まるで体中の余分な力が全て抜けたかのような、とても軽くなった気がしてあたしは握り締めたカーテンから手を離した。
今は。
何も考えたくない。
思い出せないことも、何もかも。
「とりあえず、あたしに与えられた仕事をしよう。」
あたしはサイドボードの上にある、自分が持ってきたらしいバックを開き、中から着替えを取り出した。
「シャワー・・・借りてもいいかしら・・・?」
心は軽くなったものの、身体はまだどこかすっきりしない。
汗を流して、この最後にしがみ付くように残っている、不快な気持ちを取り去ってしまいたかった。
こんなに早い時間じゃ、きっとハウエルさん・・・まだ寝てるわよね?
何が入っているのかもよくわからないバックから、今必要とするものだけを取り出して抱えると、ドアノブを廻した。
カチャリと遠慮がちにドアノブをまわすと、ぐにゃりと何かが歪むような感覚がして身体ごと捻じ曲げられたかのようで。
一瞬、あたしは眩暈がしたのかと目を瞑る。
足元が安定したと感じるまでに、数十秒を要したように感じる。
ようやく瞳を開けたあたしの見たドアの向こうは、昨日転がり込んだあのリビングで、散らかったままのソファーやテーブルは昨日のままだった。
柱時計は時を刻まず・・・その空間は、まるで廃墟のように静まりかえり暗く淀んでいた。
体が一瞬ひやりとして、あたしは思わず腕をさする。
昨日感じた温かさや、ほっとするような空気はどこにも感じられなかった。
カビ臭くて、埃っぽく、何もかもが古めかしい。
あれから、何年も経ってしまったかのよう・・・。
しばらく立ち尽くし、あたしは意を決して寝室に戻り、タオルや着替えをベットに放りだして腕まくりをした。
「掃除をしよう。なんてやりがいのある仕事かしら。」
体中がわくわくしてくることに、わけがわからず笑ってしまう。
「掃除が楽しみなんて。あたしって、どんな娘かしら?」
こんなに掃除のし甲斐のある家だとは思わなかったわ!
くすくすと笑いながら再びリビングに戻り、深い緑の森に続く窓枠に手を掛けると、勢いよく窓を開けた。
さあっと流れ込む風が、淀んだ空気を浄化する。
それだけで、心が晴れやかになっていく。
「まずは、箒をさがさなくちゃね。」
スカーフを取り出して、頭に巻きつけるとさっそくあたしは働き出した。
辺りを見渡して小さな扉を開けると、古びて使われずに薄汚れた箒やバケツ、デッキブラシが詰め込まれている。
あたしは蜘蛛の巣だらけのその掃除用具を出すと、奥に見えるキッチンに向かった。
流し台は同じように蜘蛛の巣がかかり、人の生活しているような様子はまったく見当たらず、食器の一枚もそこには出ていなかった。
「・・・まるで、何も食べてないみたいね?」
廻した蛇口は、最初ごごご、と音がするだけで何も出ず、しばらくそのまま待ちそっと覗きこむと、ようやく赤茶けたような水が勢いよく流れ出した。
刹那。
その赤茶けた水が血のように思えて、あたしは短く「ひっ」と悲鳴をあげかけ、慌てて口元を覆った。
そんなわけない。血のわけがないじゃない!父さんの血じゃないわ!
何かが頭の中で光り、目の前が真っ赤に染まる。
「あ・・・あっ・・・」
赤茶けた水が透き通る透明な液体に変わっていくのを眺めながら、必死に口元を押さえて瞳を見開く。
違う。違うわ。
これは血じゃない。
バケツから溢れた水が流し台に溜まっていくのを見つめて、蛇口を捻る。
そこには、真っ青な顔のあたし。
揺れる水面に移る自分の瞳が、不安げに覗き込んでいる。
「っ・・・はあ・・・」
ようやく、自ら呼吸を止めていたことに気づき大きく息をつく。
心臓がずきんずきんと痛み、耳鳴りがする。
マダ、ダメヨ。オモイダシチャダメ。
深呼吸すると、蒼白な顔の映る水面から顔をあげ、そのバケツに溜まった水に手を差し込む。
水は差し入れた手がジンと痺れるような、清冽な冷たさを伝える。
両手で掬うと、思い切り両頬にぶつける。
冷たく澄んだ水は、錯乱しかけた意識を一気に今へと引き戻す。
「・・・・・・まずは、リビング。・・・ここも酷いものだわ。他の部屋も同じかしら?掃除だけで何日もかかりそうね。」
今はとにかく身体を動かしていよう。
一つ一つ、頭にこれからのイメージを浮かべる。
没頭してしまえばいい。
あたしを必要としてくれる人は・・・今は居ない。
何も考えなくていいと、頭の片隅で声がする。
その声に頷きながら、水の入ったバケツを持ち上げる。
「昨日はあんなに汚れていたかしら?あたし、よっぽど疲れていたのね。埃まみれだったのに気がつかなかったわ。」
ふと、昨日感じたこの部屋の奇妙な感覚を思い出す。
そういえば。
あの青年の周りだけが、光り輝いて見えたんだわ・・・。
他の場所は、どこも霞んだり錆びれた感じがしていた。
ハウエルの放つ光りだけが、ここにある全てのものに命を吹き込んでいるかのような。
あたしは、天井の蜘蛛の巣を払いながら首を傾げる。
それでも、ちっとも怖くない。
あたしにとって・・・怖いもの・・・。
頭をよぎる不吉なイメージに、あたしは頭を振りながら雑巾をきつく絞る。
「それにしても、こんな部屋によく居れるわ!」
それからしばらくは、時間を忘れて手を動かした。
あたしはいつしか、ここでの生活を楽しめるようにと、願い込めて床を磨いていた。
かなりの物音をたてたはずであるが、いくつかある扉はどれも開かなかった。
「ふう。」
汗を手の甲で拭きながら、吹き込む新鮮な空気を吸い込もうと窓辺に近づく。
「とりあえず、これでカビ臭さはなくなったかしら。」
頭に巻いたスカーフを外しながら満足してリビングを見回していると、背後から声が響く。
「・・・あんた、奴隷働きが好きなの?」
冷ややかな瞳に射抜かれて、あたしは思わずスカーフを胸の前で握り締める。
いつの間にかハウエルが大きな紙袋を抱えて立っていた。
その周りは、やはり柔らかく温かな光りが満ちている。
出かけていたんですね、そう言いたかったが声がでなかった。
「とりあえず、食事にしようか」
ハウエルの瞳が、ほんの少し優しく揺れたように感じて・・・あたしは肩の力をゆっくりと抜いた。
5へ続く