翡翠の森   - 5 -









ここでの生活は、意外にも快適だった。
不思議なことや、府に落ちないこともたくさんあったけど、何よりこの屋敷の主はあたしのすることにほとんど興味がなく、適度にしか関わってこなかった。

「不便だと感じたことだけ、僕に言って。」

初めて訪れた日の、次の朝。
ハウエルの抱えてきた紙袋にはパンや野菜、たまごやベーコンの塊が入っていた。
あたしはそれらを使って食事の用意をして、遅めの朝食を摂った。
ハウエルは何か言うでもなく、ただ「眠れた?」とだけ訊ね、あたしが頷くとコーヒーカップを手にして口をつけた。
長い指先がまるで魔法の言葉を紡ぎだすかのように、カップを輝かせた。
・・・ように見えた。
あたしは思わず息をのみ、その仕草の美しさに見とれてしまった。
「・・・特にない?」
カップをテーブルの上に戻すと、昨晩も手にしていた本を開いた。
俯いたその横顔を金髪がさらさらと流れ落ちて、碧眼がその間からあたしを見ていた。
「・・・あ、買い物とか・・・どうすれば?」
自分の必要最低限のものは揃っていたし、何より人に会いたくないと頭の中で警鐘が鳴らされて、なるべくならこの森から出たくないと思っていた。
でも、この不思議な家はまるで無人で長いこと放置されていたかのようで、食事の用意すらままならない様子で。
朝食だって、ハウエルが紙袋を抱えてこなければありつけなかっただろう。
「必要な物はぼくに言ってくれればいい。そうだね、毎晩眠る前にここにメモを置いてくれれば、朝までには揃えておくから。」
「夜でいいの?」
この辺りは夜中でもお店が開いているのだろうか?
思わず聞き返すと、ハウエルは不機嫌そうな瞳を天井に向けため息をついた。
「昼間でも、まあどちらでもいいよ。」
あんたの好きにすればいい。
一瞬向けられた、刺すような視線にまた胸がズキンと痛んだ。
「・・・森の外にでたければ・・・」
静かに続けるハウエルの言葉は、感情を感じさせずにあたしの胸をざわつかせた。
何故出会ったばかりのこの人に、こうも心を揺さぶられるのか不思議なのだが、そんなことよりもあたしは次に紡がれる拒絶の言葉を思って声が震えた。
「・・・イヤ・・・出たくない。お願い、ここに・・・!」
あたしをここから追い出さないで・・・!
ガタンと派手な音をたてて椅子を倒して立ち上がると、ハウエルはよほど驚いたのか本を手元から落とした。
「・・・そうじゃなくて・・・。別に追い出そうというわけじゃ・・・」
髪をかきあげて困ったように顔をあげたハウエルに、あたしはすがるような気持ちで身を乗り出した。
「あたし・・・ここから出たいと思わない。森は・・・歩いてみたいけど・・・っ・・・人に遭う場所には・・・行きたくないの・・・。」
「・・・そんなに人が怖い?」
まっすぐに見つめられていることに気がついて、あたしは息をのんだ。
「人が怖いのに・・・僕は怖くないわけ?」
光りが放たれ、辺りを優しく包んだ気がした。
・・・彼が微笑んだから。
「僕はあんたに何もしてあげられないよ?」
そう言ったハウエルは、それなのに穏やかに微笑んでいて碧眼が深みを増し、絡めとるかのようにあたしの視線を釘付けにした。
「だけど、あんたを追い出したりはしない。あんたが僕のテリトリーに踏み込まない限りは。」
あたしは言葉もなく、ただ頷いた。
何もいらなかったから。
ここに居れるだけで、それだけで良かったのだから。
それから、ハウエルはゆっくりと確認するようにあたしの手をとり、ふぅっと息を吹きかけた。
「あんたがこの家に自由に出入りできるように、鍵を渡した。」
あたしは驚いて息を吹きかけられたくすぐったさの残る掌を見つめる。
何もない掌から首を傾げてハウエルに視線を戻す。
「いいんだ。この家にあんたの掌を【鍵】だと認識させたんだ。」
「どういう・・・?」
あたしはハウエルの深みを増して黒に近くなった瞳を必死に覗きこみ、彼の言葉を理解しようと努めた。
「あんたのように、この森を越えてここまで辿りつける人間はいないと思うけど・・・あんたが開いた道を見つけられるかもしれないからね。だから、僕とあんた以外、この家には入れないように・・・家に認識させたんだ。」
自分の置かれている状況が普通でないことは、記憶が曖昧であるなりにわかっているが、ハウエルの言葉はそれ以上に普通ではなかった。
いや、もう普通であるとかそんなことはどうでもいいのだ。
今はただ、心休まるココに居たい。
「いいかい?好きなときにこの森の中を歩いていい。だけど最初はこの家が見える範囲にしておいた方がいいね。迷子を探し出すのは億劫だから。」
握られている手からゆっくりと温かな波動が伝わる。
不思議な感覚だった。
ハウエルの手は水のように冷たかったのに、確実に体中に温かなものが流れ込んできていた。
「・・・でも、僕が必要なら呼んでくれてかまわないから・・・。声に出せば届く。・・・心の中は見えないようにしたよ。イヤだろう?見透かされるのは?」
「・・・一体?」
あたしが不安とも好奇心ともつかない感情を持て余していると、繋がっていた手が離された。
「僕はハウエル。昨日も言っただろう?」
瞳が急速に色を失くし、淡いグリーンに戻るのを胸をざわつかせながら見つめてしまう。
「あんたは掃除婦・・・というか・・・この家の小さなメイドさんかな?ね、ソフィー。」
名前を呼ばれるだけで、心臓がまるで生まれ変わったかのようにイキイキと跳ね上がるのがわかる。
あたしは胸を押さえるように手を組んで、ハウエルの視線から逃げるように顔を窓に向けた。
「あんたに・・・一つだけ守ってもらいたいことがあるんだけど?」
「・・・なに・・・?」
その言葉は、またどこか冷たさが宿ってはいたけれど、あたしはもう追い出される不安は感じなかった。
「僕の部屋は・・・掃除しなくていい。だから入ってはダメだよ?」
「わかった。」
ハウエルはあたしを追い出したりしない。
あたしには目に見えない、この家の【鍵】が渡されたのだから。




こうして。
あたしと美しい青年との奇妙な生活はぎくしゃくしたりたどたどしいながらも、1ヶ月が過ぎようとしていた。
ここでの生活は、のんびりと時間が流れあたしはゆっくりと時間をかけて・・・知らずに負った心の傷を癒していった。
記憶は相変わらず、戻りはしなかったけど。

ハウエルという人がほとんど家を留守にすることはなかった。
あたしが必要とするものは全てあたしが眠っている間に揃えられていたし、あたしが掃除をしている間は自室に籠っていた。
あとはあたしを空気と言わんばかりに、ほとんど気にも留めず、かといって無視するでなく・・・本当に程よい距離を保って。
ハウエルは本を広げ、ここに初めて来たときと同じようにソファーに寝転んだ。
訊ねれば答えてくれる。
それだけでも、あたしにとっては十分すぎるほどで、本を読んでいるハウエルがいつも傍らにいて見守ってくれているような気さえした。
何年も打ち捨てられていたかのようであった家の中も、今では調度品も小物までしっかり磨き上げた。
「あんたは本当はなんて綺麗だったの!まあ、素敵よ。そんなに美しいなら花を飾ったらまるでの一枚の絵画のようでしょうね。明日綺麗なお花を摘んできてあげるわね?」
あたしが一つ一つの調度品に話しかけながら磨き上げていると、ハウエルが一瞬ソファーに沈めた身体を慌てて起こして凍りついたように見つめたことがあったけど。
「あんた本当に奴隷働きが好きなんだね」
ハウエルが呟いた言葉にはどこか懐かしさが滲んでいた。
あたしはあえて気にせずに、この掃除方法で他の調度品も磨き上げた。
ただ一つ。
壊れた時計はそのままで、直してみようと試みたが・・・何故か触れてはいけないハウエルの領域な気がして、掃除のために触れるだけで、その止ったままの時計の針に触れるのはやめた。
勝手口からそっと扉を開けて、森へも出かけた。
日の光りも通さないような碧の深さは、時間によって見せる色合いも異なった。
あたしは時折空を眺めては、森の中で不思議な声を何度も聞いた。
『おかえり、おかえり。帰ってくるのを待っていたよ』
それは優しく語り掛けてきた。
『おかえりなさい。』
森はそう言ってあたしを包み込む。
「・・・ただいま」
あたしが呟くと木々がざわざわと揺れて、その後はまた澄み切った空気に戻っていった。
ハウエルの周りにだけ感じていた光りの存在は、今やこの家全体、森にまで溢れ、あたしは泣きたいほどの穏やかな空気に安心して眠った。
時に現れる悪夢を・・・ハウエルが取り除いてくれていたなんて・・・その時にはまだ知らなかった。








        6へ続く