エメラルドの秘密
「さあ、ゆっくり横になって。怖がらなくていいんだよ?」
頭上から響く甘く優しい声は、すでにうっとりと恍惚の表情を浮かべていた少女をまた魅了し「はい」と可愛らしく頷いて頬を染めさせた。
声の主はにっこりと微笑み 「かわいいね」と目を細め、長い指先で金糸をおもむろに束ねた。そして胸ポケットから眼鏡を取り出しゆっくりとかけた。
一つ一つの動作を胸元で手を組んだまま見つめる少女に、ほんの少し申し訳なさそうに眉根を寄せ、まるで呪文を唱えるかのようにそっと囁く。
「最初は・・・少し痛いと思うけど・・・、僕にまかせてくれる?」
大丈夫、最後には君を喜ばせてあげられると思うから。
見つめるエメラルドの輝きを直視していられなくなった少女は、目を逸らすとコクンとまた頷いた。
「我慢します・・・それに、ハウルさんは痛くしないって有名ですもの。優しくしてくれるって聞いてます。私、信じてます。ハウルさんになら何をされても平気です!」
・・・信じてる・・・?何をされても・・・ね。
心の中で吐き捨てるように反芻し、くすっと自嘲的に瞳を細めた。
その残酷なまでの美しいエメラルドの瞳には、どこか冷たい狂気に似た色が滲んでいたのだが、少女はすでに瞳を閉じていた。
「・・・それじゃあ、始めるよ?」
ハウルはそれは嬉しそうに、指先をそこに滑り込ませた。
忙しなく人々が行き交うメインストリートから一歩奥まったその場所は、緑の庭園が美しい場所であった。
淡喰風の白亜の外観が南フランスの家を思わせる建物は、ここに住まう家人も美しいと評判であった。
その庭園の入り口には小さな看板がひっそりと立てられており、そこには【ジェンキンス歯科】と綴られていた。
この歯科は、ジェンキンス姉弟がその両親より譲り受け、姉のミーガンが理事となり医師も腕の良い者しか雇わなかった。
特に弟のハウル・ジェンキンスの腕前はこの国一番と有名だった。
彼はインターン時代から腕利きであることと、その患者を魅了する美しい風貌も合い間って、常に患者が絶えることはなかった。
紳士的な振る舞いと、患者を虜にする美しさ。
数多の病院から声をかけられるほどの技量は、姉が強引にここへ連れ戻さなければ、まだ彼は研究に没頭していたかったようなのだが。
両親の跡を継ぐかのようにレールの上だけで振舞ってきた彼は、本来人と関わるのがほんの少し億劫なのだ。
できれば院生生活をきままに送り、教授のヘルプだけで治療にあたるくらいが一番いいと考えていたのだ。
しかし、そんな彼の願い虚しく、彼は今ではこの歯科の大きな売りであったのだ。
思わず我が身を呪って溜め息を漏らすと、傍らの存在が気遣わしげに声をかけてきた。
「ハウル先生、今日はお願いしますね。本当に無理を言ってすみません。」
この歯科に勤める者は、すべてミーガン院長の眼鏡にかなう美形でなければならないという噂を真実味を帯びさせるかのように、街一番美人で有名なレティー・ハッター嬢がカルテを片手に苦笑した。
彼女はこの歯科でここ一年ほどハウル専属の歯科衛生士として勤めている。
「ああ、もちろん。君のお願いなら何だって聞くよ?ディナーの誘いじゃないことは残念だけどね。」
ハウルはうっとりするような微笑を浮かべると、レティーから差し出されたカルテを受け取り、それに目を通した。
「もちろん、このお礼は致します。・・・なんと言っても、大好きな姉のことですから。姉さんは本当に厄介な体質なんです。」
「ああ、そんなこと言ってたね。確か・・・」
ハウルは椅子に座ると長い足を優雅に組んだ。
「麻酔が効かないんです。いえ、正確には効き難い、という感じでしょうか・・・。」
レティーは天井を見上げて溜め息を吐いた。その憂いを含んだ姿は男性患者を魅了して、街の若い男たちはこぞってこの歯科を訪れるのだ。
ハウルはそんなレティーを雇った姉の見事な経営手腕に舌を巻きつつ、この美しいレティーの姉はどんな女性なのかと興味が湧いてきていた。
「それで、今までには歯医者に行ったことは?」
「あります。ただ、姉は感覚が残るままで治療されてから・・・まあ、その時行った歯医者が下手だった所為もあるのでしょうけど、2時間も地獄のような痛みに苦しめられてからというもの、大の歯医者嫌いになってしまって・・・。」
レティーは申し訳なさそうにハウルを見上げると、青い瞳を潤ませて続けた。
「だから、今では虫歯が酷くなってしまって。さすがに我慢しきれなくなったのと、私に無理やり予約を入れられたので、ようやく治療となったのです。」
「そう。」
ハウルは一瞬探るような眼差しをレティーへ向ける。
レティーはわざとにこりと笑って、お願いしますね、と頭をさげる。
姉が「歯医者なんて本当は虫歯の人がいなかったら商売にならないのに!なんであんなに威張り腐っているのかしら!」と言ってることは黙っておこうと口元をカルテで隠した。
普段は穏やかに優しく振舞うハウルであるのに、時折診療中に垣間見る冷酷な表情をレティーは知っているので、彼の求愛も幾度となく断っているのだ。
どこか掴み所のないハウルであったが、やはり腕の良さは誇れるものがあり、トラウマのある姉・ソフィーにとってはもうここで治療を受けるしかないようにさえ思えた。
「・・・でも、もう予約時間過ぎてない?」
漆喰の壁にかかった時計を見上げて、ハウルはレティーを見つめた。
レティーは慌てて予約時間を確認して、言葉を紡いだ。
「もう!姉さんたら、またお客さんが帰ってくれないのかしら!?」
「君のお姉さんは何をしてるの?」
一瞬凍りかけていた空気が緩み、レティーは勢いこんで話を続けた。
「花屋をしてるんです。姉さんが育てた花は、長持ちするって有名なんですよ。」
「へえ・・・。」
レティーはちらりと腕時計を見、心の中でソフィーに叫んだ。
姉さん!もう15分も遅刻よ・・・!ハウル先生、待たされた事ないんだからね?早く来て!
「ソフィーさん?もう歯医者の予約時間過ぎてますよ!早く行ってください、あとは僕が引き受けますから。」
ソフィーはお祝い用の花束を作りながら、ちらりと壁にかかった時計に視線を走らせると、はあ、と溜め息をついてアルバイトのマイケルを見つめた。
この店は昔父親が開いていた帽子店を改装して、長女のソフィーが花屋を開いていた。
ハッター家の三姉妹は皆美しいことで有名であったが、ソフィー本人は妹たちの「おまけ」でそう言われてるのだと信じて疑わなかった。
「ソフィーさん!?言っておきますけど虫歯は治療しなかったら治りませんからね!」
「・・・わかってる・・・。でも、今は痛くないのよ」
ソフィーが苦笑して肩を竦めると、マイケルは花束を奪うように取り上げて、その背中をぐいぐいと押した。
「ダメです!ソフィーさんのあんなつらそうな顔見たくありません!せっかくレティーさんが予約してくれたんですよ!?行ってください!でないと、僕はマーサに口を利いてもらえませんよ!」
「マーサはすぐに折れるわよ。あんたのことが大好きなんだから。」
言い返すソフィーをマイケルは必死に戸口まで押していくと、はい、とソフィーにバックを握らせる。
「いいですか、絶対に治療してきてくださいね?・・・これでも、僕、本当にソフィーさん心配してるんですよ?」
振り返って見つめた先には、マイケルの懇願するような表情があり、ソフィーは逃げ出したい気持ちをぐっと堪えて頷いた。
「・・・わかった。そんな顔しないで、マイケル。ちゃんと行くわよ。ごめんね、心配かけて。」
ソフィーが首を傾げると、マイケルはぱあっと人好きする笑顔を浮かべて手を振った。
「いってらっしゃい、ソフィーさん!お店はまかせてください!」
まるでちゃんと歯医者に向かうのを確認するかのように、マイケルはしばらくの間手を振り続けていた。
「帰りにマーサのところへ寄って、顔を見せてあげてくださいね!」
約束の時間を40分過ぎて、ようやくソフィーはレティーの待つ診察室に足を踏み入れた。
ソフィーはエントランスからこの診察室に至るまで、すでにここが自分のもっとも苦手な歯医者であることを忘れかけていた。
外観もさることながら、内装もセンスのよさが光りまるでホテルのロビーのような、一流のレストランのような、そんな上品な空気が流れていた。
それはいつものソフィーであれば緊張を促す筈であったのに、暖かな雰囲気を醸し出す雰囲気があり、心をほぐす作用があるのが不思議であった。
だから、診察室で白衣に身を包んだハウルと向かい合うまで、一瞬、ここがどこなのかを忘れて・・・あの受付にはこんな花が合いそうだとか・・・そんなことを考えていたのだ。
「随分・・・あんたの花屋は忙しいんだね。」
冷たい声が降り注いでソフィーを現実に引き戻すと、ハウルはいつものようににっこりと微笑んだ。
そう、いつものように。冷たさなど感じさせないように。
「・・・・!」
レティーから噂はいつも聞いていた。
さらさらの金の髪にエメラルドグリーンの瞳。
背が高く、紳士的な振る舞いで女性客は皆魅了される。そして繊細な指先で治療する。
うっとりしてる間に治療は終わるのだとか。
でも、とソフィーは心の中で舌打ちした。
確かに街中の女性が虜になるという美しさは頷けたが、心の中まで見透かすような瞳は冷たく妖しく揺らめいている。
ソフィーには・・・何故かこの男が見た目ほど・・・優しい男ではないのだと、体中の感覚が警報を鳴らし訴えていた。
「姉さん!ハウル先生はね、予約でいっぱいなのよ!?」
レティーが慌ててソフィーに耳打ちする。
はっとして、レティーの横でまるで彫刻のように正確な笑顔を貼り付けたハウルと目が合った。
ソフィーは一瞬にして全身に鳥肌がたつような感覚に支配されて、血の気が引いていくのがわかった。
歯医者であるということになのか、それともハウルという人間に対しての恐怖なのか・・・・。
「あ、いつもレティーが・・・」
何か言おうとすると唇が震えて上手く話せない。
「挨拶はいいよ。レティーの頼みだから無理に時間作ったんだから。」
笑顔から紡ぎだされるとは思えないほど、感情がこもっていない。そうソフィーには感じられた。
「ご、ごめんなさ・・・・」
「それにしても・・・レティーのお姉さんがこんなに地味だとは知らなかった」
聞きなれている台詞とはいえ、恐怖がじわじわと体中に広がるソフィーには何もかもが・・・、くすくすと笑うその声までが凶器に思えた。
ずきんと胸に痛みが走る。
次いで、忘れかけていた痛みが口の中に走り、ソフィーは椅子の上で身を捩った。
「・・・・!!!!」
「痛むの?」
それは優しく言われた筈であるのに、ソフィーにとってはハウルが馬鹿にしているように感じた。
「さあ、見せて。早く痛みの原因を取り除こう?」
「・・・いや・・・です。」
ソフィーの言葉に、ハウルは半ば呆れたように表情を崩した。
「・・・あのさ、あんた・・・なんの為にここへ来たの?」
「姉さんっ!」
レティーがソフィーの隣で手を握る。
「仕方ないでしょう?もう、そんなに酷くなったら治療しなきゃ・・・!」
「どんどん痛くなるだけだけど。さあ、見せて。」
ソフィーがスカートを握り締め俯くと、個室の扉が叩かれ遠慮がちな声が聞こえてきた。
「レティー、ちょっとこちらの手伝いをしてもらえないかな?小さな女の子なんだ。私では怖がらせてしまうから。」
「サリマン先生。」
顔を覗かせたハウルより幾分くたびれた感じのする男は、そう言いながらハウルをちらりと見た。
ハウルはくすっと笑って、レティーに頷く。
「行っていいよ。君の姉さんは・・・どうしよう?小さなお嬢さんのほうが聞き分けがよさそうだけどね。」
「じゃあ、行ってきます。姉さん、ちゃんと診てもらってよ!?治療しなかったら、もっと酷いことになるんだから!」
柔和な微笑を浮かべたサリマンがソフィーに頭を下げると、レティーは心なし嬉しそうについて行き、扉を閉めた。
「・・・!レティー・・・!酷いわ・・・!」
心細くなり思わず呟くと、ハウルは大きな溜め息を吐いて・・・今まで貼り付けていた笑顔の仮面を自ら剥いだ。
「・・・あんた、麻酔が効かないんだって?」
それはもはや優しい微笑などではなく、蔑んだ笑顔。
「あんたの体質の問題だろう?あきらめなさい」
「あのっ、やっぱり、いいです。あたし今日はやめておきます。あの、ほらもう次の患者さんが待ってるでしょう?」
診療椅子から立ち上がろうと、ソフィーはそそくさと足を床につけようとした。
「ダメだ!」
大きな声があがり、ソフィーはそのまま椅子に押し倒された。
「なっ・・・・!」
「悪い子だね。ここでは僕の言うことはちゃんと聞かなきゃ、ね?」
抗議しようと振り仰ぐと、ハウルは今まで誰にも見せた事のないような・・・嬉しそうな表情をした。
もちろん、ソフィーにはそんなことは知らなかったのだが。
「あんた・・・なんでそんなにぼくを刺激するの?」
「な、なに言ってるの!?ど、どいてちょうだい!」
「イヤだね。あんた自分の置かれてる状況わかってる?ここはぼくの診療室。あんたはぼくの患者だよ。」
ハウルはソフィーの顔に息がかかる程間近に迫り、まじまじと見つめた。
「あんたみたいな患者初めてなんだよ。僕にうっとりするでもなく・・・最初から・・・まるで僕の本当の姿に気づいているかのようで。」
おもしろい玩具を手に入れた!とばかりににやりと笑うと、ハウルは透明な手袋を装着した。
ライトをつけられて、眩しさで目を細めるソフィーには・・・ハウルの瞳が同時にこれ以上はないほど愛しそうに和らいだのは見えなかった。
ソフィーは我が身に起きた出来事に頭がついていかず、それなのにこの男に結局釘付けになる自分が恐ろしかった。
「残念だったね。ぼくから逃げ出そうなんて考えないことだ。さあ、口を開けろ。
・・・ふふふ。あんたのその表情、ぞくぞくする・・・」
「なんなの・・・!?」
無理やり口をこじ開けようとするハウルの指が、見かけによらず力強くソフィーは恐怖心が最高潮に達した。
「・・・やめて!あたしは、あんたの治療なんか受けないっ!他の人にしてもらう。離して、離してよ・・・!」
自分でもいい加減子どもじみたことをしているとわかっていたが、ソフィーはいつの間にか激しくなる鼓動に動転していたのだ。
「他の人だって?」
ハウルは動きをピタリと止めて、ソフィーの瞳の端に溢れてきた涙を見つめた。
あかがね色の髪が乱れ広がり、噛み付かんばかりの怒りを瞳にたぎらせて、獲物を前にわくわくするハウルを映し出していた。
そして、涙を必死に堪えるソフィーはハウルの心臓を狙い済ましたかのように打ち抜いた。
ああ、これが。
僕の本当の姿。
「さっきの言葉訂正するよ。あんたは地味なんかじゃない。どこにそんな可愛さを隠してたの・・・?まるで僕の本当の姿をさらけ出させる為に・・・仕組まれた遺伝子みたいじゃない?」
呆気にとられるソフィーの瞳の端に唇を寄せると、そっと涙を吸い取った。
「ひゃっ!」
「大丈夫、あんたの痛みを和らげてあげる。あんたには僕が必要だって・・・わかるはずだ。僕より上手な人間は居ないよ」
ソフィーは真っ赤になって、ハウルが口付けた眦に手を宛てると・・・悪魔のような男を見上げた。
「!」
慈しむかのような柔らかな、ソフィーの恐怖心をすべて溶かすような微笑みを浮かべたハウルが居て、ソフィーは思わず息を飲んだ。
ハウルにとっても、それは初めての経験。
「・・・自惚れ屋!」
ソフィーがそう呟くと、ハウルはソフィーの耳元で囁くように言う。
甘く囁く睦言のように。
「あんたの為に、僕は歯医者になったのかも。あんたみたいな特異体質、僕じゃなきゃ治療できないよ?さあ、観念しなさい」
ソフィーは、もう何がなんだかわからなくなっていた。抵抗する気力も恐怖も、もう湧いてこなかった。
噂は本当なんだと、ぼんやり考えていた。
ソフィーは、ゆっくりと・・・自らの意思で口を開けた。
(2005,11,6up)
end
・・・ごめんなさい・・・。たはは;;