・・真一くんの匂いじゃない・・・香水の匂いがしまス・・・」
「あ!」
「はううぅぅ・・・妻を待たせて浮気・・・」
「違ーーーうっ!これは、だな、日本人観光客が・・・」
今までのことをどう説明したものか。
スリに遭った日本人観光客に出くわして、抱きつかれて、警察行って手続きして。
携帯も盗られもう一つは充電してないからって携帯も貸し出してて・・・・
それから・・・。
「観光・・・?あーーーーー!先輩っ、今何時デスか!?」
「え、あ、もう17時・・・」
「ぎゃびーーーーーーーーーーーー!」
「なんだ、どうした!?」
灰になったように、俺の腕の中でくったりするのだめを揺すって、顔を覗き込む。
そうだ、どこか行きたいって言ってたんだ。
「のだめ、おまえどこに・・・」
「オルセー美術館・・・」
「オルセー?」
「初見・・・したから・・・今度はちゃんと先輩とアナリゼしようと・・・」
「あ・・・それじゃ今から!」
「でも、もう閉館時間デス・・・」
ずーんという効果音まで聞こえてきそうな気がする。
もう、今日はとことん駄目な日なんだろう。
確かに、あれからオルセーにも行けなかった。いろいろ勉強して、のだめが自分からもう一度俺と行きたいと思ってくれたのに。
「・・・のだめ」
「なんデスか?」
悪い、と思う。
心から。
だけど今は、とりあえず。
「俺、腹へったんだ・・・なんにも食ってなくて。今日は、マルシェで買い物して、呪文料理作るから、それで許して」
壁に寄りかかって言った俺を、のだめは覗き込んで汗で張り付いた前髪を指でつまんで、くすりと笑った。
「先輩、一人で運動会したみたいデスよ?」
「うん、疲れた」
「・・・何があったのか、呪文料理作りながら教えてくれますか?」
「ああ、もちろん。・・・ごめんな?」
「ホントに浮気じゃない?」
「そんな余裕ないって」
「のだめはいい妻だから、信じてあげます♪」
得意げに言ったのだめに、思わず笑みが零れる。
寒かったよな?
手を繋いで歩き出すと、のだめは「なんだか充電できてるみたいデス」と寄り添った。
「・・・俺も充電したい。のだめ、なんか弾いてくれよ」
「なんだか今日は甘えん坊さんですネ?いいですよ〜千秋真一作曲"のだめラプソディー"なんてどデスか?」
「それお前だけで弾けないダロ?」
「あう〜そうでした。」
今日の埋め合わせは、ウィーンでしよう。
二人でいろんなとこ行って、同じもの見て、そして一緒に感じよう。
アパルトマンでのだめの弾くピアノを聞いて。
今日は俺も、久しぶりにのだめの為に弾いてやろう。
――のだめラプソディーを
2008,1,12
400000リクでいただきました。
のだめ、初ですよ。
リクで初物・・・どうなんでしょう〜!?
というわけで、40万HIT j-hinさんからリクいただいた「のだめ」でしたー。
あああ、千秋くんがかっこよくならない><
そして何がしたかったんだ!?私。
Lesson107〜Lesson108の間の一日、という感じで。
楽しかったです。リクありがとうございました!