Troublesome Tornado
重なる愛しさ written by 梓音
まんまとソフィーの魔力にはまったことに気づいて、気配を辿って戻ったときには彼女はそこにはいなかった。何も手がつけられた様子の無い、持って行ったときのまま放り出された洗濯物にハウルは辺りを見回す。
「ソフィー!」
『今は一人にして』
呟くような声で外へ向かったソフィーの肩が小さく震えていたことに彼は気がついていた。背を向ける前の諦めたような悲しげな瞳が焼きついている。
どこに行ったっていうんだ!
暗くなってきた空を見上げてハウルは小さく呪文を唱えた。怒る彼女が可愛くてよくからかってはいるものの、ソフィーは本人が思っているほど考えなしではない。先ほどの騒動を見て、さらに彼の現状を知って、カルシファーの忠告も聞いているのだからそう遠くへは行っていないはずだ。
まったく手のかかる娘さんだよ
苦笑してハウルは手の中に浮かび上がってきた糸を手繰っていった。早く出ておいで、僕の子ネズミちゃん。日も暮れたんだから巣に帰る時間だよ
きっと見つからないようにどこかで縮こまっているだろうソフィーのご機嫌をどうやって取り結ぼうかと楽観的に考えていた彼は、けれども途中でぶつりと切れた糸に顔色を変えた。魔法の糸が切れるなんてことは通常では考えられない。ましてや自分が紡いだ彼女の糸が。
ソフィーの気配がここで途切れている?
ありえない事実にハウルは暗くなっても良すぎるくらいに見晴らしの良い花畑に向かって妻の名前を叫んだ。
「ソフィー! どこにいるの? ソフィー!」
眼の届く範囲にあのあかがね色はない。返事も当然返ってこない。
それに彼は言い知れない恐怖を覚えた。
ソフィー、ソフィー、返事を返すんだ、ソフィー!
過ぎっていく考えを振り払いながら辺りを必死に見つめる彼は、神経を研ぎ澄ませて彼女の名を呼び続けた。
そのとき。
『私はここよ? 貴方はだあれ?』
かすかな声が耳元に届き、ハウルの動きはぴたりと止まる。不思議そうな声が頭の中で繰り返されると彼は再度叫び返した。
「何言ってるんだい! 僕はあんたの夫だろう? あんた夫の名前も忘れたの!?」
いなくなったあんたのことが心配でたまらないのに、あんたはまだ怒ってそんなことを言うのかい!
「ソフィー! ソフィー!」
叫んだと同時にハウルは声の主を呼び寄せた。そうして飛び込んできた柔らかい身体を抱えて文句を言ってやろうと睨みつけた彼は、腕の中の少女の姿に瞳を見開く。
これはこの世界の。
「ソフィー・・・?」
「はい。あの・・・あなたは?」
呆然と呟いた彼の言葉に困惑したように答えた彼女は、銀の髪を揺らして彼を見上げた。力の抜けた腕の中からさっとすり抜けて、少しだけ警戒したように自分を見つめてくる少女を彼は暫く言葉もなく眺めていた。が、すぐに大声で笑い出す。
僕としたことがソフィーとこの娘さんを間違えるなんて!
あまりにも馬鹿馬鹿しくって笑うしかないよ、と自嘲しながら笑い続ける彼を、目の前の彼女は不気味そうに窺っている。そのどこか怯えたような瞳にハウルは漸く笑いを止めて彼女に向き直った。
「あの・・・どこかでお会いしましたか?」
名前を知っているなんて、と続ける彼女にハウルは首を振った。
「だったら何故・・・」
「間違えたんだ。僕の奥さんがソフィーといってね。本当は彼女を呼んだんだけど、返事を返してくれなくてさ。それでやっと聞こえた君の声に呼び寄せちゃったんだよ。」
本当にごめんね
そう言って彼はぱちんと指を鳴らして暖かなストールを取り出すと、お詫びだよと彼女の肩に優しくかけた。
「あなた、魔法使い?」
「そうだよ。魔法使いを知っているのかい?」
「ええ・・・とても。とてもよく知っているわ。」
悲しくなるほどに
そう言って瞳を伏せた彼女をハウルは黙って見つめた。心が求めているのは相変わらずあのあかがねの髪の少女だったけれども、目の前の少女も放ってはおけなかった。
「ごめんなさい。こんなこと言ってしまって。」
「構わないよ。同じ魔法使い同士だし、何か判ることもあるかもしれない。もしそれで君の心が少しでも楽になるなら話してごらんよ。」
穏やかに話しかけると目の前の少女は暫く示唆するように考えこんだ後、ゆっくりと口を開き始めた。
「夢を、見たの。怖くて切なくて愛しい夢を・・・わたしの言葉を遅いと否定されたけど、それでもわたしは彼を愛してる。」
見上げた瞳は先ほどまでの頼りなげなものではなく、彼の良く知る少女と同じ輝きを宿していた。
「たとえそれが現実になったとしても、わたしはきっとそう言い続ける。けれどもそれが彼の重荷になるのなら・・・・」
「それはないよ。」
苦しそうに眉を寄せて悲しい覚悟を口にしようとしたソフィーの言葉を、ハウルは静かに否定した。震える肩が妻と重なる。
ああ、そうだ。あんたはいつだって他人のことばっかりを心配するんだってことを忘れていた
『あんたに何かがあったら怖いわ。』
怒ってばかりのくせにふとした拍子に浮かぶ不安げな瞳をこの世界で何度も見てきたというのに。
そう思いながらハウルは彼の言葉に顔を上げたソフィーの手をとって、嵌められた指輪を彼女の前に翳した。
「これはその彼がくれたものだろう?」
「判るの?」
驚いたような声にこれでも魔法使いだからね、と軽口を返しながらそっと触れる。
「君を護りたいって叫んでいるよ。彼はね、ただ怖いんだ。君の優しさに期待してしまう自分がね。」
「わたしの優しさ?」
「そう。嬉しくて怖いのさ。だから最後の一歩が踏み切れない。君が大切で大好きだから。」
そうだろう、『ハウル』。
心の中でもう一人のハウルに話し掛けながら、そうなのかしら・・・と呟くソフィーに彼はそうだよと念を押した。彼女は無言のまま暫く指輪を見つめていたが何を思ったのか、もう一度彼の前に指を翳す。
「ソフィー?」
「お願いがあるの。」
「何だい?」
「あなたにもし可能なら・・・・この指輪の魔法を解いてもらえないかしら。」
続いた言葉に瞳を見開いた彼に彼女は続けた。
「護ってくれるのはとても嬉しいの・・・でも、わたしも護りたい。」
だからどうか、と見上げる瞳に彼は苦笑した。
「困ったね。」
「駄目かしら?」
がっかりしたような顔に彼は再度苦笑する。本当に困ったよ、『ソフィー』の頼みだと何でも叶えてやりたくなるなんてさ!
「魔法使いさん?」
「良いよ。こんな遅くに若い娘さんを外に連れ出したお詫びにね。」
彼の言葉にほっと安堵の表情を浮かべた少女が、自分を『娘さん』と呼ばれたことに疑問を持っていないことをおかしく思いながら、ハウルは手の上に乗せられた指輪の魔法を彼の想いだけを遺して取り去った。そうして。
「これは僕からのプレゼント。」
君たちの行く末を心配している僕のソフィーへの
思いながら低く紡いだ呪文に指輪の石が呼応して一瞬だけ燃えるような色を浮かべる。それを見たソフィーは驚いたように指輪を覗き込んだ。
「何をしたの?」
「代わりの魔法をかけたんだよ。」
「代わりの魔法?」
不思議そうに繰り返すソフィーに頷きながら、彼は離れた彼女の手をもう一度取る。
「どうしても駄目だと思ったら一度だけこの指輪が君に力を貸してくれる。だからよく考えて使うと良いよ。」
君の不安が杞憂で終わるように
そうして僕のソフィーが望む未来を手繰り寄せることが出来るように
さまざまな意味合いを込めて囁いた言葉に目の前のソフィーは素直に笑顔を浮かべてお礼を口にする。それにどういたしましてと丁寧に腰を折って答えた彼は、顔を上げると同時に腕を一振りした。
「そろそろ帰ったほうがいい。君の異変に気がついて彼が戻ってこないうちにね。」
僕も奥さんを捜さないと
言ってふわりと浮いた彼女をもとの道筋へ帰そうと呪文を口にし始める。
「待って! こんなにしてもらったんだもの、あなたの名前を教えて!」
「魔法使いさんで良いよ。僕はそう呼ばれるのが好きだから。」
言って彼は手を振った。同時に彼女をはらんだ空間は掻き消え、あとには静寂が広がっていく。
「・・・ハウル?」
送り返したときに彼女の肩から落ちたストールを拾おうと屈んだ彼の耳に届いた声に彼は驚いたように顔を上げた。
目の前にいるのはあかがね色の髪を持つ少女。紛れもない彼の妻のソフィーだった。
「ソフィー・・・?」
ほんとに?
呆然と呟く彼に彼女は訝しそうに眉を潜めて近づいてくる。そうして目の前に来てもまだ信じられないというように見てくる夫を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「どこにいたの、ソフィー」
「どこってあそこの小屋よ、あるでしょう?」
少し言いよどんだ彼女の指差す方向には確かに暗がりで判りにくいものの、小屋が見えた。それは彼がこの地に城を落ち着けてからすぐにマイケルに確認させにいったものだが、先ほどまでは存在すら判らなかった。
ということは。
「結界か・・・」
「ハウル?」
解けた謎を口にした彼をソフィーは不思議そうに見遣った。彼の結界と小屋の結界。二つの結界の結合点を通り抜けたときにソフィーの気配も一度分断されてしまったんだろう。
今は何も感じないそこはすでに何の気配も残してはいなかったけれど、誰がかけたものかも彼には見当がついていた。
でも、そんなこと今はどうでも良い
思って彼は見上げる彼女を強く強く抱きしめる。
「・・・無事でよかった、ソフィー」
「何言ってるのよ。そんなこと当たり前でしょう。」
危ないところに行っていたわけじゃないんだから
鼻を鳴らして答える彼女はすっかり先ほどのことを忘れてしまったようにハウルに噛み付いてくる。それに嬉しさを覚えて彼はより一層彼女を抱きしめた。
「苦しいわよ、ハウル」
「我慢しなさいよ。放りっぱなしの洗濯物を見たときの僕の気持ちが少しでも判るんならね。」
意地悪く言ってやると彼女はう、と黙り込む。そうして小さな声で悪かったわ、と呟いた。
「本当にそう思ってる? ソフィー」
「思ってるわ。」
「だったら・・・」
今夜は何でも言うことをきいてくれるよね?
囁いた言葉に真っ赤になったソフィーは慌ててハウルの腕から離れる。
「あんたってどうしてそうなの! せっかくちゃんと言おうと思ったのに!」
ここに戻ってくるまでに何度も何度も練習したのに!
言って更に悪態をつこうとした彼女はまたもハウルに抱きしめられた。
「判ってるよ。」
「ハウル?」
「ごめん、ソフィー」
あんたを傷つけるつもりなんて無かったんだよ
耳に落ちてきた声にソフィーは瞳を見開いた。そうしてそのまま彼の胸に顔を埋める。
「あたしはただあんたの助けになりたかったの。」
「うん。」
「お願いだから一人で抱え込まないでちょうだい。」
考えなしなあたしだけど、いないよりはましでしょう?
胸元で呟かれた言葉にハウルは苦笑した。この娘さんは何度言い聞かせれば、この戯言を口にするのを止めるんだろう
「あんたがいるから僕は逃げないでいられるんだよ、ソフィー」
昔の自分だったらこんなに必死に帰りたいとはきっと思わなかった。
顔を上げた彼女の額に彼も額を押し当てながら、真っ直ぐに見つめてくる瞳を覗き込んだ。
「・・・本当ね?」
「本当だよ。」
僕の言うことが信じられないかい?
緑の瞳をいつになく真剣にして見つめてくる夫にソフィーは溜息をついた。仕方ないわね
「今回だけよ?」
睨みつけて念を押す彼女にハウルは嬉しそうにうんうんと頷く。それにソフィーも釣られて微笑んでいると城のほうから二人の名前を呼ぶマイケルの声が聞こえてきた。
「そういえば放ったらかしにしてたわね・・・」
「そうだった、戻ろう、ソフィー」
遠くから呼んでくる声は心配に満ちている。帰ったら叱られるのかしら、と思ったソフィーは夫の手を取りながらも、夕食はマイケルの好きなものにして早々に寝てもらおうと決心するのだった。
October 10, 2005