翡翠の森 - 10 -
マイケルと呼ばれた少年は、彼の妹だという少女にむかい、何事か呟きながら目を閉じていたハウエルを祈るような瞳で見つめている。
ハウエルは一度目を瞑ると大きく深呼吸した。
周囲の空気が揺らぎ、ハウエル自信が淡く光りを放った。
その光りが少女を包み込むと急速に周りの空気が冷たくなる。
まるで水の中に居るような、そんな感覚だった。
少女は小さく短く息を吐き、次いで全身をしならせるようにして今までより大きく体を震えさせた。
「ジェンキンさんっ・・・!」
そんな苦しそうな姿に、マイケル少年は思わずハウエルの肩を右手で思い切り掴んだ。
「この娘の身体に性質の悪い呪いがかけられたんだよ。それを取り出すのに、少しツライ想いをさせてしまいそうだ。
マイケル、見ているのがツライなら目を瞑っていたほうがいい。・・・・この娘は、君の大事な人なんだろう?」
失うことのできない、愛しい存在。
ハウエルは振り返ることも、少年の手を振り解くこともせずに小さく呟いた。
その最後の言葉には、確かな痛みが伴っていて、少年ははっとしたようにハウエルの肩から手を離すと、一歩後ずさりぺこりと頭を下げた。
「大切、です。だから、見ています。マーサから目を離したりしません。」
少年は気丈にそう言うと、床に座ったままのあたしに気づき手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?ごめんなさい・・・」
温かな手に腕を持ち上げられ、少女が横たわるソファーの向かい側のソファーに導かれる。
「いいえ・・・・っ・・・・・」
それだけを言うのがやっとだった。
謝らなきゃいけないのは・・・きっと私の方なのだから。
二人組みの男。
鮮明にその姿が頭の中に思い浮かぶ。
二人組みの男。
少年の言葉を聞いた瞬間に、脳裏で何かが弾けた。
かつて、あたしが愛した人。
愛だと信じて疑わなかった。
あんなことが起きるまでは、誰よりも心を許した相手。
あたしをただの飾り物のように、まるで、感情を持たない人形のように扱った人。
『この結婚に感情など必要ない』と『感情など持たない人形でいい』と言った人。
頭の片隅で、何かが弾ける音がする。
嫌な音だ。
これは、人を破滅させる音。
あたしの大切な人を・・・奪った・・・・
お父様を・・・私の目の前で撃ち抜いた銃の・・・。
急速に戻る記憶に、頭が締め付けられたように痛み出し、今ソファーで横たわる少女に血にまみれた父が重なった。
「ひっ・・・!」
かろうじて口元を押さえて悲鳴を抑え、あたしはソファーにうずくまった。
頭の中にあった霧が取除かれていく。
マダ、オモイダサナクテ、イイ!
頭の中で悲鳴が聞こえる。
ああ、この悲鳴は、あたしのものだ・・・。
煌びやかな大広間の、婚約を祝福する宴は、いつ終わるともなく賑やかに続いていた。
楽団が音楽を奏で、人々が円になって踊る。
招待客からの挨拶もひとしきり終わり、まるで夢のように幸せに浸っていた。
そう、あたしと彼の婚約式。
一代で財を築いたお父様。
物心ついた時には、まるで王国のお姫様のように人々に傅かれていた。
あながち姫と言うのも嘘ではない。
お母様は今は絶えてしまった王族の血を引いていた。
稀に不思議な力を受け継ぐというその王族の血。
私はそれまでずっと途絶えていたその不思議な力を、久方ぶりに継承したらしかった。
すでに受け継ぐべき王家はなくとも、あたしの力は利用価値のあるものだったらしい。
お父さんは・・・あたしの力を大いに利用した。
そうして築いた莫大な財産。
「ソフィー、おめでとう。」
幼馴染のレティーがあたしの両手を掴んで微笑む。
「早くソフィーの花嫁姿が見たいわ。あんまり遅いと、ドレスが着れなくなっちゃうもの。」
この国で一番の美女と噂されるレティーが、あたしの耳元でこそりと呟く。
「赤ちゃんができたのよ。ふふふ。ねえ、ソフィー、男の子かしら?女の子かしら?」
瞬時にレティーにそっくりの可愛らしい女の子が脳裏に浮かび、あたしは思わず笑った。
ああ、ベンジャミンは娘さんにも悪い虫がつかないか心配しなくちゃいけないのね。
そんな幸せな空気で満ちている空間で、あたしは急に背筋が冷たくなるのを感じた。
あたりを見回す。
異変に気がついている人は居ない。
でも、この温かな幸せな空間に、異質な冷たい空気が流れ込んでくる。
本来なら、傍らで微笑んでいるはずの人たち。
いつの間にかその場から居なくなっていたのは、お父様と、その片腕と言われる彼。
「お父様はどちらへ?」
長年父に仕える専務に尋ねると、寝室に戻ったようだという。
急速にざわつきだす胸に、あたしは「そんなわけない」と一人呟く。
「ソフィーさま?」
幸せなはずの宴で、血の気が引いていくあたしに専務は不安そうに顔を覗き込んでくる。
「なんでもないわ。」
答えながら、それでもあたしの頭の中で、もう一人のあたしが悲しそうに首を振った。
カレハ、キケン。
モウ、マニアワナイ。
アタシハ、アタシノタイセツナヒトタチヲ、ウシナウ
ずっと、そう警告してきたのに。
そう言いながら、もう一人のあたしが涙を流す。
「ソフィーさま?」
専務の驚いたような声を背後に聞きながら、あたしは足早に大広間をあとにした。
どうか、どうか、あたしのこの不吉な予言を打ち消して。
誰も失いたくない。
お母様を失った後、辛い時にいつも傍で支えてくれた人。
アンゴラ。
出逢った時から、何故か不吉な予感がしていたのだけど、慕い寄り添ってくれる彼に、いつしか淡い恋心を持つようになった。
会社の重役たちは知っている。
あたしの予言が、この財閥の繁栄をもたらしているのだと。
だけど、皆が本当はあたしを恐れているのを知っていた。
得体の知れない能力。
魔女と囁かれていることを知っていた。
そんなあたしを、特別扱いせずに、一人の女の子として接してくれた人。
漆黒の髪と燃えるような赤い瞳。
禍々しささえ感じる美しい男。
冷酷そうな瞳に、だけどあたしを映すときは柔らかく変わった。
「ずっと、あなたを探していました」
そう言って、怖がらずにあたしへと手を差し伸べた人。
まるで何かに囚われたかのように、あたしはアンゴラに惹かれ、日々強くなるもう一人のあたしの言葉に、あたしはついに耳を塞いだ。
誰よりも、彼を信じているのだと。
だから、どうか、お願い。
あたしから、信じる者を奪わないで。
あたしは寝室の扉を開けた。
時を同じくして、何かを破裂させたかのような甲高い音が響き、目の前には信じられない光景が飛び込んできた。
お父様の胸を何かが突き抜け、真っ赤な血が噴出した。
「おとうさまっ!!」
あたしは思わず駆け出し、よろめくお父様を支えた。
何があったというの?
「アンゴラは?」
何があっても、あたしやお父様を守ると誓った、誰よりもあたしたち親子が信頼を寄せていた、彼はどこ?
今こそが、その時ではないか?
わかっていた。
本当は、知っていた。
あたしはお父様が驚愕の瞳で見据える先・・・こちらに向かって銃を構えている人影を見つめた。
「・・・アンゴラ・・・!」
あたしの婚約者であった彼が、お父様に向けた銃をゆっくりと降ろしていく。
何故、という問いは浮かんでこなかった。
わかっていたのだから、こんな風に彼があたしから大切な者を奪っていくのだと、あたしの愛しい存在・・・彼自身さえ奪うのだということを。
私の腕をキツク掴み、それでも暴漢から娘を遠ざけようと、最後に残った力で私を突き飛ばし、お父様は彼を見据えた。
「逃げ・・・なさい。・・・ソフィー・・・はっやく・・・!」
「案外、しぶといのですね、お義父様。」
アンゴラはにやりと笑ってつぶやき、すぐに表情を凍らせもう一度お父様に向かって銃を構えた。
「やめてっ・・・!」
突き飛ばされ、立ち上がることすらできず、あたしはただ叫ぶしかできなかった。
・・・いいえ、掠れて声が出ていたのかどうかすら定かではなかった。
こんな風になると、わかっていたのに。
それでも、信じて居たかった。
愛した人を信じて居たかった。
血の海に倒れたお父様に、その場で凍りついたように動けなくなったあたしに、本当なら、ただ一人彼だけは何があってもあたしを守ってくれると信じていた人――アンゴラは花が綻ぶようにゆっくりと笑顔を見せる。
「君は、何も言わなくていい。私が説明してあげるからね?会長は奥様に襲われたんだよ。そして、私は会長夫人が君にも銃口を向けたのでやむなく射殺したんだ。」
言いながら、ゆっくりと彼が視線を移した先には、あたしにとっては継母のファニーが同じように倒れていた。
「おかあさまっ・・・!」
「いつも君に辛くあたっていたのに、君は『お母様』と呼ぶんだね」
いつの間にかあたしの背後に回り、アンゴラはしゃがみこんで後ろからあたしを抱きしめた。
「奥様はね、心を病んでいた。大丈夫、君は殺しはしない。君の持つその力は大いに役に立つ。これから私が王としてやっていく為に。」
耳元で囁く声は、今まであたしが胸を焦がした優しいものではなく、恐ろしいくらいにささくれだった冷たい声だった。
「ああ、そんなに震えて。私が怖いかい?心配しなくても君は私の隣に居ればいいんだ。そう、ただ、人形のように。
いいじゃないか、君は私を愛しているんだろう?」
ようやくその腕をふりほどき、すでにぴくりとも動かないお父様の元へ這うようにして進んだ。
思うように前に進めないあたしをあざ笑うかのように、アンゴラはゆっくりとその後ろを可笑しそうについてくる。
「君のその不思議な力を会長は利用したじゃないか?今度は愛する私のために使ってくれればいい。心配しなくてもいいよ?私は君に近しい人間のはずさ。・・・化け物と言われるような、ね。」
アンゴラの言葉は、悲しみと怒りに混乱するあたしの心をまるで毒薬に浸すように囁く。
「奥様はいつもぼやいていたよ?もっとその気味の悪い予言を利用すればいいのに!と。」
私も同意見だったよ。
アンゴラは溜め息交じりに言いながら、お父様の頭を抱きかかえたあたしを見下ろした。
「さあ、おいで。私の可愛いソフィー。もう君は、私の術中にすっかり嵌っていると思ったのにね」
アンゴラの瞳が、真っ赤に光った。
その背後に、ぐるりと取り囲む無数の闇の眼。
「あ、なたは・・・」
「私はね、悪魔に身を売った一族の生き残りさ。」
身分を偽って入り込むのは容易かったよ、お人好しが多くてね。
「愛されていると思ったのかい?まあね、私の術は見事だったろう?そう信じたい気持ちを増幅する力がある呪いだったからね。お陰で随分命を削ってしまったよ。この埋め合わせは、ちゃんとしてもらうからね?」
「あ、悪魔・・・!?」
「ダメだよ、ソフィー。悪魔は君だろう?そんな恐ろしい能力を持って生まれてきて。普通の人間のように、愛されると思っていたのかい?
実の父親にさえ、利用されるような化け物のくせに?」
誰も愛するわけがないのに。
「それに、本当は知っていたんだろう?私が、君の大切なものを奪う人間だと。そうとわかっていて、君は自分の父親を殺させたんだ。」
「っ・・・!」
言葉が胸を抉る。
言葉にならない。
「銃声がしたようですが、何があったのですか!?」
駆け込んできたのは彼の部下のベンジャミンだった。
あたしは助けを求めるように振り返ったが、頭の中に直接話しかけられたアンゴラの言葉に黙り込んだ。
『彼の妻は、君の親友だったよね?』
「あの、大丈夫ですか?あなたも体調が悪いようですね」
マイケル少年が心配そうにあたしの前に跪いて、「ジェンキンさん」と彼を呼ぼうとした。
「いいえ、大丈夫ですから・・・・・ただ・・・・忘れていたことを思い出しただけです。」
少年の腕を掴んで、あたしは首を横に振った。
二人組みの男。
それは、間違いなく、アンゴラとベンジャミン。
あたしを探しに、ここまできたのだ・・・。
11へ続く
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