翡翠の森    - 7 -









時間というものは、ただ流れていくのではないのだと・・・初めて気がついた。
静寂と言葉にできない安堵感の中で、幾日が過ぎただろう?
緑の森の中は、外に他の世界があることを否定するかのように隔絶されていた。
たゆうような心の安息。
その魂の休息のような時間が、あたしに新しい感情を芽生えさせていた。

この感情をなんというのか、あたしはまだ知らない。
一緒に過ごす時間が、かけがえのないものと思えるのは何でなのか、あたしにはまだわからない。

「ソフィー、今日はもうそれくらいにしたら?」
呆れたような声が頭上から降ってきて、あたしはしゃがみこんだままその声の主を仰いだ。
「おなかがすいた?ああもう、お日様はあんな高いところにまで来ていたのね。」
太陽が眩しくて・・・その太陽を背に受けた金色の髪に縁取られた美しいハウエルが眩しくて、あたしは目を細めた。
「僕は平気だけど。あんたは何か食べたほうがいいよ。」
普段からほとんど食事を摂らないハウエルは、立ち上がろうとしたあたしに手を差し伸べて、ゆっくりと引き上げた。
「・・・ありがとう。」
彼の胸の前に引寄せられるように立ち上がると、あたしの胸がどきんと跳ねた。頬が熱くなるのを感じ、慌ててて俯いた。
ハウエルはそんなあたしに気がつかなかったように、足元に視線を落として不思議そうに訊ねた。
「・・・これは、何?」
「これはハーブよ。ほら、昨晩あなたに頼んだリストにあったでしょう?」
こんな風に、彼があたしに何かを訊ねるということはほとんどないことで、あたしは嬉しくなってガラス玉のような淡い緑の瞳を下から見上げた。
「お料理やハーブティーに使えるものを頼んだの。」
「あんたは本当に次から次へと何かを始めるんだね。」
それはいつものように呆れた口調であったけれど、あたしにはもうその口調の中に潜められた、彼の優しさがわかるようになって いた。

あたしがやりたいということに、ハウエルはNOとは言わなかった。
ただいつも呆れたように、「まだあんたは働きたいの?」と言うだけ。
新しいカーテンを作りたいと呟いた翌日には、あたしが思っていた通りの生地を揃えてくれていた。
花を植えたいといえば、苗を。
それはいつもあたしの言葉を、漏らさず聞いているということで。
誰かがしっかりと言葉を受け止めてくれるということが、どれほど嬉しくて幸せな事か、ハウエルが教えてくれた。
あたしは、ここにたどり着くまでの記憶がないけれど、きっとこんな風に誰かが私の言葉を受け止めてくれてはいなかったと感じていた。

あたしはいつも、ただの飾り物にしか過ぎなかった。
まるで、感情を持たない人形のように。
いいえ、感情など必要ないと言い捨てられた・・・・?

・・・・あれは、誰?

頭の片隅で、何かが弾ける音がする。
嫌な音だ。
これは、人を破滅させる音。
あたしの大切な人を・・・奪う・・・・

「・・・どうかした?」
ハウエルの声が頭の芯に響いて、あたしは慌てて笑顔を向けた。
胸が抉られたような痛みを感じて、あたしは笑顔が引きつったことを自覚した。
それでも、それに気づかないフリをして、あたしは声を振り絞った。
「お腹はすかなくても、何かは食べなくちゃ。さあ、お昼は何にしましょうか?」
背中に冷たい汗が流れ、心が震えているかのように、あたしの声は恐怖に固まっていた。
立っているのも辛い。
指先が冷たくなる。
「ソフィー?」
訝しむ瞳から視線を逸らし、あたしは胸いっぱいに森の空気を吸い込んで、正体のわからない胸の痛みを誤魔化した。
理由はわからない、涙が込み上げてくる。

苦しい。苦しい!
誰か助けて!

声にならない声が、あたしの中で叫んでいる。
自分で自分がままならない。
あたしは、一体どうなってるの・・・?

知りたくはない、もう、苦しみたくない。

唇を噛み締め、俯いたあたしに、ハウエルは小さく息を零した。
それから静かに屈みこむと、あたしが植えたハーブに手をかざし、何事か呟く。
掌で生まれた淡い光りは、太陽光と混ざり合い、静かに葉に吸い込まれていく。
「・・・鍵?」
あたしはもう何度か見たこの光景に、震えていた胸がじわっと温かくなるのを感じながら訊ねる。
線が細く見えるのに、背中は広くて大きい。
華奢に見えるけれど、やっぱり男の人なのだ。
淡い光はいつしかハウエルをも包み込み、静かにその掌に吸い込まれるようにして消えた。
ハウエルは表情を変えずに立ち上がり、「そう、鍵だ。」と呟き、ゆっくりとあたしを見つめた。

ここに居て、不便だと感じることは未だになかったけれど、ハウエルの持つ不思議な力が、不便さを無くしているのだとわかっていた。
幾度となく目の当たりにした。
ここで暮らしていくには、ハウエルが授けた「鍵」が必要なのだ。
生きているものに、ハウエルは時折こうして「鍵」を与える。
それが、ここで生きていくためには必要だから。
特にハウエルから説明を受けたわけではない。
何故、そんな不可思議なことを考え、そんな考えを受け入れているのかも、あたしには説明できなかった。
それでも、あたしの奥深くに眠る感覚が訴えているのだ。

・・・・何よりも。
彼が今「鍵」を与えたということは、また一つあたしを受け入れてくれたということなのだ。
このハーブたちが、ここで生きていけるように。
あたしが、そう願ったから。

胸に鉛のように流れ込んでいた重く暗い感情が、どんどん取り払われていくのを感じた。
そんなあたしに向かい、不意にハウエルが手を差し出した。
「?」
あたしはその繊細な指先をまじまじと見つめた。
「ランチを用意してくれるんだろう?」
そう言って、彼の手はそのままじっとその場を動かない。
「・・・?」
あたしはどうしていいかわからずに戸惑った。
ハウエルはじれったそうにあたしの手を掴むと、きゅっと優しく大きな手で握りしめ、家に向かって歩き出した。
掴まれた手が冷たくて、あたしはびくりとしたけれど、次第に広がる温もりが体中を包み込んでいく。
二人の掌が重なった場所から、まるで波紋のように広がっていくその優しい感覚に、あたしはハウエルの背中を見つめた。

風が吹く。
木々を揺らし、地面に広がる木漏れ日が細波のようにきらめいた。
ハウエルの金糸も風に踊り、ちらりと見えた耳が、うっすらと赤くなっているように思えてあたしは思わず微笑んだ。
「ありがとう」
あたしの声に彼は答えなかったけど、握った手にほんの少し力が籠り、それが何よりも嬉しかった。
唐突に、繋がれた手が、甘い痺れを運んできた。

満たされていく感情と、癒されていく傷。
胸が痛い。でもこれは、さっきの痛みとは違う。
それは、あなただからなの?

とくん、とくんと脈打つのは、あなたへの想い。

言いようのない恐怖はすっかり姿を消し、代わりに胸に溢れた狂おしいまでの感情に、あたしは小さく息を吐いた。

あたしを受け入れて。
あたしは、あなたが好き。








        8へ続く