翡翠の森  - 1 -





悲しくて、悲しくて。
あたしは旅にでた。
どこでもよかった。
どこに行ってもあたしはもう一人ぼっち。
泣きたいだけ泣いたら、もうバックに荷物を詰め込んでいた。
冷たく凍ったこの身も心も温かくなるような、そんな場所に行きたい。
うんん。このまま時間を止めて、あたしも逝きたい。
相反する2つの心が共存して、まるで最後の楽園を求めるような気持ちだった。
もう戻れなくても、あたしの居場所が見つかるならば。







どこをどう辿ってここに辿りついたのかさえ定かではなくて。
気がつけば目の前に扉があった。
古い大きな扉は取っ手だけがピカピカに磨きこまれていた。
ノッカーはまるでそれを鳴らしたら中から屈強な戦士が現れるんじゃないか?と思わせる獅子の口に咥えられている。
ぼうっとする記憶の片隅に、飛行機に飛び乗ったことだけは思い出された。
ようやく意識がはっきりしてきて、辺りを見回せばうっそうとした緑に覆われ暖かな空気が満ちていた。
ここがどこかもわからないのに、何故かあたしは今目の前にある扉の向こうは、あたしを待つ人がいると確信していた。どんな人かはわからない。
女性なのか?男性なのか?
それでもこの・・・古びた家屋には、大事なことが待っているのだと直感していた。
そう、あたしの直感は侮れない。
一番大事な人を失くしてしまうことまで直感していたのだから。一人ぼっちになるのだと知っていたのだから。

しばし躊躇して、ノッカーに手をかけて、正面玄関の隣にもう一つ扉があることに気がついた。
アタシハ、コッチカラハイラナケレバ
自然と手が少し奥まった、壁と同化している扉にそっと触れる。
心臓がどきどきと早鐘のように鳴り、すっと息を吸い込むと意を決したように取っ手に手をかける。
アア、カエッテキタワ!
じわりと不思議な感覚が手のひらから染み込み、あたしは思わず目を瞑る。
なんでだろう?懐かしくて切ない。ただそこにいるだけで、涙がでそうなほど懐かしかった。
そして、不意に開かれた扉に倒れこむように室内に転がり込んだ。
「おや、珍しい!こんな辺境にお客さんだ」
あたしは何か柔らかいものに鼻先をぶつけて、涙目になりながらその声を辿るように目を開ける。
甘い花の香りと同時に飛び込んできたのは金色の波。
古ぼけた家屋からは想像もできないほどの・・・美しい青年。
思わず、その作り物のような美しい姿に見惚れてしまう。
あたしがぶつかったのは彼の胸で、長身のその青年は金色の髪をゆるやかに束ね、澄んだエメラルドの瞳を輝かせた。
「よくここが見つけられたね?」
柔らかな物言いとは明らかに反するいぶかしむような瞳が、あたしを見下ろしていた。あたしは慌ててその胸から離れ、深々と頭を下げた。
「あの、あたしをここに置いてください」
突然、そう言った自分自身にも驚いたけれど。
「お断りだね」
そう言った青年の瞳がひどく不機嫌に濁り、誰をも寄せ付けないような冷たい声が胸に突き刺さった。
「さあ、僕は誰も招いちゃいないんだ。ここのことはすっかり忘れて帰ってくれ!」
すっと左手があたしに向かって伸ばされ、青年は感情の籠らない声で淡々と告げた。あたしは咄嗟にその腕にしがみつき、美しく冷たい瞳を見据えて懇願した。
「お願い。あたしを追い出さないで!ここにいさせて。あたしには帰る場所がないの。」
そんなあたしの腕をふりほどき、彼はまた左の手の掌をあたしに向けた。
「ここは、あんたの来るべき場所じゃない。さあ・・・」
「イヤ!消さないで。あたしはココに帰って来たの。それに、どうやってココに来たのかもわからないのに、どうやって帰ればいいの?」
そう言って、開け放されたままの扉の向こう側に目を向ける。よく・・・歩いて来れたと思う。道らしきものなど何もない。ただただ緑のうねるような森があるだけ。日の光りが僅かに降り注ぐ・・・まるで緑の海の底。
「・・・あんた・・・どこまで知っている?」
警戒したような声に、扉の向こう側から再び青年へと視線を戻す。
「どこから来た?」
あたしはそう訊かれ、その質問に答えようと口を開いた。けれど、声がでなかった。
あたしは、どこから来た?
首を傾げるあたしをじっと見つめ、青年は溜め息をついた。
「・・・で、あんたの名前は?」
「え?」
「な・ま・え・!まさか名前まで知らないとか言うつもり?」
青年の尋ねる声は、不機嫌さを隠そうともしなくなる。
「・・・ソフィー。」
「それでは、ソフィー。あんたを掃除婦として雇うとしよう。それでいいかい?」
青年は覗き込むように、あたしの顔をじっと見つめた。
「ここを知った以上、あんたをこのまま帰すわけにはいかないんだ。それに・・・」
冷ややかな視線の奥に一瞬柔らかな感情が流れたような気がしたけれど、あたしは彼を見つめ返すほどの勇気はなかった。
自分のした行動に今更ながら困惑した。
あたしがこんな行動をとれるなんて思ってもみなかった。
今までのあたしなら・・・。
あたしなら?
そう考えて、今までのあたしを・・・思いだせないことに気がついた。
急に不安になり、あたしは自分を抱きしめるようにしてその場に座り込む。
「・・・ソフィー、あんた・・・。」
名前を呼ばれ、体が恐怖でびくっと反応する。

あたしは、また、独り、ぼっち。

カタカタと震える唇が・・・体を冷たくしていく。
青年はふーっと長く息を吐くと・・・口元にほんの少し笑みを浮かべた。
「僕の名前はハウエル。・・・あんたが・・・いたいだけいればいい。その替わり変な真似はなしだ。いいかい?」
どこまでも・・・深い・・・翡翠色に瞳の色は変わっていた。そう、あの扉の向こうの翡翠の森のように・・・。







        2へ続く