Troublesome Tornado
love goes on written by 純
「名前を聞くのを忘れちゃった・・・」
小さな小屋の中は水車がゴトンゴトンと回る音と、水の流れる不思議と心落ち着く音だけが聞こえる。日が沈み辺りは夕闇が訪れ、蒼い水面の中のような色合いは少しずつ濃くなり、やがて体に闇が纏わりついていく。
その中央の椅子に両膝を抱えるように座り、ハウルは溜め息をついた。
きっと、あのこの名前は『ソフィー』
机の上の、子どもの頃この小屋とこの場所を提供してくれた叔父がくれた軍艦のペンたてを眺めながら、ハウルは聞けなかった名前を呼ぶ。
「・・・ソフィー」
空に浮き上がったときに感じた、懐かしい思いは、やはり過去で出会ったソフィーだからだろうか?
上手く振り切れた?
今までとは違う、守るべき少女がいる場所がわかる安堵感と不安。
荒れ地の魔女やサリマンの使い魔がうようよしていて、少女から引き離すのに精一杯だった。そんな切羽詰った状況であるにも関わらず、ソフィーの足が軽やかに楽しそうに空を歩くのを見ていると、ハウルの心も軽やかになれる気がした。もう何年も心は空っぽなのに、その場所には換わりにとても重く苦しい宿命を持ってしまった。だからその軽やかさはハウルの心を浄化していくかのように思えたのだ。
魔女たちの呪いは強力ではあったが、逃げ切るのが困難であるほどではなかった。悪魔と契約を交わしたハウルにとっては、そんなに難しいことではない。
それなのに。
「ソフィーの居場所を・・・いつでも見つけられるように・・・魔法をかけたのに!どうして?呪いが発動しない・・・!?」
苛立つハウルはぎりりと爪を噛む。
おかしい。呪いの原理の異なるものが、近くにあった?
僕の呪いを無効にしてしまう何らかの作用が、あのパレードで沸き立つ人込みの中で発動していた?
それは一体誰?そんなことが出来るのは、一体?
ハウルはようやく見つけたソフィーを見失わないように、呪いで印をつけた。誰の目にも見えないその印は、ハウルだけが見えるように赤い糸で自分とソフィーを結びつけた。しかし、荒れ地の魔女の追っ手をソフィーに近づけないように施した呪いと共に、あっさり断ち切られてしまっていた。
荒れ地の魔女の力でもなく、もちろんサリマンでもない。それ以外の魔法使いであるはずもない。そんな強大な魔力を有する者なら、とっくにサリマンが引き入れていただろう。
もっと異質な、それでいてどこか同じ。
「・・・とにかく・・・、探さなくちゃ。」
ハウルは椅子から立ち上がると、ジャケットを羽織って窓の外を眺める。またどこかで、戦闘機がたくさんの爆弾を落とす夜が来るのだ。静かに扉を開けると、腕をじっと見つめる。
次第に胸のうちが暗闇に支配されようとも・・・今は暗闇の住人になろう。ソフィーを守るために。
体中を黒い羽が覆い、両腕を羽ばたかせハウルは美しい花園を後にした。
荒れ地の魔女はハッター帽子店の前に立つと、心底嬉しそうににやりと笑顔を浮かべる。昼間町中にに張り巡らせたハウルを捕らえるための糸は、肝心なハウルを盗り逃したものの、思っても見なかった収穫を得たのだ。
「まさか、こんな古代の強力な呪いを手に入れられるなんてね。これでハウルの心臓は私のものよ!うふふ。どこのどなたかは知らないけれど、気前がいいわねえ。こんな上等な魔力を持つ人間がハウル以外にもいたのねえ。まあ、今はどうでもいいわ。ハウルの大切なものも案外あっけなく見つかったしねえ。」
赤い糸をつん、と引くと中でランプの明かりが灯る。荒れ地の魔女はくくく、と笑って鍵穴を見つめる。がちゃりと鍵が開き、魔女は扉のとってを廻して滑り込むように店内に入り込む。
室内を仄かに照らすランプを見つめ、ソフィーが何気なく振り向くと、そこには異様な雰囲気を身に纏った婦人が佇んでいた。
禍々しいまでの微笑を浮かべ、値踏みするかのようにソフィーを見つめている。ソフィーの背筋にぞくりと冷たいものが走る。
「あの、お店はおしまいなんです。すみません、鍵をかけたつもりだったんですが・・・」
「安っぽい店・・・!安っぽい帽子。」
真っ黒の衣装にぎゅうぎゅうと体を詰め込んだかのようなその婦人は、辺りを蔑むように見回して、ソフィーを見下ろすと吐き出すように呟いた。
「あなたも十分安っぽいわね」
「ここはしがない下町の帽子屋です。どうぞおひきとりください」
ソフィーがつかつかと婦人の前を横切り、そう言いながら店の扉を開けた。
「荒れ地の魔女に張り合おう何ていい度胸ね」
「荒れ地の魔女・・・!」
黒いねばつく風が巻き起こり、ソフィーめがけて突進してきた荒れ地の魔女はにたりと笑うと、まるでソフィーの体を通り抜けるように扉まで移動した。そして、店内を振り返ると楽しいおもちゃを見つけたかのように嬉しそうに笑う。
「その呪いは人には話せないからね。ハウルによろしくね」
店内には・・・荒れ地の魔女に・・・老婆にされたソフィーが背中を丸めて俯いていた。
June 26, 2005