涙味のバースディ・ケーキ
雨上がりの昼下がり、城へと通じる花屋の廊下が急にざわついて、この城の主である王室付き魔法使いは、眉をしかめました。
「相棒、まさか奥さんが帰ってきたんじゃないだろうね?」
作業台の上は白い粉やら、なにやら混ぜ合わせた材料が散らばり、大きなボールのような乳鉢にはどろりとしたものがついています。床にも粉は散らばり、見慣れない本や読みにくいミミズの張ったような文字が書かれたメモが散乱して、彼の綺麗好きな奥さんが今朝磨き上げた床を覆っていました。
「その、まさか、だ!!おい、やばいぞ!コレとにかく一旦なんとかしろよ!」
暖炉から慌てふためく声がして、小さなひょろりとした手を振り回しました。
「うわ!なんたることだ!マイケルのヤツ、ぼくの言ったことわかってなかったのかな?」
彼の弟子のマイケルに、今日はなるべくゆっくりと城へ戻るように伝えたはずでした。
花屋にはいつもより多くの花を運び込んだはずです。
魔法使いは流し台に乳鉢や小さな小瓶を抱えて行って放り込むと、どんどん近づく足音に結い上げた髪がほつれてくるのも気にせずメモを拾い上げて行きます。
「ハウル!一番大事なもの!忘れてるぞ!」
暖炉の中の青白い炎が、言って何かを差し出しました。
「わかってるよ、カルシファー。ああ、もう少しだったのに。なんだって今日はこんなに早く帰ってきたんだろう?」
ぶつぶつと言いながらも、もうすぐそこに迫った彼の奥さんが、大きな声を上げる瞬間を思ってばたばたと走り回りました。
「魔法使いも形無しだな。」
「悪魔も聞いて呆れるね!」
互いに言い合いながら、それでもこのドタバタをどこか楽しんでいるような、そんな雰囲気が感じられます。
「いいかい?ソフィーには内緒だよ?」
「喜んでくれるとは限らないんだぜ?」
頬や髪にも粉をつけたまま、ハウルはウィンクをして見せました。火の悪魔は苦笑して、廊下へと視線を促しました。
「さあ、奥様のお出ましだ。」
カルシファーは薪の下に潜り込むのを忘れませんでした。
「まあ!ハウル!今日は一体何の研究をしていたの!?あたしが昨日一日かけて磨いた床が、真っ白になってるわ!」
あかがね色の髪をきっちりと真ん中で二つ分けしたこの城の女主人は、目の前に広がる光景に思わず叫んで立ち尽くしました。
まるで大きな野良犬でも入ってきたかのような惨状に、女主人の後ろから顔を出した魔法使いの弟子もどこか的外れなおかしな声をあげました。
「ハウルさん!?僕に内緒で何を調合したんですか!?ずるいですよ!僕にも教えてくださいよ!」
そのまた後ろで黒髪がさらりと揺れました。
「相変わらず、義兄さんは散らかすのが得意のようね。」
王室でもそうなのかしら。困ったことだわ。
そう言いながら、さすがに貴婦人らしくにこりと微笑み、隣に居る金髪の少女に「ね?」と同意を求めています。
「こういう時こそ、魔法の腕の見せ所なんじゃないかしら?」
金髪の少女は、驚きを隠そうともせずに一歩前に進み出ると、悪戯を見つけた母親のように皮肉たっぷりに言いました。
「やあ、レティー、マーサ。ちょうど今、とっても難しい調合をしていたとこだったんだよ。」
そんな少女たちに内心思い切り舌打ちしていたハウルでしたが、ニコニコと笑いながら本を拾い上げました。
「まったく、今日はどんな魔法薬を作っていたの?」
薪の下から様子を伺っていたカルシファーを覗き込むようにして、女主人は訊ねました。
「おいら、知らないよ。・・・・・・・それよりソフィー、マイケルの抱えている大きな箱はなんだい?」
しどろもどろに答える悪魔をいぶかりながらも、ソフィーはその問いに、ふふ、と可愛らしく微笑み、汚れて乱雑な作業台でなく、大きな丸テーブルの上に降ろされた箱に歩み寄りました。
「・・・なんだと思う?」
「あら、カルシファー今日が何の日か忘れちゃったの?」
レティーがくすくすと笑い、ハウルの方を見つめると「義兄さんは?」と促すように言いました。
服についた粉を払っていたハウルは、おの大きな箱を見て大きく目を見開きました。
マーサはハウルの答えを待たずに箱に結わかれたリボンを外すと、嬉しそうに箱を開きました。
「今日は姉さんの誕生日じゃない!ほら、見てみて!このケーキ!レティーの屋敷のシェフが作ってくれたのよ!」
二段構えになっているケーキは真っ白なクリームで繊細な模様を描かれ、色とりどりの果物が刻まれて飾り付けられている。
「マーサと二人で手作りに挑戦したんだけどね。私たちには不向きだった見たい。だから慌ててシェフに相談したの。」
そう言って苦笑しながら、レティーは小首を傾げて見せました。こんな表情を見せられたら、相手がどんな人であれ思わず微笑んでしまうでしょう。ソフィーもその一人でした。
「それでも、二人があたしの誕生日を覚えていてくれたことが嬉しいわ。それに、こんな大きな包みをキングズベリーから運ぶのは大変だったでしょうに。」
二人の両手を持って「ありがとう」と感謝の言葉を告げながら、ソフィーは瞳の端に涙を湛えました。
「そんなことないわ。ベンが魔法で運んでくれたの。マーサとジェンキンス生花店前で待ち合わせしていたから。ソフィーの驚く顔を独占したかったのよ。」
そんな様子をただ黙って見つめていたハウルの顔色が、青ざめて見えることにカルシファーは気づいていました。
両袖をめくって、流し台に溜まった洗い物を片付けていたマイケルは、不思議に思いながら振り返りました。
「ハウルさんも、ちゃんと覚えていますよね?昨日も話していました。『ソフィーに何をプレゼントしようか』って、そりゃ嬉しそうに・・・」
びくりと体を震わせて、ハウルは暖炉に歩み寄りながら「そうだったかな?」と呟きました。
「・・・・?何、あんたまた無駄遣いしたんじゃないでしょうね?あたしはなんにも要らないって伝えたわよね?」
ソフィーの顔が険しくなり、ゆっくりと暖炉へと近づいていきました。
「とりあえず、急ぎの仕事は終わったの?だったら片付けましょう?これじゃみんなでケーキをいただけないわ」
ソフィーがハウルの腕に触れた途端、ソフィーの手を振り払うように、ハウルはソフィーから離れました。
「ハウル?」
「ごめん、ソフィー。ぼくまだ仕事が残ってるんだ。ちょっと寝室で調べものをするよ。」
ハウルは粉だらけの顔をあげて、ぎくしゃくと微笑むと、何かをカルシファーの方へ丸めて投げつけました。
カルシファーは慌てて口を開けると、その何かを眉をしかめて食べました。
それを確認すると、ハウルはゆっくりと階段へ歩き出しました。
「後じゃダメなの?せっかくお祝いのケーキが・・・・」
ソフィーが言う声も、ハウルにはどこか遠くで聞こえるもののように感じていました。
「私たち、お邪魔だったかしら・・・・・?」
心配そうなレティーの声に、ソフィーが「そんなことないわ!」と答えました。ハウルは階段を上る足を止め、振り返ると階段下の手すりを掴んで後を追ってきたソフィーに言いました。
「ああ、ごめん。これからパーティーだっていうのに部屋を汚したままだったね。今すぐ綺麗にするから。」
ひらり、と長い袖をひらつかせて、何事か呟きながら指を降ると、床に散らばった粉は舞い上がり、開いていた窓から外へ飛び出していきました。マイケルが洗っていたもの達も、まるで雨でも降った後のように綺麗に汚れが落とされています。
皆が驚いて眺めている脇を、モップが踊るように床を磨いていきました。
「ハウル、あんたこんなことに魔法を」
「使っちゃいけなかったかな?ほら、ぼく、魔法使いだからね。」
自嘲気味に言ったハウルに、ソフィーは非難の色を瞳に滲ませながら階段を一段上りました。
「・・・今日一日は、魔法使いとしてじゃなく、ハウエル・ジェンキンスという男として、お祝いをしてくれるんじゃなかったの?」
ソフィーの瞳に先ほど妹たちに見せたものとは、まったく異なる涙が浮かんできていました。
「ああ、そんなこと言っていたっけ?ごめんよ、ソフィー。」
ハウルは冷たく笑うと、残りの3段を長い足で一気にまたぎ、寝室の扉を乱暴に閉めました。
「なんなのよ!何が気に入らないの!?」
ソフィーが悔しそうに階段上に言葉をぶつけると、マーサが小さな紙切れを拾い上げました。
「・・・マイケル、これなんて書いてあるの?」
マイケルは何もこんな日に言い争いをしなくても・・・と大きな溜め息を零しながら、その紙切れを受け取りました。
それはまぎれもなくハウルのミミズのようなのたくった字で、マイケルは苦笑しながら読み上げました。
「小麦粉、バター、卵、バニラエッセンス、???」
読み上げるマイケルの声に、ソフィーははっとして駆け寄ると、その紙切れを奪うように取り上げ、まじまじと見つめました。
「小麦粉、バター、卵、バニラエッセンス、牛乳、砂糖、塩・・・・・・・・!」
ソフィーは一つひとつ確認するように読み上げ、今度はカルシファーの居る暖炉へ駆け寄りました。
「さっき、ハウルが食べさせたのは何?カルシファー、あたしハウルに・・・・」
ソフィーのそんな姿を、二人の妹たちは不安そうに、でもどこか好奇心たっぷりの瞳で見つめています。
この城では、どんな物語よりもおもいしろいものが見れるのだと、姉妹は知っていたのです。
カルシファーはふわりと暖炉から浮かび上がると、狙いどうりカルシファーの口の中に入らずに、少し焼けた紙切れを取れるようにしました。
ソフィーは手を伸ばしてその紙切れを掴むと、焼け残っていた部分を拾い読みしてカルシファーを見つめました。
「これ・・・・・ハウルが?」
ソフィーの質問に、カルシファーは困ったように天井を廻りながら・・・・・答えました。
「あんた自分で答えを見つけたんだよな?だったら約束を破ったことにならないよな?・・・・・・ああ、そうだよ、あの馬鹿が、あんたの為にウェールズの苦手な姉さんにわざわざレシピを聞きに行ってきたのさ!」
「・・・・ミーガンに?」
ソフィーは情けないやら悲しいやらで潰れそうだった胸が、愛しさでいっぱいになっていくのを感じました。
そうして、鏡に歩み寄ると、願いを込めてそっと手を触れました。
「お願いよ、あんたが見たものをあたしにも見せて頂戴。あのぬるぬるうなぎが、あたしの為に、この部屋をどんな風に汚してくれたのか・・・・教えてほしいのよ。さあ、あたしに見せて頂戴・・・・!」
ソフィーが額を鏡に押し付けると、鏡はぐるぐると渦を巻き、次第にそのうずがゆっくりになると、作業台が見えました。
大きな紙袋を抱えて、ハウルが扉を開けて入ってくると、何か大きな声をあげているようでした。
カルシファーがうるさそうに漂ってくると、ハウルはポケットから紙切れを出して両手を広げて一生懸命に話していました。
「あんたハウルに言ったんだろ?お祝いはお金を無駄遣いしない、魔法を使わないものがいいって。」
カルシファーは隣に並んでソフィーの耳元で呟きました。
「あの馬鹿はさ、魔法使いのぼくにそんな難しい試験を出すのはソフィーくらいだねって、寝ないで考えてたんだ・・・」
『なんだってソフィーは喜ぶと思うぜ?むしろ何もしないほうが喜ぶぜ』
「花束・・・は、ああ、あれはぼくの魔法とサリマンの魔法で咲いてるし・・・・』
カルシファーはぐるぐると悩むハウルに呆れながら、それでもうらやましそうに思ったことは伝えませんでした。
ソフィーの見つめる、鏡の中のハウルは、腕まくりをすると勢いよく小麦粉の入った袋を開け、真っ白な小麦粉がそこらじゅうに散らばりました。
鏡は時折ぐるぐると廻ると、少し時間が進んでいます。
「それで、あいつ、子どもの頃に母親に作ってもらったケーキを思い出したんだよ。『ミーガンなら、作り方を覚えているかもしれない!』って、そりゃ嬉しそうにあっちに出かけていったんだぜ?あっちへあんなに嬉しそうに出かけていくハウルなんて、おいら見たことないね!」
鏡の中に映し出されるハウルは悪態をつきながら卵を割ったり、ミルクを計ったりしています。
「・・・・ああ、ボールなら乳鉢の隣にあったのに・・・・・・」
ソフィーは呟いて、棚をひっくり返しているハウルの姿にそっと触れています。
泡だて器を振り回して苦戦しているハウルは、何度も何か呟き、指を振り上げかけてやめました。その度に口を尖らせたり、大笑いしているカルシファーに文句を言っているようでしたが、それでも、どこか楽しそうに幸せそうに見えました。
「魔法使わないで、頑張ったんだぜ?ああ、最後の仕上げはおいらが手伝ったから・・・魔法使ったんだけど、おいら火の悪魔だしな、おいらはおいらでできることをしたかっただけさ。」
だからノーカウントだよな?
おそるおそるカルシファーが覗き込むと、ソフィーはこくんと頷きました。
フライパンに生地を流し入れると、ハウルはメモを読み上げ、カルシファーに指をつきつけて、焼き加減の注文でしょうか?何度も何度も言っては暖炉を覗き込んでいます。
そこで、鏡はまた大きく渦巻いて、気がつくと今の、ソフィーにカルシファー、マイケル、レティーにマーサが覗き込む姿が映し出されていました。
ソフィーは鏡越しにレティーと目が合いました。
それはソフィーにしては珍しく、どこか不安げな・・・いえ、以前ここに来る前のソフィーのように自信のなさそうな瞳でした。
レティーは笑って、マーサに話しかけました。
「ねえ、マーサ?今日はファニーのところへ遊びに行かない?私、まだ一度もスミス邸に行ったことがないのよ。」
「・・・そうね!あたしもしばらく行ってないわ。ね?マイケルも行きましょう?」
マーサが嬉しそうにマイケルの腕にしがみつくので、マイケルは「辞退します」と言うタイミングを逃して「そうだね」と苦笑しました。
「そういうわけだから、姉さん。ファニーのところへ手ぶらで行くのもなんでしょ?このケーキを持って行っていいかしら?」
ソフィーは振り返って、申し訳なさそうにレティーの頬に触れました。
そんなソフィーの手を握り締め、レティーは真っ直ぐにソフィーを見つめました。
「・・・・どう考えても、姉さんの誕生日にふさわしいのは・・・・ハウルのケーキだと思うの。味の保障はできないけれどね?」
そう言うと、ソフィーの背中に回りこんで、レティーはとんと背中を押しました。
ソフィーは、それを合図にしたように、作業台に載せられた蓋のしてあるフライパンを掴んで階段を駆け上りました。
「さあ、カルシファー。あなたはこのケーキをファニーのお屋敷まで運ぶ手伝いをしてくださるかしら?」
レティーは薪の下に潜り込みかけたカルシファーに声をかけると、悠然と歩き出しました。
「さすがというか・・・・悪魔使いの荒さは、姉さん譲りだな。」
カルシファーはぶつぶつと言いながらも、マーサに引きずられるようにして歩くマイケルに並んで呟きました。
その後ろから、大きな2段重ねのケーキを漂わせながら。
寝室のドアを開けると、ベットカバーを頭まで被り鼻をすするハウルの脇に、ソフィーはそっと腰を下ろしました。
「・・・ハウル?」
ソフィーの声に、ハウルはベットカバー越しにもわかるくらいに、体をびくりとさせて息を殺したように体を固くしました。
そんなハウルにソフィーは思わず微笑んで、スカートの上に冷たくなったフライパンを載せると、ゆっくりと蓋を開けました。
そこには、膨らみ損ねた、それでもいい色に焼けたスポンジが香ばしい香りを放ちます。
「・・・これで完成なの?それとも、この後デコレーションするのかしら?・・・・・・・・早く食べたいわ・・・・・・・あんたが、あたしの為に作ってくれたケーキだもの。」
ゆっくりとベットカバーから顔を出したハウルは、ソフィーが大事そうに抱えているフライパンを覗いて、落胆したように呟きました。
「・・・・・失敗だ。やっぱりオーブンじゃないとダメだったんだ・・・・・・・・」
「今度は、一緒に作りましょう?あんたのお母さんのレシピ・・・ミーガンが教えてくれた・・・ケーキを。」
ハウルはついに起き上がり、しゅんと俯いて頭を垂れました。
「・・・・あんたの誕生日なのに、約束を破ってごめんよ。それに、嫌な思いまでさせてしまって・・・」
ハウルの声を、遮ったのはソフィーの口付けでした。
その口付けは、涙でしょっぱくて、でも何よりも甘く優しい味がしました。
「・・・・馬鹿ね。あんたが居てくれるだけで、あたしはよかったのよ?それなのに、こんなに素敵なプレゼントまで・・・・!」
フライパンを挟んで、ハウルの首筋にしがみついたまま、ソフィーは何度もキスをしました。
涙が幾粒もスポンジに落ちては吸い込まれていきました。
ハウルはそれを見て、くすっと笑って腕を伸ばしました。
「このケーキ、ぼくは分量を間違えたんだね。ソフィーの涙の分、塩を減らさなくちゃいけなかったんだ!」
二人は互いに見詰め合って、そしてくすりと笑いました。
「お誕生日おめでとう、愛しい奥さん。」
「さあ、二人でケーキでも食べましょうか?」
「涙味のバースディケーキをね!」
end
海が好きさん、お誕生日おめでとう!愛してますよ!