翡翠の森 - 6 -
「おやすみなさい、ハウエル」
僕がソファーに寝そべっていると、ソフィーがホットミルクを入れたカップをテーブルに置いて告げる。
「おやすみ」
開いた本越しに彼女に声をかける。
「これ、明日の食材それとコーヒー豆がもうないの。お願いします。」
メモをカップの隣に置くとぺこりと頭を下げる。
「わかった。揃えておくから。」
僕は素っ気無く答える。
ソフィーはそれでも気にしたりせず、それじゃあ、と一言残して彼女の寝室へ続く廊下への扉を開けた。
そこであんたは、おやすみなさい、ともう一度振り返る。
静かに閉められる扉を確認し、僕は起き上がってメモを見ながら、温かな・・・まるでソフィーのようなホットミルクを口に含んだ。
「お前、すっかり人間らしさを取り戻したじゃないか」
「・・・失礼だな。僕は一応人間だけど。」
お前と一緒にしないでくれよ。
僕が瞳を閉じると、からかうような声が天井から響いてきた。
「おいらは悪魔だからな。おいらが言いたいのは、随分感情を表現するようになったんだなって思ってさ。」
「そんなこと、ないだろう?」
背もたれに沈み込むように体重を預け、顔を天井に向ける。
「それかい?今夜の獲物は。」
「獲物って。ちゃんと代価は払ってるだろう?泥棒の真似をしたら、ソフィーが嫌がる。」
「ほら、またあの娘のことを考えてる。」
僕は思わず黙り込んで、目を逸らすように舌打ちをして俯いた。
この悪魔には、結局僕の気持ちなんてお見通しなんだ。
しばらく面白そうに僕の頭上で探るような気配が漂う。
「・・・お前、本当は知ってたんだろう?あの娘が本当は彼女と繋がりがあるって。」
胸を知らず押さえて、僕は小さく息を吐く。
まだ、君を想うと胸が痛む。
「知らなかったさ。あんたがソフィーの掌に鍵を渡すまで。」
「・・・知っていたのに教えなかったのかい?」
「あんた尋ねたかい?」
ケケケと笑って気配を消した悪魔に思わず苦虫を噛み潰したような心境になる。
手にしたメモがちゃんと消えている。
「・・・さすが、悪魔だね。カルシファー・・・」
カップに視線を落とす。真っ白な温かな液体は、まるでソフィーの心のようだと思った。
ソフィーは。
この家の扉を叩いた時から、確かに僕の不可侵な領域に入り込んできた。
誰とも関わりたくない僕に、人との接触を拒むソフィー。
彼女の過去を聞き出し覗き見た時から、僕はソフィーを意識していた?
いや、この家に転がりこんだ時から?
・・・多分・・・この森に足を踏み入れたときから・・・?
彼女が森に足を踏み入れた瞬間に、木々がざわついた。
それは、まるで僕に引き合わせるかのように早く早くと急かすように。
ソフィーが・・・ここを訪れた時に、息が止るほど驚いた。
あかがね色の髪に、青い瞳。
それは彼女にあまりに似すぎていて。
一瞬、本当に彼女が戻ってきたのかと・・・そう思ったんだ。
そんなこと、あるわけないのに。
ソフィーは、記憶を自ら封印して、ここに逃げてきた。
・・・封印するだけの力を持つ、彼女は僕と同じ、この世界では異質の力を持っていて。
その力の所為で、たった一人の肉親を愛する人によって奪われた。
それは彼の貪欲な、力を・・・権力を求める欲望の為に。
僕にはソフィーの持つ不思議な力が、どれほどのものかは計り知れないけれど。
この世界から逃げ出すように、時間を止めて生きている僕の元に逃げてきた・・・僕の愛する女性に似ている・・・ソフィー。
やっぱり、と僕は後悔してる。
あの時、ソフィーをここに止めるべきではなかったと。
時を刻むことを放棄した、僕の元に、命の根源とも思える温かな力を持つソフィーを、何故追い出さなかったのか。
もう、誰も守れない。
僕は大切な存在を持つべきではないのだから。
誰かを愛する資格は・・・ないんだから・・・。
僕はただ、愛しい人の想い出を守り続けて生きていくと・・・彼女の墓標に誓ったのだから・・・。
鼻の奥がツンとして、胸が締め付けられて目頭が熱くなる。
掌が震えて、僕は思わず両手で握り締め背中を丸めて顔を埋める。
僕は誰も愛せない。
心はあの時一緒に死んだんだ。
なのに、何故。
再び君を想うと涙が溢れるの?
ソフィーと過ごす日々の中で、また、時間が動き出す。
死んだはずの心が、まるでそれは凍っていただけだったと思わせるように、ゆっくりと感情が溶け出してくる。
時折見せる・・・ソフィーの仕草や表情、そしてあの不思議な力を見ると、重なってしまう。
僕のソフィーと。
心臓がどくどくと打ちつけるのを感じて、ついに涙が零れた。
今まで忘れて生きてきた、彼女への愛しさで息が詰まる。
もう、彼女が側にいないことが、悲しくて苦しい。
こんな感情は、必要ないのに。
僕の感情を呼び起こした・・・ソフィー。
あんたは、僕のソフィーと繋がっていた。これは偶然なんかじゃない。
だから、あんたはここへも来れた。
僕の呪いをくぐり抜け、この家までたどり着いてしまったんだ。
だから、これは。
恋なんかじゃない。
彼女に縁のあるソフィーだから、守りたいと思うんだ。
せめて、僕のソフィーの変わりに。守れなかった僕への試練だろう。
彼女が、自分で立ち直り・・・自らここを出て行くまで・・・僕は時間をほんの少し動かそう。
そう、僕の最後の力を使って。
僕はソフィーの閉めた扉を見つめて、声に出さない決意を胸に仕舞い込んだ。
ソフィー、その時まで。
あんたを守るよ。
7へ続く