翡翠の森 - 3 -
静かに流れ落ちる水音に頬を撫でられる。
深く深く、沈んでいた水底から引き上げられ、ふわりと宙に浮いたような感覚。
そして、花の香りに包み込まれる。
お願い。あたしを起こさないで。
このまましばらく眠っていたいの。
額にかかる優しい息遣い。
そして、耳に響く澄んだ声。
『あんたは一体何を抱えているの』
痛い。痛い。こんな気持ち、知りたくなかった。
どうしてあたしは独りぼっちなの?
『人はみんな独りぼっちさ。それがそんなに悲しいかい?』
悲しくなんてないわ。寂しくなんてない。それでも、やっぱりたった一人の肉親までが、居なくなるのは悲しいこと・・・。
愛した人に、その命を奪われたなんて、知りたくなかった。
『・・・知らずに、愛していたかった?あんたの肉親の命を奪ったその腕の中で、あんたは幸せになれたと思うの?』
最初から、気づいていたのよ。直感していたの。なのに、あたしは目を塞いだ。あの人を愛していたわ。
裏切られるなんて、嘘よ!って。
ああ、馬鹿なあたしは。
ほんの少し、夢を見たかったの。
でも、そうすべきではなかった。
ちゃんと目を塞がず、見ていたら・・・父さんは殺されたりしなかったかもしれないのに・・・。
『あんたの所為じゃないんじゃない?』
あたしのことを愛してくれる人は居ないんだって・・・知っていたのに。
あたしは、独りぼっち。
あたしも・・・父さんの所へ・・・
『・・・逝きたい?』
それはまるで天使の囁きのようで、あたしは抱き上げられたまま天に昇れる気がしていた。
あるいはこのまま死神が引きずり込むように地の底へ身を沈めようとも・・・幸福だと思えたのかもしれない。
『残念だけど。僕にはどちらもしてやれない。あんたが自分で選ぶんだね。それまで、僕はあんたをここに置いてやるよ。
さあ・・・また眠って。』
あなたは・・・ハウエル?
『悪かったね。あんたの・・・封じた記憶をこじ開けて。あんたがどうしてここに来れたのか・・・知りたかったんだ。』
あたしの・・・記憶?
『ああもういいんだ。さあ、また身を委ねるといい。忘却は・・・罪ではないから。・・・ここではね。』
・・・なんで?あなたは・・・?
『ここに入り込めた人間は初めてだから。・・・見極めたいしね。』
背中に柔らかな布の感触が広がり、包み込むような花の香りが遠ざかる。
そこが程よいスプリングの利いたベッドであるとわかったけれど、あたしは瞼が重くて開けられなかった。
『あんたは僕と同類みたいだし。・・・誰も信じない。信じられない。それだけの過去を持って。それでも生きていくのは・・・苦しいものさ。』
そっと。
冷たい指先が頬に触れ、輪郭をなぞるように目尻まで動いた。
『・・・何でだろう?あんたの涙は見たくないんだ。』
・・・ハウエル?
『・・・明けない夜はない・・・か・・・。』
耳に響いていた声が、それは直接頭の中に響いていたのだと気がついた。
それまで聞こえなかった、ベッドが微かに軋む音や空気が流れる感覚が肌に伝わった。
「ソフィー、あんたは・・・何か変化をもたらす存在なのかい?」
どこかすがるような響きの宿った声に、あたしは体中が一気に覚醒するのを感じた。
耳に言葉として届いたそれに、あたしは慌てて身体を起こした。
「・・・今のは・・・?」
あたしは自分がベッドの上にいることに驚いて、一瞬何も考えられず、ただカーテンの隙間から見える窓の外を眺めていた。
そこは漆黒の闇の向こうに、白い光りがうっすらと線を延ばしていた。
「・・・夜明け?」
その光りに吸い寄せられるように、ベッドを降りると窓辺に歩み寄り、淡い水色のカーテンを思い切り開けた。
水底に光りが差し込んでくるかのように、森がきらきらと輝きだし、一瞬その景色に目を奪われる。
初めて見たはずなのに、懐かしい光景。
「明けない夜はない・・・」
ぽつりと呟いて、あたしは首を傾げる。
誰が言っていたんだっけ?
一生、あたしの夜は明けないと思っていたのに。
頭の中にもやがかかっているみたいで、何かが欠落しているのに思い出せない。
「・・・ここは・・・」
あたしが昨日辿りついた・・・最後の・・・?
・・・金色の髪の美しい青年・・・ハウエルさんの屋敷。
あたしは・・・ここで・・・。
「掃除婦として働くのよね?・・・行くあてのないあたしには、ここしかないのよ?」
昨日の覚えている記憶をかき集めて、もやのかかった頭を振る。
「あたしったら、いつの間にか寝ちゃったのね。あのソファーの座り心地は最高だったもの!」
と、いうことは・・・あたしをここまで連れてきたのはハウエル・・・?
そう考えて、あたしの頬は急に熱を持ったように熱くなった。
同時に・・・胸の奥でズキンと鈍い痛みが走り・・・正体のわからない切なさが・・・心臓をぎゅうっと締め付けた。
4へ続く