そして彼女は途方にくれた。
あたしは、自惚れていたんだわ!
あの人がどんな人かよーく知ってるから、何をされたって動じやしない!なんて。
あの人が何をしようが、あたしは気にしたりしないわ!なんて。
あたしの中に、こんな大きな嵐があるなんて知らなかった。
キーンと頭の中がやかましくなり、心臓が一際大きく跳ねたと思ったら、そのまま止ってしまうんじゃないかと、ソフィーは苦しく締め付ける自分の胸に叫び声をあげかけて口元を覆った。
「ただいま」
そう言って抱きしめられてから・・・まだ一時間も経たないというのに。
浴室に入った夫が、新しい呪いの粉の包みを持ってきて!と大きな声でソフィーに強請る。繕い物をしていたソフィーは、古めかしくカビ臭い本を読んでいたマイケルと顔を見合わせため息をつく。
「ねえ、マイケル・・・」
「いやですよ!僕が持って言ったら、またハウルさんにネバネバ出されてしまいますから!」
マイケルは首をぶんぶんと振りながら、ソフィーの言わんとしていることに釘を刺す。
「まだ何にも言っちゃいないわ!」
ソフィーは鼻をフンと鳴らすと、まるで老婆であった頃のように、よいしょと立ち上がりハウルの云う呪い粉の入った包みとやらを探し出す。暖炉でカルシファーは大きく伸びをして、作業台の上に置かれた小さな包みを手にするソフィーに話しかける。
「あんたも一緒に入るのかい?」
ソフィーは真っ赤になってカルシファーを睨みつけると、
「カルシファー!あんたもお風呂に入りたいの!?」
と叫んで浴室に駆け込んだ。
「ソフィー、見つかった?」
てっきりすでにお風呂に入っていたと思っていた魔法使いは、未だ服を脱いでいるところで、優雅に笑いながらスパンコールのついた袖から腕を抜き、上半身を露にしたところだった。
「きゃ!何よ・・・!あんた、自分で取りにいけたじゃない!」
慌てて目を逸らすソフィーの反応があまりに予想通りだったので、ハウルは機嫌よくソフィーから呪い粉の包みを受け取ると、
その手を掴んで引寄せた。
「せっかくだから、一緒に入ろう?」
身を屈めてソフィーの耳元で囁くと、その場所がまるでヤケドをしたように真っ赤になり次の瞬間には、ハウルの耳が急に熱くなり思わず涙目で叫ぶ。
「イテテテ!!!!!ソフィー!痛いよ!!」
ハウルに掴まれた手を振り払い、両手で耳をひっぱりながらソフィーはきっと鋭い視線をぶつけてくる。
「あたしはやることがあるの!自分で出来ることは、自分でしてちょうだい!!」
そういうと、くるりと背を向けハウルの脱ぎ捨てた上着を拾いあげる。
ハウルはちぇ!っと舌打ちしながらも、バスタブに湯を張ろうとカランを捻る。その間もあのさ、あんたのせいで!とハウルは何か話していたが、ソフィーはその後姿に目を奪われる。流れるような金髪の下からは滑らかな肌が見える。すらりと伸びた腕から首筋にかけて目で追って、ソフィーははっと目を凝らす。
美しいその肌に・・・痛々しいまでの傷。
その傷跡に思い当たる節のないソフィーは、どくんと心臓が跳ね上がる。
あれは、誰が、つけた、の?
一瞬動きを止めかけた心臓が、今度は眩暈が起こるほど早く打ちつけて体中が震える。
ハウルはそんな妻の異変に気がつかないようで、お湯の中に呪い粉を入れてぶつぶつと呟いている。
「ねえ、やっぱり一緒に入ろうよ!」
そういいながら振り返った場所には、すでに妻の姿はなくハウルはくすん、と寂しげな声をあげた。
ソフィーはバタバタと浴室から飛び出ると、口元を押えながら少し前まで自分の部屋にしていた階段下の小部屋に駆け込む。
「ソフィーさん!?」
「どうした?あいつが何かしようとしたのか!?」
見境いないヤツだな!
マイケルとカルシファーの声を背中に聞きながら、ソフィーは扉を閉めると寄りかかるようにして嗚咽を漏らす。
「・・・っうっく・・・っく・・・」
気がつくと先程拾い上げたハウルの上着を握り締めていて、ハウルの香りを胸いっぱいに吸い込み、ソフィーはまざまざとハウルの姿を思い出して悲鳴をあげそうになる。
美しい彫刻のような体に、痛々しいまでの・・・爪あと。
抱きしめ腕を廻した先だろうか?肩から肩甲骨にかけて深く付けられた痕。
ハウルが、誰かを、抱いた・・・?・・・!
「ふぅぅっ・・・!」
押さえ込むように、ハウルの上着で口元を覆い自分の声が漏れないように必死に塞ぐ。
どうしよう?どうしよう!
そんな素振り、これっぽっちも見せなかったくせに!
あたしの知らないところで、あんな傷をつけてくるなんて・・・!
息を吸い込むのに空気が入ってこない。頭の中に空気が足りない。
胸が痛くて心が壊れる!
あたしは、自惚れていたんだわ!
あの人がどんな人かよーく知ってるから、何をされたって動じやしない!なんて。
あの人が何をしようが、気にしたりしないわ!なんて。
あたしの中に、こんな大きな嵐があるなんて知らなかったのよ。
こんなに、あんたを愛してたの?
誰にも触れないで欲しい。誰もあたしのオトコに触れないで!
あたしだけの、あたしだけの・・・!
ソフィーは不意に立ち上がり、引き出しを乱暴に開けるとハサミを取り出す。ハウルのキラキラと輝く上着にハサミを入れようとしたその瞬間、そっとその手を掴まれ、びくっと体が震える。湿った空気はスイカズラの香りで、震えきった心臓でさえ、甘やかに痺れる。触れられたその腕が熱くて冷たい。
「ソフィー、何してるの。」
静かな言葉に、ソフィーは恐る恐る振り向くと、金色の髪から雫を滴らせ翡翠の瞳が心配そうに見つめる。ソフィーは体に羽織ったバスローブの下に潜めた肩口を見つめ、その先に不安そうにおろおろと中を覗き込む弟子と火の悪魔が目に入る。
「ちょっと、あんた大丈夫かい?」
ハウルはそっと髪に触れようと指先を伸ばすと、思い切り体を後ろに引かれバシンと手を叩かれる。
「?ソフィー・・・?」
だって、あんたは誰かを抱いたんでしょう?
いやだ。気持ち悪い!
今までのあんたがどうあれ、今のあんたが誰かと!?
どうしよう。そんなあんた知らないのに!
「・・・!イヤよ!・・・他の誰かがあんたに傷をつけるなんて!」
言いたい事は他にもあったはずなのに、口をついて出たのはその言葉だった。
「な?ソフィー?」
「ハウルのバカっ・・・・!」
ハサミががちゃんと床に落ち、ソフィーは俯いてうわー!と大きな声で泣き出す。
「・・・ちょっと、ねえ!ソフィー、僕を捨てる気なの・・・!?」
ハウルは慌ててソフィーの両腕を掴むと、心臓に冷たいものが流し込まれたようにがちがちと震えだす。
「それは!あんたのほうでしょう!」
「はっ?何言ってるのさ!!」
「だって!あんたの背中・・・!誰が傷つけたっていうの!?あんたがあちこち女性に声を掛けたり愛想を振りまいていたって気にしない!って思ってたけど、こんなあからさまな痕をつけられて、いくら鈍感なあたしだって、気がつくわよっっ!」
「ちょっ、待って!」
「待たない!ハウルのバカっ!あたし以外の女の人に傷をつけさせちゃ、いやあ!」
叫んで。
はっとして、ソフィーがハウルを見上げると真剣な表情のハウルが思い切り抱きすくめ、荒々しく口付けられた。
「んんっ・・・やぁ・・・・!」
キツク抱きしめられ深く口付けられて、ソフィーの言葉はハウルに飲み込まれる。
うわわ!とハウルの背中越しにマイケルの慌てて扉を閉める音とカルシファーがひゅう!と冷やかす声が聞こえたが、優しく激しいキスにソフィーはそっと目を閉じる。
ゆっくりと唇が離れると、ハウルの心底嬉しそうな瞳が飛び込みソフィーは赤くなる。
「・・・初めてだね。あんたがこんなに激しく嫉妬してくれるなんて。でもさ・・・」
ぴん!と額を指で弾かれ、ソフィーはイタイ!と叫んで額をさすると、ハウルのちょっと怒った顔がずいっと鼻先に迫る。
「あんた自分に嫉妬してどうするのさ!この傷は、あんたがつけたんじゃないか!忘れたの!?なんてヒドイ奥さんなの!」
「えっ?」
「一昨日、あんた自分で呪い掛けて猫になっちゃっただろう?あんた木に登っちゃって降りられなくなったじゃないか!その時、僕が助けに行ってあんた怖くて僕の腕から逃げて、僕の肩にしがみついて思い切り爪をたてたんだよ!!痛くて痛くて!だから傷がお湯に染みないように、呪い粉を買ってきたんだよ?あんたお風呂で僕が話していたの・・・聞いてなかったの!?」
「・・・だって・・・」
あんたのキレイな背中に見とれていたんだもの!
ソフィーは真っ赤になって俯き、弱弱しい声でごめんなさい、と呟く。
ハウルはわざとらしく、ふうと息を付くとソフィーを覗き込む。
「あんたが、どんなに僕を愛してくれてるかよーくわかったから・・・許してあげるよ?」
ハウルは蜂蜜のようなとろける甘い笑顔を見せると、愛しい妻の耳元で囁いた。
「あんたの途方にくれた顔はとっても・・・そそられた」
だから、責任とってよね!
ウィンクする魔法使いに、今日ばかりはソフィーは黙って頷いた。
そそっかしいのも・・・ほどほどにしなくちゃ・・・身を滅ぼすわね・・・。
end