のだめカンタービレ






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「ぎゃぼ!!先輩、忘れ物しちゃいました・・・!」

車に乗り込もうとしたところで、のだめが奇声をあげた。

『先輩、じゅーでんしに行っていいですか?』
午前中オフだった俺に、のだめが電話を寄越した。
何をするでもなく、俺のアパルトマンで一緒に過ごし、オケの練習の時間になるからとアパルトマンから出てきた時だった。

先ほど開いていた楽譜をそのままソファーに置いてきたらしい。
時計をちらりと見て「俺もう時間ないから」と上着のポケットから鍵を出して渡した。

「午後練習あるんだろ?遅れるなよ」
「はい。勿論デス」

渡してから、俺はここに越してから、のだめに合鍵を渡していないことを思い出した。
思い出した、というのもおかしなことだけど、渡すタイミングもなかった。
お互い忙しかったし、改めて鍵を渡すという行為に照れもあった。

「・・・帰りそっちに寄るから」
「あ、のだめが届けに行きますヨ?先輩何時になるかわからないでしょ?」

レッスン終わったら届けマス。
口を突き出すようにして言うのだめは、だけどすぐに笑顔になる。

「ああ、悪いな」
「それじゃ、先輩気をつけて!」

笑顔ののだめに見送られながら、俺は車をスタートさせた。

・・・のだめはどう思ってるんだろう?

新しいアパルトマンを訪れるあいつは、今までとは少し違う。
ふざけたことを言ったり、マーキングとばかりに皿やプリごろ太の本を置いて行ったり、洗濯物からシャツを持って行こうとはするものの、必要以上に寄生行動をとるようなことはなくなった。
ようやく人間らしくなったといえばそれまでだが・・・のだめが年相応の振舞いを見せることに、なんというか、どこかしっくりこない自分がいる。
俺に対して、あいつでも踏み込めない領域というものを感じているのだろうか?

・・・離れておいて、こんな言い方も変か。

バックミラーをちらりと見れば、まだ俺を見送っているのか、見慣れたコート姿は別れた場所から動いていない。
小さくなってゆくそのシルエットは、通りを曲がるまで動かなかった。

次にいつ会えるのかも話していなかったな。
ああでも、鍵持ってくるんだ。今日はまた会える・・・。

先に見えなくなったのは俺のほう?
それとものだめだった?




* * * * *





オケの練習を終え事務所へ戻ると、テオが「チアキ、奥さんから預かったよ」と笑顔で封筒を差し出した。
「奥さんじゃねー!」と言い返したけれど、テオは大きな口を開けて幸せそうにパンを頬張り人の話なんぞ聞いちゃいない。
俺が溜息を吐いて封筒を持ち上げると、今度は「チアキ、それ何が入ってるの?」と興味深そうに訊ねる。
中身、見てなかったのか。

「鍵だよ。アパルトマンの。」
「へー・・・そういえば、チアキが引越したのって、奥さんと別れたから?」
「は?」

引っ越して随分経つというのに、今頃そんな質問をされるとは思っていなかったから、思わず間抜けな声をあげた。
だから奥さんじゃねぇって言ってるだろうが!
そう言いかけたのに。
だけど口から出た言葉は。

「・・・あそこは学生向けのアパルトマンだから」

"結婚してねぇ"って言わずに、そう答えたのはなんでだろう?

「音が溢れてて、楽譜静かに見れる環境じゃないんだよ」

テオはさして深く聞き出そうと言う気はないらしく「そうなんだ」と、またパンを頬張る。
その隣で封のされていないそれを開けて鍵を取り出した。
とくにメモも入っていない。

「あいつ何か言って・・・」
そうテオへ視線を移すと、「楽譜を片付けるのを手伝え」と、シモンさんが現れた。
引きずられるようにして連行されるテオを見送り、携帯を取り出してみる。
特にメールも電話もない。
今日は事務の手伝いも免れそうだし、買い物でもして帰ろう。

「こんな早く帰れるなら、鍵持ってきてもらわなくてよかったな。」

今はのだめも課題で忙しいのに。
わざわざ届けてもらわなくても、俺が三善のアパルトマンに行けた・・・。

そこまで考えて頭を振る。

・・・・いやいや、忘れ物したのはのだめだ!
なんで俺が申し訳ないような気持ちになるんだよ。

俺の思考回路も、随分のだめ仕様になったものだ。
自分自身に呆れつつ、俺は事務所を後にした。




* * * * *





ワインや明日の朝食べる果物などを詰め込んだ袋を抱え、のだめが届けてくれた鍵を差し込んで回した。
扉の脇にある電気のスイッチを入れる。
いつもと変わらない一連の流れ。
扉を閉め、鍵をかける。

何故かわからない、けど・・・。
何故か冷やりとした。

・・・。

この感覚・・・?

肌で感じたデジャヴュ。
これは、演奏旅行から帰って来た時に感じた焦燥感。

室内を見回してみる。
特に何も変わった様子はない。
テーブルの上に置いた買い物袋。
買ってきたりんごやワインを袋から出すこともせず、ソファーに座る。
もともと、片付いている。
今朝家を出たときと何も変わりない。

それなら、まさかのだめのヤツ、何か置いていったとか?

ソファーから勢いよく立ち上がり、思わずベットをめくって見たり、シャワールームの扉を開けた。
そうしながら、それは"見られている"と感じるものではないのだと、はっきりする。

そこにあるはずのものが、ない。

ようやく気づく。

あいつの物(マーキング)が・・・ない?

のだめが置いて行った本がない。
『置いていくな』と言った時にはどこ吹く風で『愛蔵版デスよ!』なんて言っていたくせに。
こっそり・・・夜中にパラパラと読んだりもしてたのに。

「まさか?」

思わず呟いて、キッチンに視線を移す。
家を出る前に洗って伏せたマグカップ。

それも一つしかない。

のだめのカップだけだけがなくなっていた。

どういう・・・ことだ?

確かに、あいつ用の物なんかなくたって、ちゃんと客用のものがあるから『持って帰ってくれ』と言った。
言ったけど。

胸の中が渦巻く。

この喪失感は、なんだ?

あいつ、居なくなるつもりか・・・?
俺から、離れるつもり?

だから、持って帰ったのか?

思わず携帯を取り出した。
躊躇する気持ちより、焦燥感が勝った。

いつもなら、こんなことないのに。

あそこで誰かを待つのは嫌だと思った。
幼い頃の寂しさが込み上げてくるから。

でも、本当は、場所なんて関係なかったのかもしれない。

こんなのは嫌だ。
たまらない。
離れるつもりなんて、これっぽっちもないぞ!


『アロー?』
「のだめ、お前っ」
『どしたですか?先輩。のだめの携帯なんだから、のだめしか出ませんヨ?』
「んなこと、わかってるっ、そうじゃなくて、」
『鍵、頼んでたのちゃんと受け取りました?テオさんに封筒渡したンです』
「今、アパルトマンだ。で、お前、もう、ここに・・・」

こないつもりなのか?

言葉にすることができず、思わず喉の奥に飲み込んでしまう。
飲み込んだ所為で、胸が苦しくなった。

『あ、もうバレちゃいました?』

俺の焦燥感や喪失感をまったく気づかない、憎らしいほど清々しい声が返ってきて「・・・は?」と聞き返してしまう。
バレちゃうって・・・なんだよ?

『実は今、先輩のアパルトマンの前まで来てるンデス!』
「え?」

がたっと音をたてて、窓の下を見下ろした。
街灯の下、携帯片手に話しながら歩いていた人影が立ち止まり、俺を見つけて手を振る。
のだめだ。

『今、行きますね』

ブツ、と携帯は切れて窓の外からは「うきゅー」という奇声。
何がどうなってるのかわからず、頭に疑問符が並ぶ。
次には理解できないのだめの行動に腹がたってくる。

なんだってんだ?

ドアをノックされ、俺は幾分不機嫌な顔で扉を開ける。
いや、疲れた顔、だろうか。
だけど、扉を開けた先には、得意げな顔ののだめ。
あんまり嬉しそうな顔してるから、ささくれていた気持ちも萎む。
それにしても、思い切り振り回されている。

「今日は早く終わりそうだって聞いたので、夜食を届けにきました!」

のだめはそう言うとふろしき包みを俺の顔の前に突き出した。
中身は・・・おにぎりだろう。
それしか考えられない。

「・・・?先輩?なんでそんな難しい顔してるんデスか?」
「人の気も知らないで」
「なんのことデスか?」

のだめの差し出した包みを受け取ると、ずっしりと重い。
それに、やけにゴツイおにぎりがある。

「のだめ、これ"夜食"だけじゃないだろ?」
「あ・・・」

のだめは目を逸らして「うきゅ〜・・・」と唸り声のような呟きを漏らして「割っちゃったんデス・・・のだめのカップ」と洩らした。

「割っ・・・た?」
「楽譜取りに来て、喉が渇いたなあって・・・ミネラルウォーター飲もうとして・・・落っことしちゃって・・・」

俺はテーブルにふろしき包みを置いて、結び目を解いた。
中からは皿に載せられたおにぎりと・・・マグカップ。

割れたのか・・・。
ほっとして、溜息が零れる。

「先輩怒ってますカ・・・?」
「怒ってねぇよ。だいたい、お前が持ってきたカップだろ。」

力が抜けて、ストンと椅子に座って頬杖をついた。
ゴミ箱開けてれば、問題は解決してたってことか?
のだめは「これだけじゃ寂しいですネ?」と期待に満ちた目を俺に向けた。

まったく、俺がどれだけ焦ったと思ってんだよ!

「・・・簡単な物しか作れないぞ。」

椅子から立ち上がる俺にエプロンを手渡して、のだめは椅子に座って「厨房のマエストロ」と呟く。
腕まくりをした俺は、そのままキッチンに向かわず、ベットサイドのチェストを開けた。
手にしたそれを「ほら!」とのだめの目の前に置いた。

「真一くん?」
「ここの合鍵だ」
「ふぉぉ・・・!」

恥ずかしさからすぐに背を向けた。
フライパンを出してコンロに置き、そっと盗み見れば、両手で小さな鍵を持ってにやけるあいつの顔。

「あ、お前、シャツ盗みに来るのは駄目だからな!」

慌てて言えば、「わかってますよ」と目を逸らす。
絶対盗みに来そうだ・・・と予感しつつ苦笑して、それでも、部屋の中が温かくなっていくのを感じてた。
欠けていた何かが、満たされていく。

「先輩、プリごろ太なんですけど」

せっかく優しい気持ちに包まれたというのに、のだめから出た言葉は"プリごろ太"。
呆れながら、それでも部屋からあの愛蔵版プリごろ太が消えていたことを思い出して、振り返ってのだめを見た。

「フランクが日本語のままでも是非見たいって言ってたので、今日持って行っちゃったんデス。寂しいだろうケド、少しだけ貸してクダサイ。」
「寂しくなんてねぇー!」

こここんな理由かよ・・・!

激しい脱力感に襲われたけれど、それを上回る何かが、美味しいものを作りたいと俺を急かしていた。
合鍵に頬を摺り寄せる・・・変態な恋人を・・・愛しく思いながら。








2007,1.29






マーキングさえ、すでに生活の一部(笑)

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