翡翠の森     - 8 -









今まで、どうやってこの人の隣で呼吸をしていたのだろう?

あたしがフォークにパスタを絡めるのを、見るともなしに見つめるハウエルに気がついて、急に頬が熱くなり指先が固まったかのように動きを止めた。
「・・・食べないの?」
ぴたりと動きを止めたあたしの指先から、瞳を覗きこむようにして訊ねる彼は、不思議そうに首を傾げた。
「ハウエルは?た、食べないの?」
同じように盛り付けた皿には、多分一口か二口食べただけで、ほとんど手をつけていないままのパスタがあった。
ずっと見つめていたのだろうか?
「食べてる。もともと、僕には食事はあまり必要じゃないんだ。」
「それは知ってるけど。・・・・なんだかそんな風に見つめられると、恥ずかしくて。」

いつからだろう?
この人から刺々しさが消えたのは。
・・・・最初からなかった気もする。
それでも、いつも見えない壁があった。
それは、彼の持つ不思議な力のせいなのかもしれないし、それだけじゃないのかもしれない。
ただ、いつしかよそよそしさが取り払われて行くのを感じていた。
そこには、哀れみや同情があったのだが、だからあたしもその優しさに甘えていた。
だけど今は、それだけじゃない気持ちを肌で感じる。
違う?
それはあたしが、あなたを『好き』と思うからなの?

ハウエルはあたしの言葉に驚いたように目を見開いて、バツが悪そうに口元を押さえると、視線を逸らした。
金糸がさらさらと横顔にかかる。
その隙間から見える綺麗な横顔がうっすらと赤みを帯びているのを見て、またあたしの胸が跳ね上がる。
その表情は、まるで隠し事がばれてしまった少年のようで、あたしは心の中であまりの無防備な可愛さにハウエルを抱きしめたい気持ちになった。
そんな風に思う自分に戸惑いながら。
ハウエルは小さく舌打ちすると、俯き加減で重そうな唇を開いて告げた。
「・・・ごめん、そんな、不躾に見つめているつもり、なかったんだ・・・・。」
動揺しているのがわかるくらい、ハウエルの声が震えていた。
「いえ、あの、嫌だったわけじゃないの!ただ、どうしていいかわからなくなっただけ。」
上手く言葉が浮かんでこない。
「あの、ただ、規則正しく呼吸する方法を・・・忘れてしまう気がしたの。あなたに見られていると。」
ハウエルが、どこか不機嫌そうにあたしをちらりと見て、だけどほっとしたように肩の力を抜くのがわかった。
「・・・僕は悪い魔法使いだからね、あんたの周りの酸素を奪っているのかもしれないよ?」
そう言って、フォークを持ってあたしに向けた。
「それは、困ったわね。」
もしそれが本当でも、あたしはきっと『困った』りしないんだろうな、とハウエルに浮かされた頭の中で思った。

あたしは、ここで、ハウエルに生かされているんだから。

ハウエルがくれた『鍵』は、ここで暮らす為に必要な、そう酸素みたいなものだろう。
そして、ハウエルは初めてあたしがここに転がり込んできた時から、あたしにその優しい酸素を送り込んでくれていた。
この人は、本当に魔法使いなのかもしれない。

「ハウエルの魔法なら、あたし、命を奪われてもいいわ。あなたが本当にそうしたいなら。」
くすっと思わず笑みを零して言うと、ハウエルはまるで雷に打たれたみたいに一瞬体を震わせた。
「・・・?ハウエル?」
蒼白になった顔が、ハウエルがそこに居るにもかかわらず、ここではないどこか、あたしの手の届かないどこかに居るかのように思えて、あたしは思わず机に置かれた彼の手に手を伸ばした。

ここではないどこかに、彼を連れ去られる恐怖に慄いた。
いえ、あたしがここ以外のどこかに去ることを、かしら・・・?

冷たい手の甲に触れると、ハウエルはまた体を強張らせた。
「そんな言葉を簡単に言わないほうがいいよ・・・。あんたはいずれ、心の傷が癒えたら、ここから去っていくんだから。」
あたしが掴む手に視線を落として、ハウエルは淡く微笑んだ。
「ここに長くは居られない。あんたも、ちゃんとそれを知ってるだろう?」
言われて、あたしは重ねた手に力を入れて握り締めた。
「・・・・・・・ハウエル、あたし」

受け入れてもらえる気はしなかった。
頭の中で感じていた。
ハウエルは、決してあたしを受け入れない。
最初に感じたような、嫌悪はなくなっていたとしても、もしかしたら、あたしを優しく見つめる瞳に、何か他の感情を芽生えさせていてくれても。
きっと、あたしたちは同じ時間を過ごせないと、あたしの直感が伝えていた。
それでも、心を動かされずにいられなかった。
だから、言いかけた言葉を飲み込んだ。

あなたが好き。


刹那、びりり、と空気が震えた。
胸に圧迫感が広がる。
世界が大きく揺るぎだす。

あたしはハウエルを見上げて、その表情が険しくなるのを見た。
「・・・誰かが森に足を踏み入れた・・・」
ハウエルは静かに立ち上がり、窓辺に立った。
森はざわざわと揺れている。
心の中をかき乱すほど、木々がざわめく。
ゆっくりと緑の瞳を閉じて、まるで木々の囁きを聞くかのように佇む。
そして握り締めていた手を開くと、その手の中に生まれた光を窓を開けて解き放った。
あれほどざわめいている森の風が少しも室内に流れ込んでこないことに、あたしはその時、気がつかなかった。
あたしは、椅子を静かに引いて立ち上がり、思わず体を突き抜けた恐怖に震える。

誰かが、あたしを探してる?

あたしの不安を忠実に察したハウエルが、ガタガタと震えだしたあたしに歩み寄り、そっと手を差し伸べて抱きしめた。
それは本当に、優しく、はかない抱擁だった。
「・・・・心配要らない。これは、あんたを追ってきたものではない。僕を探してるんだ。」
それなら、あの光は『鍵』?
「とはいえ、森の結界が効力を保てなくなってるのも事実だ。招かざれる客も・・・いずれ訪れる。」
小さく呟いた声は、今までになく力強く感じた。

あんまりあたしが震えるから、ハウエルはそうしてくれているんだろう。
あたしたちは、共には生きられない。
それでも、あなたはあたしを抱きしめてくれるのね。

ハウエルはまるで呪文のように静かに囁く。
「あんたを守るから。」
今度こそ・・・。

頭のてっぺんに優しく口付けを落とされたのを感じて、涙が溢れた。
切ない幸福感が胸に湧く。
好きだけど、一緒には居れない。

この繭の中のような優しい時間が、終わる。

あたしは、そう感じて、静かに涙を零した。








        9へ続く