魔法使いハウルと火の悪魔



シャングリラ!




ベットの中で息を潜め毛布を頭から被っていた魔女は、ゆっくりとドアノブを回す音が聞こえ、毛布を胸の前でぎゅっと握り締めた。
古い扉は軋みながら開き、廊下に灯されたランプの明かりが中を窺う金色の髪を浮かび上がらせた。
室内は窓から入る淡い青い光と、廊下の仄暗いランプの明かりだけ。
恐る恐る足を踏み入れた金髪の青年・・・この城の主である魔法使いは、碧眼を右手の袖でこすり、明かりの乏しい室内に目を凝らし、後ろ手に扉を閉めた。
窓の向こう側ウェールズは、どうやら月夜のようだ。
とはいえ、さきほどまで雨が降っていたのだろう。
窓についた水滴が、月に照らされきらきらと輝いている。
こちら側は、まだ雨が降っているようで、屋根を雨音が叩く音が聞こえる。

目が慣れてきたのか、月の光が強くなったのか、大きなベットの上に小さく丸まるような塊が浮かび上がり、魔法使いは小さく息を吐いた。

起きてる。

胸に手を当てて深呼吸すると、その塊は神経質そうにまた小さく丸まったような気がした。
毛布の中で目を開けていた魔女は「忌々しい!」と小さく毒づき、彼女の夫である魔法使いハウルが、安堵の息を吐いたことにむっとした。

やっぱり、レティーのとこに行けばよかったかしら!

そう思いながらも、ベットの端にハウルが腰掛けたのを感じて、自分でも訳のわからない感情に支配されて涙が零れそうになった。
嬉しいのか、悔しいのか、それとももっと別の感情なのかわからなかったが、ハウルが心配そうにしている気配はソフィーの胸を苦しくさせた。
「・・・ソフィー?」
呼びかける声は、かぼそく、いつもの自信たっぷりの彼らしくない。
ソフィーはそれでも、ぴくりとも体を動かすまいと心に誓い、近づいてくるハウルの気配に怒りを総動員させて想った。

あたしに触れないで!

まるで弾かれるようにハウルの指先は毛布を被った塊の前でぴたりと止り、そっと自分の胸の前まで引っ込めると彼はまた大きく息を吐いた。

見えない壁が、二人の間にはできていた。
恐ろしく強力な魔力を感じて、ハウルは次第に腹がたってきた。
多分、ソフィーが呪いをかけたのだろう。
ハウルはあかがね色の髪を振り乱して声を荒げたソフィーを思い出し、じっと毛布の下の塊を見つめた。

ただ、ハウルはソフィーに心配をかけたくなかっただけ。
・・・まあ程度の差はあれ、軽口を叩いて、いつものようにその可愛らしい頬を膨らませ、腰に手をあてて怒り出す姿を見たかった。
それでも最後は「どうしようもないヒトね!」って呆れながら・・・溜息混じりに笑顔を見せる。

魔法使いは、それだけで幸せになれた。
最後に見放されないというその笑顔は、何より大切なものだったから。
彼が、幼い頃から憧れたものだったから。
ソフィーの笑顔が、彼にとっての理想郷。

それなのに、彼を締め出してしまうような仕打ちに、ハウルはひどくショックを受けたのだ。

なんでソフィーはこんな呪いまでかけて怒ってるんだよ!
ぼくは、ただ・・・!

そう、それは彼らにとっては日常茶飯事で、だからこそこんなに拗れてしまっているのだと言うことすら気がつかない。
ハウルは頭を掻き毟ると、くるりと背を向けて寝室のドアを乱暴に閉めた。





魔女は、荒々しく足を踏み鳴らして寝室から離れていく彼女の夫の足音に、胸が潰れそうなほどの痛みを感じてますますベットの上で丸くなった。

「・・・ハウルの馬鹿!」

小さく吐き出した言葉は、涙と一緒に零れた。

ソフィーは「う〜っっ」とこれ以上泣くまいとするかのようにシーツを握り締めて顔を押し付けた。
雨続きで洗濯のできないシーツからは、ハウルの花の香りが漂ってくる。
その匂いを図らずも思い切り胸に吸い込んでしまったソフィーは、ハウルに包まれているような感覚に襲われ、愛しくて、そんな自分に腹がたって「もう!」と大きな声で掛け布団を払いのけた。

ソフィーは、ハウルに近づきたかっただけ。
なんでも話してほしいと思っていた。
いつも軽口を叩いて怒らせてばかりいるハウルだけれど、肝心なことは・・・ソフィーが不安に感じるようなことは、何一つ話してくれない。
それがハウルなりのソフィーへの思いやりで"ぼくがソフィーを守るんだ"という強い責任感(それが芽生えたことが、カルシファーやマイケルにとったら奇跡みたいなものだったのだが)の表れであったのだが、大事なことをいつも妹から聞かされる羽目になる彼女からしたら、不安にならざるを得なかったのだ。

なんでも・・・言ってほしいのに。
苦しみとか、痛みとか、全部話して欲しいのに。





今日の昼ご飯は何にしましょうか?とカルシファーと話をしている時だった。
城の扉を激しく叩かれて、ソフィーは驚いてカルシファーを見つめた。
今、思い返せば、あの時のカルシファーの態度もなんだかおかしかったのだ。
珍しく相手が誰なのか言わずに渋るカルシファーに首を傾げながら、扉を開けた。
そこには美貌の妹レティーが、供も連れずに訪ねて来て、その取り乱しようにソフィーは一瞬言葉を忘れたくらいだった。

「姉さん!義兄さんは・・・ハウルの怪我は大丈夫なの!?」

レティーの第一声に、ソフィーは「は?」と首を傾げてしまった。
可笑しなことを言うものね、と内心笑い出したいような心境で。

「レティー、どうしたの?貴女らしくないわ。落ち着いてちょうだい?ハウルがどうしたですって?」
それでも、笑い出さずに問いただしたのは、レティーの慌てぶりからだった。
ハウルは今朝も、いつもと変わらず"颯爽と"仕事に出かけて行ったというのに?

「何を言っているの!ベンが・・・ああ、本当にごめんなさい!ベンを庇って呪いを浴びてしまって・・・!咄嗟に防ごうとしたらしいけれど、左手に酷い火傷を負ったと聞いたわ!幸い、呪いを施した魔法使いは捕縛したから、命に関わるような呪いにはならなかったようだけど、それでも、ベンが青ざめて言っていたわ『あの時、ハウルが咄嗟に庇わなかったら、私は煉獄の炎に焼かれていた』って・・・!」

レティーはガタガタと震えながらそう言うと、反応のないソフィーの両腕を掴んで思い切り揺すった。
「姉さん?聞いてるの?だから、ハウルは左腕に大変な火傷を負ってるのよ・・・!」
だから、私は心配で心配で。
今日は大切なお客様が見えるからと、女主人役をこなさなくちゃいけなくて、それでも2時間で片付けてきたの、本当よ?

レティーが涙ながらに伝える言葉は、最早ソフィーの耳には届いていなかった。

なんで?

どうして、ハウルは話してくれなかったの?

痛がるそぶりも見せなかった。何も変わらず、送り出してしまった・・・!
それからレティーは、抱えてきた大きな包みから呪いで負った傷に効くと言われている薬やら、サリマン邸に居る呪い師に特別に調合させた秘薬だとかを次々に机の上に並べ、「ハウル義兄さんは、ベンの命の恩人よ!」としきりにしゃくりあげた。

その間、ソフィーは呆けたように椅子に座り、机に全て並べ終えたレティーに「お茶のおかわりはいかが?」と間抜けな言葉を発した。
気がつけば、カルシファーが暖炉から消えていた。
なんとか「いろいろと心配してくれてありがとう」と、後ろ髪を引かれるような顔で帰るレティーに礼を述べ、ソフィーは扉を閉めた。
時計の音だけがコチコチと響く中、ソフィーは何も考えられなくなってしまったかのように、沈んでいく夕日を眺めていた。
マイケルがフェアファックス婦人のところで、蜂蜜を使った秘術を学びに出かけていたので、時間の感覚はますます頭から追い払われていった。





どれぐらいの時間が過ぎたのだろう?
コトリ、と重い扉のノブを回す音に、ソフィーははっとして顔をあげた。
すでにあたりは闇が支配しており、真っ暗闇に沈み込んでいたかのようにソフィーは身震いをした。

「・・・ソフィー・・・?」

恐る恐る声をかけるのは・・・この城の主。
カルシファーから聞いたのか、今朝とは大違いに弱々しい声だった。
しかし、意を決したように「もう夜だよ!灯りを灯さなくちゃ、愛しい奥さんを見つけられないな!」と陽気に声を張り上げ、何事か呟いた。
一瞬のうちに、城は暖かなともし火に包まれ、暖炉の前のソファーに座るソフィーを見つけ、ハウルは安堵の息を洩らした。

「ただいま!ソフィー、一人ぼっちで寂しかったろう?外は雨。ほら、一張羅が台無しだよ」

芝居がかった声で言いながら、ハウルは指を一振りして水滴を落とすと大股でソフィーに近づいた。
ソフィーはその取り繕うかのような笑顔を見て、泣きたくなるくらいの情けなさを感じていた。

「ただいま。おかえりのキスはなしかい?奥さん」
「・・・・何か・・・・言うことがあるんじゃないの?」

ようやく出た言葉に、ハウルはあくまで「何?今日は何も買ってきてないよ!」と両手を広げてみせる。
「・・・そうじゃなくて・・・!」
肩を竦めるハウルに、ソフィーはいきなり立ち上がって怒鳴りだした。

「レティーから聞いたわよ!どういうことなのか、説明してちょうだい!?ハウル、あんた腕に火傷を負ってるの!?それも・・・!」

真っ赤になって怒り出すソフィーに、ハウルは先程までの笑顔から困ったような表情に変わり、ふわりとソフィーを抱きしめた。

「そんなに心配しなくても、もう全然平気なんだよ?レティーは大袈裟だなあ。」

頭の上から降る声に、ソフィーは怒りが沸々と湧き上がるのを感じて「なんで?」とハウルの胸を叩いた。
「どうして、あたしには・・・あんたの奥さんのあたしには、本当のことを言ってくれないの!?」
言いながら、さり気なく下ろされたままの左腕を持ち上げ、勢いに任せて袖を捲り上げた。
「うわっ・・・・!」
苦痛に顔を歪めるハウルに、ソフィーはついに涙を零した。
視界に入ったのは、赤黒く爛れ醜く引き攣れたハウルの腕。

「嘘つき!これのどこが"たいしたことない"のよ!?」

ソフィーの震える両手から引き抜くように腕を捩り、ハウルはさっと服で醜い腕を隠した。
額には汗が浮かんでいる。

「触っちゃダメだよ・・・まだ呪いが燻ってるんだから」

右手で左肩をぎゅっと押さえ、ハウルは苦笑してみせる。
ソフィーはそんなハウルの言葉は聞かず、一歩前に歩み出る。

「今はね、この服に呪いをかけて抑えてるんだ。大丈夫、もうすしばらくすれば、火傷なんてキレイに・・・」
「ハウル!あんたって・・・!ねえ、あたしはあんたの何?どうして怪我のことを話してくれなかったの!?」

まるで、他人を寄せ付けない。

「所詮、あんたは自分のやりたいようにやるのよね!あんたはあたしに見えない壁を作ってるんだわ!」

お前なんか、本当はいらないんだ、そう言われてるような気がして、ソフィーは階段を駆け上がった。
レティーのところへ行こうかと一瞬迷った足は、しかし寝室へ向かったのだ。

結局、ハウルを放っておけないのだと、ソフィーは気がついていないのだが。

カルシファーがまるで見計らったように帰ってきて、苛立ちながらもうな垂れるハウルの隣で漂った。
「・・・ぼくは、ただ余計な心配をかけたくなくて」
「オイラにそんなこと言ったって、どうにもならないだろ!?だいたい、普段はその"余計な心配"をさせるのが楽しくて仕方ないって奴が・・・」
呆れる火の悪魔は暖炉の薪の下に潜り込み「ソフィーはさ、どんな心配でもしてたいんだろ。お前が心配させたくないって思うのと同じくらい」と呟いた。
「・・・っ」
まだ時折暴れる呪いを抑え付けるように、左肩を掴んで顔を歪めた魔法使いに、火の悪魔は「あんたとソフィーは二人とも意地っ張りだよな」と青い炎を大きくして付け加えた。
ハウルは恨めしそうに暖炉を見つめ、重い足を引きずって寝室に向かった。

しかし、ソフィーによって張り巡らされた呪いの壁によって、ハウルは近づくことも出来なかったのだ。
――もちろん、今不用意に近づきすぎて、腕に受けた呪いがソフィーにまで及ぶことなど望んでいない。
だからこそ、ハウルは寝室を後にした。




「ソフィーを不安にさせたくなかっただけなのに」
またカルシファーにぼやかれるのを覚悟で、ハウルは暖炉前のソファーに倒れこんだ。
「だいたいさ、こんな怪我したなんて・・・恰好悪いじゃないか・・・!庇ったものの呪いを浴びちゃいました!なんて・・・言えるもんか」
カルシファーは何か言いかけて、しかし蒔の下に潜り込んでだんまりを決め込んだ。
ハウルは構わず続ける。
「それにさ、この呪いったらめちゃくちゃ不安定で、すぐに他に移ろうとするんだよ。考えてもみておくれよ!?あの知りたがりのソフィーが、放って置くと思うかい?」

カタンと物音が響く。

しかし、ハウルは気づかずに目を瞑って独白を続けている。
「最悪、何か言い出しそうじゃないか・・・こんな火傷、ハウルから消えてちょうだい!とかなんとか。・・・・そんなことしたら・・・・こんな不安定な呪い、どこに飛び火するかわかったもんじゃないよ・・・!」

もしも、ソフィーに何かあったら・・・。

そう考えただけで震えが走る。
「ああもう、サリマンのヤツめ。言わなくていいことを奥方に話してくれたもんだよ!なんでも報告すればいいってもんじゃないだろ?・・・・ぼくはさ、ソフィーにはいつも笑っててほしいんだ。・・・ぼくにとって、その笑顔が特別なのに・・・。それなのに、ソフィーはぼくを締め出してしまったんだ!こんな仕打ち、酷いよ・・・!」
思わずそう喚いて、「なあそう思うだろう?」と今まで口を挟まず聞いてくれた相棒に視線を移した。

「あたしだって、あんたが何も言ってくれないから、同じように"締め出された"って感じるのよ!?まだわからないの!?」
「え、・・・ソフィー?」

背後からの震える声に、ハウルは振り返って目をぱちくりさせた。
あんな壁を築いたからには、当分冷戦状態だろうと思っていたからだ。

「大事に、思ってくれるのはありがたいわっ・・・でもね、あたしは、あんたの伴侶になったのよね?あたしが、あんたに守られるためだけに一緒になったと思ってるの!?」
「あんたはそういうけど・・・!」
「何よ、そんな呪い!あんたもう忘れたの!?あたしたち、ぞくぞくするような毎日が待ってるってわかってたはずじゃない・・・!」
「ソフィー・・・!」
「言っておくけれど、あんたが恰好悪いのなんて、先刻承知よ!あたしがどうしようもない知りたがりだって、あんたが知ってるのと同じようにね!」

一気に言って肩で息をするソフィーは、ふん!と鼻を鳴らすと「あんたが作る壁なんて、あたしが全部ぶち壊してやるんだから・・・!」と腰に手をあてた。
「だいたいね、そんな火傷くらいで、あたし、心配したりしないわよ!?あんたの奥さんになったんだから、ちょっとやそっとじゃ、ひ、引いたりしないんだから!」

声が震えて、ハウルにはそれが彼女の強がりなんだということがわかっていた。
それが、とても愛おしく感じる。
だから肩を竦めて「内緒にしてて、悪かったよ」と両手をあげた。

「でも、いいかい?この呪いは厄介だから、あんた変なことするんじゃないよ?」

隠しておくほうがこの知りたがりの奥さんには危険なのだということに、ハウルは内心溜息を吐いた。
まあ、でも、あの壁は本当に寂しいものだったから・・・。

「笑って見せてよ、ソフィー。本当に壁がなくなったのか、確かめたいからさ・・・」

右手を恐る恐る伸ばしたハウルに、ソフィーは「どうしようもないヒトね・・・!」とぎこちない笑顔を浮かべた。


二人が一緒であれば、どこに居ても何があっても、そこがシャングリラであると気づくのは、もう少し後になってからのこと。





2008,219UP







梓音さんへ!お誕生日おめでとう!!