Vanilla - サリレティ編 -
分厚い魔法書を机の上に広げ、読みふけるその広い背中をレティーが思わず見つめていると、くるりと身体を反転し柔らかな笑顔が目の前に現れる。
「どうかしたかい?レティー。」
その細められた瞳は激務とは裏腹にどこまでも優しく、幼い妻を見つめる。
几帳面な彼は、帰ってきてからもこうして書斎に籠り持ち帰った仕事をすることが多い。
ここ数日は特に。
義兄さんは家で仕事したりしてるのかしら?
思わずそんなことを考えて苦笑すると、サリマンはメガネを外し立ち上がる。
「私のことはいいから、もう寝たらどうだい?まだ少し調べたいものがあるんだ。」
レティーをそっと抱きしめて、頬にキスを落とす。
それは羽根のように優しく壊れ物に触れるようなキス・・・。
また、だわ。
溜め息混じりにサリマンを見上げると、疑問符を浮かべた顔が覗き込んでいる。
「・・・レティー?」
「ねえ、ベン。私・・・貴方の我儘って聞いたことがないわ。」
拗ねたようなその口調にますますサリマンは混乱し、レティーの言葉に首を傾げる。
「?レティー・・・?」
「・・・わかってるのよ?貴方は大人なんだから、本当に私を思ってそう言ってくれているのは・・・。」
突然、自分の言葉があまりに子どもっぽく感じ、レティーはサリマンの胸に顔を埋めてシャツを握り締める。
そんなレティーの言葉も行動も、サリマンはまったく理解できず、ただおろおろと肩を抱きその瞳を見ようと距離をとる。
何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか?
豊かに波打つ黒髪を戸惑いながらも撫で、顔を見られまいとする幼い妻の心の在り処を探る。
不意にぽつりと漏らした言葉に、どきりとして・・・。
「・・・義兄さんなら・・・。」
「ハウルなら?・・・ハウルならどうしたんだい?」
零れた一言への反応が早く、レティーの方が驚いて思わず顔を上げる。
その声がひどく切羽詰った声に思えたのだ。
「ベン?」
その瞳はただまっすぐにレティーを見つめ、先程までの穏やかな眼差しではなく・・・探るような剣呑な輝きを放っている。
「そう・・・ハウルなら、きっと君を不安にさせたりはしないだろう。ハウルなら・・・」
言葉にしながら指先が震えている。しかし何かを断ち切るかのように・・・瞬間、力が籠り思い切り抱きすくめられてレティーは息が止まる。
「ハウルなら、君が今何を想っているのか・・・きっとすぐにわかるだろう・・・!」
自分自身がもどかしい。まったく私は・・・なんで君のことになると・・・こうも感情をコントロールできないのか。
彼ほど器用でもなければ、情熱的でもない。
君の喜ぶ言葉すら、見つけられないのだから!
自分へのコンプレックスに今更ながら苦笑する。
ぎゅうっと知らず力が入り、ついに苦しくなったレティーがとん、と胸を叩くまで・・・サリマンはハウルの影に嫉妬した。
「ベン・・・!苦しい・・・!」
搾り出すような声に、はっとして腕の力を解くと、レティーは胸を押さえてけほけほと咳をする。
「レティー!すまない・・・!」
再び、柔らかな瞳に戻ったサリマンが慌てて身体を引こうとするのを感じて、レティーは思わず背伸びして首に腕を廻ししがみつく。
そして驚くサリマンに自らの唇を重ねた。
何度も。何度も。
見開かれたまつげが震えて、そっと瞼が閉じられるまで。
苦しくなりようやく唇を離すと、いつの間にかレティーは抱き上げられていて爪先が宙に浮いていた。
サリマンは優しく抱きしめながら、耳元で囁く。
「・・・甘い・・・。バニラ・・・?」
一瞬なんのことかわからずに、レティーは記憶の糸を辿っていく。
「・・・ああ、義兄さんのお土産・・・!」
そうだった!私、今日ソフィー姉さんから貰った【あいすくりーむ】を食べていたんだわ!
あんまり冷たくて滑らかで美味しいから、ベンも一緒にいただきましょうって言いに来たのよ!
「姉さんが届けてくれたの・・・。一緒に食べようと思って・・・。」
ウェールズのデザートだって言ってたから、ベンも喜ぶかな・・・て。
レティーは、口の中に残っているバニラの甘さを・・・愛しい人に伝えた自らの積極的な行動に赤面し、唇を押さえる。
それでも、サリマンが先ほどちらりと見せた情熱を思い出し、ゆっくりと口を開く。
「もう何日も・・・一緒に眠っていないわ・・・。ベン。たまには、『待っていて』って言って欲しかったのよ?」
ようやくそれだけ告げると、レティーはそっと愛しい夫を見上げる。
はしたなかったかしら・・・?
抱き上げられていた腕から力が抜けて、レティーは地上へ舞い降りる。
不安になりながら見つめた先には・・・思い切り・・・絶句した真っ赤な魔法使い。
片手で口元を覆い、瞬きを忘れたかのようなその表情に、レティーは思わず微笑む。
・・・かわいい人。
思わず込み上げる感情。背伸びして再び口付けると、囁くような吐息が漏れる。
「レティー、君のキスはとても甘いよ」
リビングでは、ソフィーの【どろどろにならないで待っていなさい!】という呪い虚しく・・・アイスクリームが溶け出していた。
end