翡翠の森   - 2 -







改めて室内を見回すと家の中は瀟洒なつくりで、大きなソファーが玄関の前にコの字型に置かれていた。
ソファーには乱雑に本やら衣類が放り投げられていて、多分そこに寝そべっていたのだろう、クッションが2つ集められ、そこには開きかけの本が無造作に置いてあった。
入ってすぐ左手には扉が2つ。右手には3つあった。ソファーをはさんでまた扉が1つ。左手奥にキッチンが見える。
散らかってはいるものの、汚れてひどいだとかそういったことはなく、ただ高そうな家具やお洒落な小物などが手入れされずにいるのが勿体なく感じた。
外の深い碧から比べると、室内は黄色や赤といった明るめの色で包まれている。基本的に淡い色合いが多く、温かな優しい雰囲気が漂う。
「座れば?」
あたしに背を向ける感じで、比較的物の置かれていない正面のソファーを指差すと、金髪の青年・・・ハウエルは素っ気無く言って左のソファーに座った。
面倒だな、と顔に浮かべた不快感は、一瞬見せた微笑を幻だったのだろうと結論付けた。
あたしはその無機質な声に、床にへたりこんでいたことに気がつく。
床からゆっくり立ち上がり、伏せながらも様子を伺っているハウエルの碧眼に、おずおずと指し示されたソファーに座った。
この家の主からは、これっぽっちも感じられないというのに・・・。
青年の放つ冷たさと、この家のもつ優しさがないまぜになって・・・それがぎこちなくもあたしには丁度よいと感じるのが不思議だった。
いいようのない安堵感に包まれて、あたしは深く息を吸い込む。

ヤットイキガデキル!

どうして、こうもこの空間が心安らぐのかわからない。
深々とソファーに腰掛け、あたしは再度室内を見まわす。
窓から見える深い碧の森は静かにたたずみ、室内の静けさとともに、ただそれだけであたしの空っぽの心の中を満たしていくようだった。
何で空っぽなのかもわからない。
でも確実にあたしは何かに傷つき、そして逃げ出してきたのだ・・・。
どこにも帰る場所なんて・・・ない・・・。
それでも、この森の中の見知らぬ青年の家に・・・あたしは何故?
背中越しに扉を見れば 、あたしの入ってきたほうの扉もその隣の扉も・・・そこに扉はなく、ただクリーム色の壁が見えるだけだった。
不思議に思い、よくよくあたりを見渡せば、柱時計は時を刻んでおらず、今居る場所以外はどこか寂れていて色もくすんだり霞んで見えた。
そう・・・この家の主である青年の周りだけが、彼の発する光に照らされて存在しているかのようだった。
あたしは、その光りの源であるハウエルに視線を向けた。
ハウエルは、目の端であたしの様子を確認して、置いてあった本を拾い上げてごろんと横になった。長身の足がソファーから投げ出され、ゆっくりと長い足を組んだ。
テーブルに置いてあった眼鏡に手を伸ばし、掴む指先までがすらりと美しく、優雅に眼鏡をかけると開いた本へと目を移す。その流れるような動作に目を奪われる。
ハウエルの指先が通った場所は、一瞬まばゆい光りを受け継いだかのように鮮やかに見えた。
白い洗いざらしのシャツを着て、胸元は大きく肌けていた。そんななんでもない服装なのに、彼の妖艶さは少しも損なわれず、むしろどんな恰好でも彼にとっては自然で、美しさを強調することになるのだろうと思えた。

この美しい青年は・・・。
ハウエルは・・・どうして強引にも追い出さなかったのか?
自分がどこから来たのかもわからないような・・・不気味なあたしを・・・。
あの時、あたしは何で彼の腕にしがみ付いたのだろう?
彼が・・・何か得体の知れない力を使うような気がしていただなんて・・・あたしって、本当にどうなっちゃったんだろう?
あたしは・・・いつまで・・・ここにいることを・・・許される?

訊きたいことはいろいろとあったが・・・ここに招き入れてくれたこの人は、突然訪れたあたしに何も訊こうとしなかった。
・・・もしも、何か問われても・・・何も答えられない。
そんなあたしの不安を感じ取っているかのように、ハウエルは無言で本のページをめくった。
時が止ったかのように。
あたしを包んでいた。
静寂がいつしか忘れていた疲れを呼び覚まし、あたしの体を鉛のように変えていった。ふかふかのソファーに沈み込むように、重くなるまぶたに堪えられず、そっと瞳を閉じてやがて訪れた眠りに身を委ねた。

多分、アレ以来・・・眠りが訪れたのは・・・久しぶり。

どうしようもない悲しみには・・・眠りすら訪れてはくれなかった。
それが、ソファーのお陰なのか・・・それともこの家の持つ不思議な力なのか・・・あたしにはまだわからなかった。
ただ・・・今は・・・眠ろう・・・。
あたしは・・・思ったより・・・疲れていたみたい・・・。





深い眠りから緩やかに浅い眠りへと移行し、あたしは誰かの話し声に聴覚だけが敏感になっていることを知った。
静かに囁くような声が、はっきりと聞こえてきても瞳を開けることはできなかった。
「結局、入れちゃったのかい?」
「・・・うるさいよ。僕の勝手だろう?」
「珍しいね。あんたが情にほだされるなんて。」
「そんなんじゃないさ。ただ・・・」
「ただ?あんたが誰かを受け入れるのを見るのは・・・そうだな、・・・以来か?」
「受け入れてなんていないさ。ただ掃除をしてもらうだけ。」
これは・・・ハウエルの声だわ。では、一体誰と??相手は・・・男性?
「あんた・・・もういいんじゃないか?それに・・・」
この声は・・・?どこかくぐもったような、押し殺したような声。・・・若いのか年なのかわからないような、不思議な声だ。
「彼女は、来ては行けないところに来てしまった。だから・・・いつかは帰らなければ行けない・・・」
どこか寂しそうに響いたハウエルの声は、あたしの胸の中をざわつかせる。
何故か、いますぐ起き上がってハウエルの表情を見なければいけない気がしたが、疲れきっていた体は思うようには反応してくれない。
「そんなこと!あんたなら造作もないことだろう!?」
あたしの知らないもう一人の声は、じれったそうにそう言いながら移動しているようであたしのすぐ傍で聞こえた。
「なんなら、このこで試してみるかい?」
「冗談だろう?カルシファー。そんなつもりさらさらないね!僕は、もう、誰も信じたりしないさ。だから、そのこも必要ない。」
はっきりと言い切ったハウエルのその声の冷たさに、あたしは少なからず胸の中で悲鳴をあげた。
体中の血液が逆流して、指先が冷たくなった。
「っ・・・・。」
神経が麻痺していることに気がついたのは、嗚咽が漏れてからだった。上手く自分の感情と体が繋がっていない。
バラバラになるかのような胸の痛みが後から襲った。
あたしは瞳が開けられなかったことを感謝した。
今、あの翡翠色の瞳があたしを拒絶するのを見たくはなかった。
「おい・・・」
くぐもった声が一瞬たじろぐのがわかった。
あたしの頬を温かな一筋の涙が伝っていった。
「・・・・!」
息をのむ空気を感じたけれど、そのまま再び眠りに落ちた。
先程感じた安堵感は、すでに絶望に変わり、もうしばらくは眠りから抜け出したくないと・・・思いながら。








        3へ続く