Troublesome Tornado
彼女と彼の邂逅 written by 梓音
珍しくマイケルと出かけてしまったハウルを見送って、ソフィーは溜まっていた洗濯物を干しに取り掛かった。せっかくの良いお天気なんだし、とパン!と張り巡らしたロープに次々と掛けていく。
「まったく何を調べに行くのかしらね。」
ひととおり干し終わって風にはためく布をぼんやりと見ながらソフィーは独りごちた。
気になるところがあるからもう一度行って来るよ
朝起きるなりそう行って食事もそこそこに花畑の奥に弟子と共に消えていった夫の後姿を思い出す。何を調べに、と口にしかけた彼女ににこにこと笑いながら、また花をとってくるからと、頼んでもいないのに言ったりして。
「ハウルがああやってぬるぬるしてるときは何かあるのよね。」
いつまでも誤魔化させはしないわよ
憤然と鼻を鳴らした彼女は洗濯籠を抱えて城の中へと戻っていく。ハウルのことも気になるけど、今は城の中で不満たらたらの火の悪魔の話し相手をする方が、優先だった。
「終わったかい、ソフィー」
「ええ、もう大丈夫。お昼の準備まではあんたと話せるわよ、カルシファー」
昨日はどこまで話したかしら?
暖炉の前の椅子に座って、お土産よと彼の上に摘んできた花を散らしながら尋ねると、カルシファーは緑の頭を伏せて考え込んだ。ぶつぶつと聴いた内容を反芻している彼に、昨日はハウルのねばねばで盛り上がっていたものね、と苦笑しながら傍の水鏡に視線を移すと、そこにはハウルとマルクル、そして老婆になったソフィーが、城の移動について話し合っているところだった。
暫くして話がまとまったのか老婆と少年が部屋の端のほうに寄り、ハウルが床に不思議な模様を書き込み始める。そうしてこちらを向いて手を伸ばしてくると彼の手のひらが視界を覆い、次に映像が現れたときは目の前の光景がぐるりを変わっていた。それに確認したソフィーは首を傾げて、いつのまにか彼女の横にふよふよと浮きながら、一緒に水鏡を見ている火の悪魔を見る。
「ねえ、カルシファー」
「ハウルがやったやつ、あっちのおいらが飲み込んでるんだよ、ソフィー」
もしかして、と言いかけた彼女の言葉を肯定するようにカルシファーが答える。
「一番良い方法だね。おいらもそうだけど、城のどこかに隠したらすぐにハウルに見つかっちまう。飲み込んじまえば自分の魔力と混ざって判り難くなるからな。」
「そうなの? じゃああんたももし頼まれたら同じことをする?」
「もちろん。それでもばれるだろうけどさ。ハウルは探し物が得意だから。」
臆病だから何でもかんでもすぐに見つけてしまうんだ
呆れたようにぽっと炎を吐き出して答えるカルシファーの言葉にソフィーは考え込む。ハウルなら見つけてしまう? だったらこのハウルも気がついているのかしら
顔を上げて覗き込んだ鏡の向こうはゆらゆらと落ち着かなげに揺れている。きっとカルシファー自身が安定していないんだわ、と以前見たことのあるこの城の引越し風景を思い出してソフィーはそう結論付けた。動かされることを怖がって震えていた。向こうの悪魔もよほどに怯えているのか、いつもは綺麗に映る室内が陽炎のように揺らめく炎の向こうに見える。
「大丈夫よ、カルシファー」
「ソフィー?」
鏡を見つめて思わず呟いた彼女に傍らの火の悪魔が不思議そうな声を出したが、彼女は構わずにじっと見つめて揺らめく炎を力づけるように話しかけた。
あちらの声が聞こえるんだもの、こちらの声だって届くはず。
「言ったでしょう、カルシファー? あんたはこんなことでは死なないわ。自由になって流れ星だった頃のように空を駆け回れるようになる。絶対に大丈夫。その日が来るまではあんたは何が起こっても死ぬことは無いわ。」
だから今はあんたの出来ることをやりなさい
力を込めて最後にそう言うと、揺れていた視界はみるみるクリアになり、ついで城の中が機械を組み立て直すかのように木枠が外れたり、繋がったりとして段々と別の部屋を象っていく。その様子に上手くいったみたいと嬉しそうに笑って、ふと横を見ると彼女の火の悪魔が呆れたようにソフィーを見ていた。
「どうしたの、カルシファー?」
「無茶苦茶だよ、ソフィー」
物体を通して魔力を送るなんて
「上手くいったんだから良いじゃない。」
「良くないよ。判ってんのか、ソフィー。あんたの魔力はこっちには無いんだぜ!」
それなのに、と不思議そうな彼女を前に彼は叫んだ。意識して紡がれた今の言葉は全てに魔力が宿っていた。まるで自分からハウルの心臓を取り出したときのように。
『お人好しのソフィーがお節介を始める前に帰れるように頑張ってくれよ』
ああ、あんたの言った通りだよ、ハウル
これであの自分と同じ境遇の悪魔は何があっても死なないだろう、彼女が望んだ自由を手に入れるまでは。そう、たとえ水を被ろうとも。
それが吉と出るのか凶と出るのかは彼にも判らなかった。ただ、魔力の痕跡が残っていないことだけを願う。ソフィーの話の後にハウルからも聞いていたマダム・サリマンはなかなかに手強そうで、一つも弱みは見せたくないというハウルの意見には彼も賛成だった。
「あんた何か知ってるの? カルシファー」
いつもなら言いたい放題に憎まれ口を叩くか、面白がるかの悪魔の真剣な表情に訝しそうにソフィーが眉を潜めて、問いただそうする。すると図ったかのように背後の扉が大きな音を立てて開き、ハウルとマイケルが飛び込んできた。
「ただいま、ソフィー! ああ、疲れた!」
驚く妻に駆け寄って、あっという間にキスを落として、ソファにくつろいだハウルはカルシファーに軽く目配せをした。それに気がついたソフィーは彼の前に立ちはだかって腰に手を当て睨む。
「何だい、ソフィー?」
「何を調べてきたの、ハウル」
暖炉に戻った悪魔と見たところ何も変わりはないマイケルにちらりと視線を流した彼女は夫に迫る。ハウルは彼女の様子に困ったように息をつき、口を開く。
「気になることがあるから見てきただけだよ。」
「気になるってことって何よ。」
「別に僕たちには何の関係も無いことさ。」
あんたが気にする必要なんてまったく無いんだよ
そう言ってハウルは腕を一振りして水鏡を消してしまう。あ、と声を上げたソフィーをそれよりも、とハウルは静かに見つめ返した。
「僕こそ訊きたいな、ソフィー。あんたこれに何かしたの?」
あんたの魔力を感じるんだけど?
有無を言わせないような緑の瞳に彼女は黙り込む。気がつけば居間にはハウルとソフィーの二人だけで、カルシファーはマイケルと共に2階へと行ってしまったらしい。
「異世界のものにかかわっちゃ駄目だって言ったはずだよね、ソフィー?」
マダム・サリマンとの約束を忘れちゃったのかい?
淡々と語られる言葉にソフィーは夫を睨んだ。
「忘れてないわ。ちょっとカルシファーを元気付けただけよ、戦争に関わるわけじゃないじゃない!」
あの人が言っていたのはそういうことでしょう、と言い切るとハウルは大げさに溜息をついた。城の中に彼女の魔力の波動を掴む結界を張っていて良かったと心底思った。鏡という物体を媒介にして、尚且つ彼の結界を通り抜けているから、向こうに魔力が届く頃には、ハウルの魔力と相殺して彼女の気配は残らないだろう。しかし。
「判ってないね、あんたは。あの魔女が言っていたのはこの世界の全てのものへってことさ。一応僕が戦争って限定しておいたけど、今度やったら彼女は確実に僕たちに刺客を送ってくるよ。」
おまけに、と彼は思う。おまけに彼女は随分とこの世界の魔法使いハウルに執心のようだった。昨夜カルシファーに見せられた映像と、偶然訪れたときの彼女の様子から容易に想像がつく。目的のためであればどこまでも思うことを突き進めるような雰囲気を持っていた彼女ならば、すでに何らかの形で彼らを観察できるものを用意しているかもしれない。それをソフィーに教えて怖がらせるつもりは無かったが、釘を刺しておく必要性はあった。
「不用意なことは謹んで欲しいね、奥さん?」
おどけたように覗き込んで言い聞かせる夫の瞳をソフィーは黙って見つめる。判ったね?と諭すように見つめる緑の瞳はどこまでも透明で内心を窺わせない。
「あんたこそ・・・」
「なに?」
「あんたこそ、何を隠してるのよ。カルシファーとこそこそと話しているのに気がつかないと思ってるの? あたしを大人しくさせたいならちゃんと全部話しなさいよ!」
じっと水鏡を見つめて呟かれた昨夜の言葉を彼女は覚えていた。じゃれあうように悪態をついていた雰囲気を一変させて真剣に話し合っていた夫と相棒の悪魔の後姿を。
「さあ、教えて。昨日言っていた魔物って何のことなの? あんたたちはいったいあたしに何を隠しているのよ!」
「何も隠してないよ、ソフィー。僕もカルシファーも早く戻れるように動いているだけだ。」
本当にただそれだけなんだよ
困ったように見つめる夫の視線にソフィーが何かを言おうと口を開きかける。その時後ろで何かが爆発するような音がして振り返ると、窓の外に広がった光景に彼女は息を呑んだ。
「ハウル・・・!」
「敵の艦隊だね・・・こんなところにまで。」
僕たちは見えていないから安全だけど
燃える飛行船をハウルは黙って見つめる。背を向けて自分に文句を並べていたソフィーは気がつかなかったかもしれないが、ほんの少し前まではそれは普通に飛んでいた。火を噴いたのはこの城より後方から発せられた強力な魔力のため。
そしてその魔力を発した相手も、先ほどマイケルと共に確認をしてきた彼には判っている。
厄介なことを。
舌打ちしたい気持ちで黙って見つめるハウルの横をソフィーが慌てて外へ向かって走り出そうとしているのを見つけて慌てて彼は彼女の腕を掴んだ。
「ソフィー!」
「洗濯物が! 外に干しているのよ。取ってくるわ!」
「あんたこの状態でなに言ってるんだ! マイケル!」
行かなくちゃ、と腕の中を抜けようとする妻を抑えてハウルは弟子を呼んだ。すぐに降りてきたマイケルに以前インガリー王に頼まれて作ったマントの試作品を投げ渡して叫んだ。
「マイケル、悪いけどこれを着て急いで外の洗濯物を取り込んでくれ! カルシファー! マイケルが戻ったら全速力でここを離れろ!」
「ハウル! マイケルが怪我しちゃうわ!」
「大丈夫、あのマントはこの城と同じで見えないし、攻撃も受けない。それにマイケルは男だよ、ソフィー。あんたよりよっぽど素早いし、頑丈だよ!」
驚いたような彼女の声に叫び返して、マイケルに早く行けと手を振るハウルに、マイケルも事情を察してすぐに外へと駆け出した。はらはらと窓の外を見つめるソフィーの目の前で引きちぎるようにロープごと洗濯物をとりこむマイケルがすぐに城へと戻ってくるのが見えた。
「戻りました!」
「行くよ!」
みんなどこかに掴まってろよ!
カルシファーが叫んで城がゆっくりと移動を始める。徐々に早くなるそれにソフィーはハウルを見上げた。
「あたしたちは見えないって言っていたじゃない! どうして動くのよ!」
「あんな近くで飛んでくる火の粉や弾が何も無い場所で変な動きをしたら不審に思われるだろう。そうなったら隠れている意味が無いじゃないか!」
遠ざかるにつれて飛行船は小さくなった。燃える炎の中で地面に墜落していく姿をハウルとソフィーも黙って見つめる。
「もう良いよ。」
がたん、と動きを止めてカルシファーがふわりと浮き上がった。
「どこにも異常はないかい、火の玉親分?」
「無いよ、おいらそんなへまはしないもんね。」
ハウルのねぎらいに得意げに炎を揺らす悪魔にほうっと息をついて彼女は座り込んでいるマイケルの傍に寄った。ロープと汚れた洗濯物に紛れた彼は、まだ呆然としていた。
「大丈夫、マイケル?」
「ええ、大丈夫です。でも汚れちゃいましたね。」
「そんなの、また洗い直せば良いことよ。ごめんなさい、あたしが行けば良かったわね。」
申し訳なさそうに項垂れるソフィーにマイケルは慌てて首を振った。いくら元気があって、怖いもの知らずだとしても、女の子にあの状況に飛び込ませる気はマイケルにも無い。
「ハウルさんの言うことは当然ですよ! 僕だって反対しますから!」
「そうだよ、まだそんなこと言ってるのかい、ソフィー? 考えなしも大概にして欲しいね!」
慌てて手を振るマイケルと向き合っていた彼女の背後で呆れたような声が上がった。見ればハウルが少し怒ったように見ている。
「あんたがとっても勇敢で知りたがりで怖いもの知らずなのは判っているけどね、ソフィー。ちょっとは自分が女の子だってことを思い出しても良いんじゃないの?」
火の粉が降りかかるあの場によくも出ようなんて考えるよね
肩を竦めて嫌味っぽく続けられた言葉にソフィーは立ち上がって夫を睨んだ。
「あんたのあのマントがあれば大丈夫でしょう! もうお婆ちゃんじゃないんだし、あたしだってすぐに取り込めるわよ。」
「それで僕に焼け焦げたドレスのすそを見せて驚かせようって? また随分と素敵な愛情表現だよね、ソフィー」
「何よ、もしどうしても駄目だったらあんたがどうにかすれば良いでしょう!」
大魔法使いなんだから!
エスカレートしていくハウルの嫌味にソフィーも瞳を吊り上げて怒鳴り返した。途端にしんとなった室内で彼女は訝しそうに眉を寄せる。何なの、と言い掛けて彼女は自分の失言に口を抑えた。あたしったら! ここはあたしたちの世界じゃないのに!
「ソフィー」
静かな呼びかけにソフィーはおそるおそる夫を見上げる。ハウルは少し悲しそうだった。
「僕はあんたが思っているほど万能じゃないんだよ、ソフィー。こっちではもちろん、あっちでもね。」
あんたはすぐに忘れてしまうようだけど
そう言って翳った緑の瞳に彼女は視線を逸らせた。またやってしまった。思い通りに魔法が使えないこの人にこんなことを言ってしまうなんて、あたしはやっぱり考えなしなんだわ
・・・これじゃあ隠し事をされても仕方ないじゃない
「でも、心配だったんだもの・・・」
「ソフィー?」
思わず口をついた彼女の言葉の内容がまったく今の会話と関係がないことに気づいて、心配そうに寄るハウルの手をソフィーは思わず振り払った。驚いたように見つめる夫にはっとしたが、いま顔を上げたら泣いてしまいそうで、彼女は慌てて外へと走り出す。開いた扉の向こうはさっきまでの騒動が嘘のように静かで綺麗で、余計に彼女の心を締め付けた。
「洗濯ものを洗ってくるわ。」
もう大丈夫なんでしょう?
床に散らばった布たちを抱えなおして、カルシファーに確認する。一部始終を黙って見ていた火の悪魔は遠くに行かなきゃね、と涙を溜めたソフィーの顔を心配そうに見ながら答えた。
ありがとうと笑って洗濯物の山に顔を埋めたソフィーはすぐに戻るから、と外へと足を向けた。まだ駄目。まだ泣いては駄目よ、ソフィー
「ソフィー?」
「悪かったわ、ハウル。でも、暫く一人にして。」
頭を冷やしてくるから
そう言ってソフィーは足早に外へと向かって、居間の窓から見えない裏庭へと駆けていった。どさりと放り投げた洗濯物を洗う気力は湧いてこない。
「馬鹿みたい・・・」
ハウルがこっちでどれだけ大変か判っているのに、咄嗟に出た言葉があんなものだなんて
溜まっていた涙が頬を伝うのを拭いもしないでぼんやりとしていると、ソフィーを探す夫の声が聴こえてくる。濡れた頬のままでソフィーは慌てて辺りを見回した。まだ見つかるわけにはいかない。胸に残ったわだかまりや自己嫌悪が山のように積もったままの状態でハウルと会ったら、また何を口走るか判らない。
「来ちゃ駄目、こっちにあたしはいないから、来ちゃ駄目よ、ハウル・・・」
壁に身を寄せて呟くとハウルの呼ぶ声が遠ざかった。きっと今の言葉に魔力がこもっちゃったんだわ
「今のうちに隠れなくちゃ・・・」
ハウルは直ぐに彼女の魔法に気がついてこの場所に気がついてしまうだろう。その前に、と辺りを見回した彼女は視界の隅に小さな小屋を見つけた。少し離れすぎな気もするけど、さっきの場所からは遠いから大丈夫だろう。
もう少し、落ち着くまであそこにいましょう
こんなどろどろとした気持ちのままじゃ戻ることなんてできやしないんだから
どうしてあんなところに小屋が、という疑問は湧かなかった。後ろを振り返りつつ、向かった小屋は人の気配を感じなかった。
いつまでも外に立っているとハウルに見つかりそうだったので、彼女は中に飛び込んでほっと息をつく。
「ここなら泣けるわね・・・」
「どうして泣くの?」
戸口で座り込んで呟いたソフィーはかけられた声に慌てて顔を上げた。こつこつと近寄ってくる人物に瞳を見開く。
「泣いてる顔はあなたには似合わないよ。」
肩をさらりと零れる黒髪。もの思わしげな蒼い瞳。
「僕で良かったら話し相手になるよ、異世界のお嬢さん」
「ハウル・・・・!」
September 24, 2005