Troublesome Tornado
守りの指輪 written by 純
「行かないで、ソフィー」
弱々しいその声に、ソフィーはドアノブを回した手をそっと戻した。
思いがけず寂しそうな声に、静かにハウルの枕元に佇み瞳を閉じる美しい姿を見つめた。
ハウルが出したみどりのねばねばをソフィーは腕まくりして掃除をした。昨日磨き上げたばかりの室内を一瞬で汚してしまったハウルに腹も立ったが、何故か「仕方ないわね」と温かな気持ちが込み上げてくる。
大泣きして、今まで・・・帽子屋の作業部屋に閉じこもって、感情にも蓋をしていたことに気がついた。
大きな声をあげて、子どものように泣いて。
少しばかりすっきりしたせいかもしれない。
とにかくソフィーは、無心になりながら掃除をした。
その姿がまたほんの少し若返っていることに、ソフィー本人は気がついていないのだが。
みどりのねばねばをデッキブラシで集めると、「消えちゃうよ!」と震えるカルシファーに、積み上げてあったねばねばの被害の少ない薪を与えて落ち着かせ、城の扉まで集めた。そこから荒地にドアノブをあわせ扉を開け、全て掃き出した。
次第に、今までのハウルと今のハウルが別人のように感じて可笑しくなってきた。
夕闇が迫る頃、ようやく城の掃除と風呂場の掃除を片付かせ、ソフィーは温かなミルクを持って、ハウルの部屋を訪れたのだ。
子どものおもちゃ箱のようなその室内にぎょっとしながらも、先程感じた可笑しさが甦る。
「ミルク飲む?」
まさか呼び止められるとは思わなかったソフィーは、内心ひどく驚いたが、平静を装ってハウルに再びミルクを勧めた。ハウルは首を横に振り、ソフィーはベット脇にある椅子に腰を下ろした。
兵士から助けてくれた時のハウルも、荒れ地の魔女の呪いに向けた不敵な表情のハウルも、今は居なかった。
「怖くて怖くてたまらない・・・・」
今、目の前に居るのは少年のようなハウル。
情けなくも愛しいその存在が、ソフィーの中で何か新しい感情を芽吹かせていた。
ソフィーが先程自分が吐き出した感情のように、今自分に弱音を吐くハウルが愛しかった。
ああ、この人は・・・戦いに耐えられるほどの鋼のような神経を持ち合わせていない。
マルクルを見てればわかるわ。
ハウルは巷で騒がれるような・・・酷い魔法使いではないもの。
それどころか・・・何か大きく悲しいものを持っている。
そんな気がしてならない。
カルシファーとの契約の所為なのかしら?
それとも、違う何かを?
ハウルをどこか母親のような気持ちで励ましていると、思いついた!と、がばりと跳ね起きてとんでもない提案がされた。
「ソフィーが代わりに行ってくれればいいんだ!」
途端に元気になるハウルに、ソフィーは何がなんだかわからず、ただ目をぱちくりとさせるだけだった。
「ペンドラゴンのお母さんということでさ"息子は役立たずのロクでなしです"って言ってくれればいいんだ!!」
「っ!?」
「マダムサリマンも諦めてくれるかもしれない!」
「マダムサリマン!?」
何て事になってしまったのかしら!
そう声に出すこともできなかった。
ハウルがあんまり嬉しそうに台詞を考え出していたから。夜が更けても、ソフィーはまんじりともせずに朝を迎えた。
毛布を身体に巻きつけてハウルが部屋から出てきたのは、朝食の後片付けも洗濯も済んだ昼前だった。
起きてくるなりソフィーの服に指先を向けると、黙って振った。
着古して色のくすんできていたソフィーの洋服が、まるで新品のように鮮やかな色を取り戻していた。
「まるで私の気持ちと正反対ね」
「ソフィー、心の準備はいい?」
ソフィーは不満そうに口を引き結んで帽子を目深に被った。
ハウルの声を無視して、マルクルから杖を受け取るとマルクルに向かって「行ってくるね」と声をかける。
そりゃ、ハウルの為に何かしてあげたいとは思うけどね?
王宮に行くなんて、しがない帽子屋の娘にとってはそんな簡単なものじゃないのに。
・・・今は老婆だけど。
それに、こんな我儘で臆病な息子要らないわ。
「いってらっしゃーい!」
カルシファーの元気な声を背に受けながら、階段を降り扉のドアノブをキングズベリーの赤に合わせる。
ふわり、と。
ハウルが背後に立ち、杖を持つソフィーの左手の人差し指に指輪をはめた。
赤い石のはめ込まれたソレは、ソフィーをどきりとさせる。
「お守り。無事に行って帰れるように・・・」
ハウルの静かな声がソフィーを捕まえる。
ソフィーは思わず顔をあげて、ハウルを見つめる。
背中がしゃんとするような、そんな気持ちになるから不思議だ。
ハウルの蒼い瞳が、まっすぐにソフィーを見つめる。
「大丈夫、僕が姿を変えてついて行くから。」
大人で子どもで、情けなくてカッコよくて。
この人はあとどんな顔を隠し持ってるというの?
今置かれる事態とはまったく関係のないことを考えていると、ハウルがドアを開ける。
「さあ、行きたまえ!」
ソフィーが促されるまま前に一歩前に出ると、バタンと容赦なく扉が閉まった。
指先に治まる指輪に視線を落とすと溜め息が漏れた。
「絶対うまくいかないって気がしてきた・・・」
それでも、このままにしておけないものね。
指輪で繋がっている。
そんな風に感じる。
ハウルはついてくるって行ったわ。
「おまえ、随分強引に引き込んだんじゃないか?昨日のアレ、酷かったぜ」
カルシファーは薪の上に手を組んで、不安そうに話し出した。
「大丈夫かよ?あのばあさんのとこにソフィーを行かせて。」
「悪夢が僕に追いついたんだよ。サリマン先生の罠さ。まんまと引っかかったよ。僕を何があっても呼びつける気なんだ。」
あんな昔のことまで思い出させて。
僕の戦争を嫌悪する気持ちを利用して。
「利用できるものは見過ごさないんだよ。マダムサリマンは。」
マルクルが心配そうに何度も扉を赤に合わせてキングズベリーを覗いている。
カルシファーが訝しげにハウルを見上げる。ハウルはソフィーが用意してくれた朝食を半分カルシファーに食べさせながら、苦笑する。
「そうだね・・・卑怯、かな。でもさ、時間がないんだ。」
もう・・・もたない。
「ハウル・・・。」
「ソフィーは、本当に僕を迎えに来てくれると思うかい?」
絡まりあった糸が引き合って。それが導火線。すでに火が点いているんだ。
何もかもが破局に向かって?それともハッピーエンドに向かって?
「ねえ、君はどう思う?そこから見てる気分はどう?僕は、やっぱり魔物かい?」
「!」
ハウルは挑むようにカルシファーを・・・カルシファーの向こう側を見つめる。
「ハウル・・・」
カルシファーはおどおどと炎をくゆらせる。くすっとハウルは笑い、カルシファーに背を向ける。
「僕も行くよ。あんな怪物のところにソフィーを長居させるつもりはないんだ。カルシファー、お前にも働いてもらうよ?マルクル!ちょっとこっちに来て!」
マルクルはびくっと飛び上がり、階段を駆け上がると微笑んで待つハウルの前に立ち問いかける。
「なんでしょうか?お師匠様!」
待ってました!とばかりに腕まくりをするマルクルの頭を撫でて、ハウルはかがみこむ。
「僕は王宮に行ってくるよ。ソフィーを守ってあげなくちゃね?マルクル、君はカルシファーとソフィーを迎えに来てくれるかい?」
「もちろんです!」
「ありがとう。それじゃあ、カルシファー頼んだよ?キングズベリーに向かって移動して。どんなことがあってもソフィーはここに帰すから。」
ハウルは身を起こすと指を鳴らす。
毛布は掻き消えて、ハウルは軍服姿になっていた。
「これ、似合うかい?」
本当は二度と袖を通したくなかったんだけど。
そういうと、ハウルは城を後にした。
逃げ回ることを止めて・・・立ち向かおう。
ソフィーを守るために。
僕が行くまで、ソフィーを守って。
お揃いの指輪に口付けて願う。
未練と同時に、もう覚悟はできていた。
その晩城に戻ってきたのは、ソフィーと魔力を失った荒れ地の魔女と小太りで間抜けな顔の犬だけであった。
September 03, 2005