翡翠の森 - 9 -
急に空間がぐにゃりとまがり、初めてここへ訪れた翌朝感じた不思議な感覚を思い出した。
思わずハウエルのシャツの端をきつく握り締め、彼の胸に顔を埋めた。
何が起ころうとしているのか、あたしにはまったく予想がつかない。
「大丈夫だよ」
まだ、今は。
ハウエルはあたしの両肩を掴むと、そっとあたしを引き剥がした。
「来客があるから、そうだね、お茶でも用意してくれる?気分が悪いようなら、寝室で横になっていてもいいよ?」
やめよう。
馬鹿みたいに怯えるのは。
この人が、大丈夫というのだから、大丈夫なんだ。
胸に込み上げる、不思議なほどの安堵感は、ハウエルに寄せる想いの表れだろうか。
翡翠色の瞳は、深くあたしを包み込んでいた。
「お茶の用意をするわ。あなたにとって、大事なお客様かしら?」
支えるように添えられているハウエルの手からするりと抜け出し、あたしは微笑んだ。
「あんたが来てからは、大事なお客かもしれないね。」
苦笑する彼の口元が、それでも優しさを含んでいることを感じて、あたしはテーブルの上を片付けだした。
「それじゃあ、カップも温めておかなくちゃ。」
ハウエルは正面玄関のあるはずの場所で立ち止まると、何事か呟き、掌を壁に押し当てた。
この家の内側には、玄関は存在しない。外に出るにはテラスからと、裏口から。
正面に回りこんでみれば、ちゃんと扉はあるのだけど。
そこには、あたしが訪れた時に見た立派な扉がパチパチと光の帯を散らして浮かび上がる。
そのまま、どんと手を壁に押し付けるようにすると、ピシャリと甲高い音を響かせ、扉がはまり込んでいた。
あたしは奥のキッチンからその様子を眺めて、気がつくと目の前に扉があったあの日――この森に辿りついた日を思い出していた。
古びた家屋の古い大きな扉。
ドアノブだけがピカピカに磨きこまれた扉。威嚇するようにノッカーを加えた獅子。
あたしはその扉を開けなかった。
あたしがここに転がり込んだのは、その隣にある扉。
まるでひっそりと、謎賭けをするかのように、扉の脇に壁と同化するように潜んでいた扉。
あの時ハウエルが開けたのは、その扉だった。
今、ハウエルが開けたのは、どちらの扉なんだろう?
かちゃり、と静かに開かれた先には見慣れたはずの、翡翠の森。
あの時の、あたしの直感は正しかった。
あたしを待つ人が居る、と。
・・・ハウエルは、誰かを待っていた。
それはきっとあたしで・・・・・あたしでは、ない。
ハウエルはゆっくりとドアノブを回すと、扉を開けた。
風が流れ込んできて、ハウエルの髪を掬いあげ、ついであたしのあかがね色の髪も掬い上げられた。
彼の掌はまだ光を宿していて、そこから真っ白なものが扉の外へ飛び立っていった。
あたしの視線に気づいていた彼は、しばらくその後姿を見送り、振り返って言った。
「この森を抜けて、ここまで辿り着ける人は、そうはいないからね。」
迎えに行かせたんだ。
瞳の奥で、警戒心が油断なく光る。
ハウエルは扉を開け放ったまま、ソファーに座りサイドボードに置かれた眼鏡をかけた。
ソファーに置かれたクッションに左肘を乗せて、そこに置かれた本を広げ、視線を文字に落とした。
考え込むようにページをめくる姿をあたしは密かに見つめた。
乱雑に散らばっていた衣服や書物は、今はすっかり定位置に片付けられている。
最初の一ヶ月は、とにかく居場所を確保するにはその方法しかないかのように、そして何かを思い出すのを恐れるように、あたしは掃除ばかりしていた。
ハウエルは時折煩そうに眉を顰めたり、無視を決め込んで。
寝室から出てこないこともあったけれど、結局このソファーで読書を決め込んでいた。
初めは、冷たい空気を孕んでいて沈黙が怖くさえあったけれど、この家に感じる懐かしさと心地よさに癒されていた。
そのうちに、何故彼が無視を決め込んでいるにも関わらず、傍に居てくれるのだろうと感じるようになった。
そう、彼はあたし独りを残して外出することはほとんどなかった。
あたしが眠っている間はわからないけれど、あたしの存在は気に留めないかのような素振りであったけど、ハウエルは一緒に過ごしてくれたのだ。
彼がよく寝転んで本を読むソファーにもカバーをかけ、背もたれにするクッションを新しく作り直した。
柱時計は、いつの間にか気ままに時を刻んでいた。
きっと正しい時刻ではないのだろう。
それでも、あたしは触れずに居た。
あたしがここにきて感じた、様々なものが息を潜めていたような、色あせた寂れた様子は今はない。
まるで呼吸を止めていただけのように、急速に色づいていった。
でも、柱時計だけは、あの時のまま、埃っぽく古めかしく、そこに在る。
あたしは用意したカップにお湯を注ぎ、紅茶葉を取り出した。
すると、再び森がざわめき、まるでシンクロするようにあたしの胸もざわついた。
ダレカガ、クル。
それは、あたしの中の恐怖心なのか、それとも何か他の恐怖なのか。
あたしの指先はどうしようもなく震えた。
カチャカチャと音をたてることを恐れて、あたしは両手で掴みかけたトレイをそっとテーブルに降ろした。
ハウエルは眼鏡を外して立ち上がると、扉の向こうを見つめる。
木漏れ日の中から、一人の少年が浮かび上がるように現れた。
背中に少女を背負っている。
酷く狼狽して、しかし見上げた先にこの館を見つけたのだろう。
あどけなさの残る笑顔を浮かべて、幾分歩みを早めた。
「・・・マイケル?」
ハウエルはそう呟いて、ゆっくりと扉の前に立つ。
「魔術師ジェンキン・・・!どうか妹を助けて・・・!」
すがりつくように室内に転がり込んだ少年は、片手でハウエルのシャツにしがみつき、悲壮な声で叫んだ。
ハウエルは表情を変えず静かに少女を抱えると、今まで座っていたソファーに少女を横たえた。
金色の髪の中に在る顔は土気色になり、呼吸が荒い。
ガタガタと震える小さな体を見て、あたしは慌てて寝室へ駆け込んだ。
毛布を掴んで、リビングへ戻る。
ハウエルはソファーの傍らに跪き、目を閉じて少女の額に手をかざしていた。
あたしはその邪魔をしないように、震える少女の胸元から足元にそっと毛布をかけた。
少年はあたしに「ありがとうございます」と頭を下げて、不安そうに瞳を曇らせた。
「・・・・いつからこうなんだい?」
ハウエルが抑揚のない声で言うと、少年は瞳を拳で擦り、浮かんできた涙を拭った。
「昨日の晩、マーサは僕の変わりにあなたの注文の品を揃えていました。僕は試験勉強があったんで、変わってくれたんです。その時、店に二人の男がやってきて何か訊ねているようでした。」
あたしは、思わず口元を押さえて悲鳴を飲み込んだ。
「僕は話し声に不安になって、店に顔を出したんです。なんだかとっても横暴な物言いだったんで。」
その時のことを思い出したのか、少年はぎゅっと拳を握りしめて目を瞑った。
「そしたら・・・・妹が、マーサが小さく「あっ」と声をあげてその場に倒れたんです。それからガタガタと体が震えだして、こんな状況に・・・街の医者は、原因がわからないって言うんです。ただ、このままじゃ命も危ないって・・・!だから、僕、もうあなたしか居ないと思って・・・!」
言いながら、少年は自らもガタガタと体を小刻みに震わせると、堪えきれずに涙を溢れさせた。
「妹を、助けてください・・・・!」
あたしは立っていられなくなり、その場に座り込んでしまった。
あたしを探しているのだ。
あの人が。
「マイケル、泣くんじゃない。僕がなんとかしてみるから。」
静かに、けれどどこか怒りを含んだ声で、ハウエルは告げた。
そして、あたしに視線を向けると「大丈夫だ、ソフィー」とはっきり言った。
あたしは、両手で自分を抱きしめながら、嗚咽が込み上げるのを耐えた。
10へ続く