風光る / *史実バレ







立ち止まり、真っ青な空を見上げて、空高くたなびく白い雲を見た。
赤とんぼが群れをなして、そのどこまでも広がる空を仲睦まじそうに舞う。
すすきの穂が風に揺れて、気持ちよさそうにさわさわと音をたてる。
まるですすきと戯れるような風は、心地よく私の着物の袂を揺らした。
内緒話をしているようなその風音に、私は聞き入る。

「・・・暑い夏が苦手でしたものね、ようやく涼しくなりほっとしたのでしょう?でも、そんなにくるくると回ると、目が回りますよ」

思わずそう声に出して微笑むと、訝しげに周囲の人が私を見る。

(またやっちゃいました)

心の中で呟いて、そっと懐に手をあて目を閉じる。

(――沖田先生、そこにいらっしゃるんでしょう?)








恋 、 花 片 









じっとりとした汗が額を流れる。
夏はこれからが盛りなのだから、暑くて当然だ。
蝉の鳴き声が、暑さを煽る。

今日は、何日だったかしら――?

ふとそんな瑣末なことが頭をよぎった。

座り込んでいた私は、流れた汗が急に冷えていくのを感じながら、目に留まったそれに手を伸ばした。
しっかりと握り締められた指を解き、私は掌にちょうどおさまる、その小さな物を取り出した。
まさか、あの時のこそばゆい思い出の、二人して隠した秘密のものを再び手にするとは、思いもしなかった。

懐かしさにそっと指でなぞる。

ふと、誘われるように見上げた静かな庭先を、一陣の風が吹きぬけた。
私は思わずくすりと笑みを零し、開け放たれた障子の向こうの陽だまりに視線を移す。

「沖田先生、隠れていたって、わかるんですよ?」

同じようにくすくすと忍び笑いを漏らして、「いやだなぁ、そんなつもりないですよぅ?」と、ここのところ聞くことのできなかった明るい声が耳に届く。
悪戯っ子が母親に叱られるのを待っているような声色に、私は胸のうちに湧き上がる愛しさに息を詰める。

「だって、それ、私が持っていたこと、きっと怒っているでしょう?」
「それで隠れて居るんですか?呆れましたね。私は、ただ驚いたんですよ。もう二度と手にすることはないだろうと、思っていましたから・・・。」

表の飾りを指でなぞり、ほんの少し残っていた温もりにそっと頬をすり寄せた。
もう10年も20年も昔のことのように感じた。
まだほんの数年前の出来事なのに。
だけど。
二人だけの秘密を葬ったのは、つい昨日のようなのに・・・。

「ずっと、持っていらっしゃったんですか?」

声に咎めるような響きが混じり、沖田先生は「やっぱり怒ってる・・・!」と声を小さくした。
「怒ってません!」と言い返し、思わずぷうっとむくれてしまう。
そんな私の様子にまた笑って。

「近藤先生がいらっしゃった時に、持ってきてくださったんですよ。土方さんから預かったと。」
「まあ!それじゃあ、丸々三月も内緒にされていたのですね。」
「そんな膨れっ面しないでくださいよ。これはね、だって、私の大事な宝物なんです。」

庭先で草を揺らして遊んでいた風が、まるで私にとりなすように畳の上を通って、カタカタと襖を鳴らす。
ふと、ここのところ顔を見せなかった黒猫が、垣根を飛び越えて現れた。
みゃあ、と可愛らしく一鳴きして、傾きかけた陽のあたる草の上に降り立つ。

「あぁ、またこの黒猫は来たのですね。あんなに来ちゃ駄目だって、追い払ったのに。」
「沖田先生が、本心からそうされていないと・・・わかるのですよ。」

あんまり懐いてくるものだから、先生はついに刀を手にして追い払おうとした。
もはや、刀を振るうだけの力が残っていなかったけれど。

「ふふ、あの黒猫、神谷さんのようにしぶとかったですね。ついにここに居ついてしまいました。」

黒猫は気持ちよさそうに伸びをして、お気に入りの石の上で尻尾を揺らして丸くなった。
私はそっと視線を自らの指先に戻し、震える指先で二つ折りのそれをなぞる。
山南先生に託した、私たちの秘密。

「この神谷さん、本当に可愛らしいですよね。初めて会った、市ヶ谷八幡の、桜の精がそのまま大きくなったような、愛らしい姿で。ずーっと、私の手元に残して置きたいなぁって・・・・。」
「・・・え?」
「本当は、私以外の誰の目にも触れさせたくないって思ったんですけどね」

土方さんと近藤先生は・・・まあ、特別に見せて差し上げました、そう嬉しそうに紡がれる声には、確かに愛しさが滲んでいて。

その声に導かれるように、漸く、ポトガラを開く。

「夫婦図のよう、ですよね」

沖田先生は、照れながらくふっと笑った。




ああ、あの日の


先生と、私。


先生の優しい眼差し。


可愛いと言ってくださった、あの日。


いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも


共に過ごしたいと、願った


あの日々――。




一気に胸に押し寄せた想いに、私は片手で口を押さえる。

「ね、私たち思いのほか、お似合いですよねぇ。・・・なんて、今頃言うのは卑怯ですかね?・・・おセイさん。」

日の光りに浮かび上がるような微笑みを見せる先生に、私は目を細めた。
瞳の奥から、ぶわりと涙が浮かんでくる。

「・・・ぅ・・・・っ」
「覚えていますか?あの日、私が言ったこと。」

私は瞳から溢れてきた熱い涙を懸命に拭いて、喉に張り付いてしまった声の代わりに、大きく頷いた。
先生の顔が、涙で霞む。
駄目よ、もっと、先生の笑顔を見ていたい。


『いつかこれが、どちらかの形見になる時が来るかもしれない』


「その時が、きちゃいました。」

先生は「ごめんなさい」とぺこりと頭を下げて、苦しそうに眉を顰めた。

「涙・・・ずっと、堪えていてくれたんですね。私があなたの涙を拭く係だというのに、ここのところさぼっていましたからね。」
「お、きた、せん、せ、   せん   せ、」
「もう、おセイちゃんは、泣き虫なんだからなぁ」
「おっ   、た 、  せ  、 んせ・・・・!」

苦しくて、言葉にならず、私はポトガラヒーの中に佇む沖田先生に呼びかける。


沖田先生、泣き虫は嫌いですか?
「嫌いじゃないですよ、でも笑顔のほうがずっと好きです」
お傍に居たいと、願うのはいけませんか?
「居ますよ、いつも。」
沖田先生、沖田先生、沖田先生!
『私は、いつも、あなたの傍に、こうして神谷さんの、おセイちゃんの手の中に居ますからね。』
「い   や、 い やで す、おいて  、 いか な いでっ」

しゃくりあげる私に、また風が纏わりつく。
あまりに震えて、私はポトガラヒーを布団の上にぽとりと落とした。
その先に。
蒼白な顔で、目を閉じ、横たわる――沖田先生を見つめた。

『あなたの帰りを待っていられなくて、ごめんなさい』

膝をするようにして、ようやくにじり寄ったその枕元には、肺を破ったかのような血溜まり。

「先生っ、先生っ・・・!」

いくら揺すっても、沖田先生はぴくりともしない。
意外なほど穏やかなその顔に、水が落ちる。
ぱたぱたと音をたてて、血で汚れた先生の顔に、私の涙が零れ落ちる。

「沖田先生っ!」





昨晩から、酷く苦しそうで。
明け方、ほとんど声にならない声で「神谷さん」と呟いて。

「近藤先生は・・・・どうされたでしょうか・・・・・便りは、来ませんか・・・?」

何も知らない先生は、そう仰って。

「どうか、神谷さん、八幡さまに・・・・お参りを。近藤先生のご無事を・・・」





「せんせっ・・・ひとりで、さみしかったっでしょ・・・っ・・・・!」

甘えん坊の、元来寂しがり屋のこの方の最期に、どうして、お傍にいて差し上げなかったのか・・・!
沖田先生の我儘など、聞かなければよかったのに。

八幡様へのお参りから、走りづらい着物で駆けて戻った私の目には――。
いいえ、知っていたのかもしれない。
貴方は、だから、私を遠ざけたのかもしれない。

冷たくなっていく貴方の頭を抱いて、私は声を殺して泣いた。
乾いた風が、私の身体を吹きぬける。
あれほどお傍に上がることを禁じた声も、もう聞こえなかった。

一人で、逝かせてしまった。

『いいえ、私はいつも神谷さんと一緒でしたよ。』

いつか「細い腕だ」と私を笑った先生。
今では刀を振るうことさえできなくなった、私よりずっと細くなった腕とか細い指は、しかし、愛刀をしっかりと握り締めて。
その痛む胸に、大事な刀と共にポトガラヒーを抱いていた。

『女子の、神谷さんは、私だけのものだったんですよ。いつもいつも、こうして、抱きしめていました。』

聞こえないはずの声が、庭先から聞こえる。
私は沖田先生の冷たくなった顔に自らの頬を寄せ、瞳だけを庭先へ向ける。

『ああ、ようやく貴女を、思い切り抱きしめられます』

風が髪を揺らす。
まるで私を包み込むように、風が纏わりつく。

「沖田先生、風になられたのですね」

風になりたいと願った先生。
そうして近藤先生の凧を 大空へ舞い上げるのだと言った。
私は、あなたの居場所を知らせる、野にある草であろうと。

『あなたは、真っ直ぐ前を向いて、歩いていきなさい。私は、いつだって、そんなあなたから目が離せないんです』

また風が吹き、草や木々を揺する。
その場所に、眩いほどの光りが降り注ぐ。
それはまるで、風を包み込むような光り。



「・・・沖田先生、近藤先生がお迎えにいらっしゃいましたよ」



沖田先生が、子どものような無邪気な顔で、嬉しそうに笑ったような気がした。







(沖田先生)
懐に忍ばせたポトガラヒーに、そっと呟く。
(いつも、一緒です。)
思わず笑みが零れる。
先生を想う時は、いつも。

「春には、八幡様へ共に参りましょうね。その時には、桜の花びらを舞わせてくださいね」

私が、桜の精に見えるように。

すすきを渡る風が、私を吹き抜け、嬉しそうに空へ舞い上がった。
『もちろんですよ!』と沖田先生が耳元で囁く。
この青空のような、笑顔で。






2007,9,10






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