触れる指先
窓を開け放ち、心地よい風とお日様の温もりを城の隅々まで行き届かせ、ソフィーは掃除に没頭していた。洗濯物も楽しそうにはためきながら中庭で踊り、微かな石鹸の香りが鼻をくすぐる。穏やかな時間の中で、ハウルはぼんやりとその後姿を眺めていた。
あんな小さな体の中に、どうしてそこまでパワーを秘めているのか?ハウルにとってはまったくもって不思議でならない。
ソフィーがどんなことにも手を抜かないことは十分知っているが、掃除婦としてここに転がり込んできて依頼、頼まれもしないのに必死に掃除するソフィーの姿は、まだ呪いがかかっているかのようだ。
最初は煩わしくさえ感じたソフィーの掃除癖も今では風景の一つのように、しっくりしている。
その上今日はやけに掃除に手が込んでいて、床や棚を磨き上げて窓ガラスを念入りに拭いている。
「そういえば、ハウルさん咳をしていらしたのに今回は風邪こじらせずにすんだんですね!あ、ソフィーさんの栄養満点な食事のお陰ですね!」
ハウルがソフィーを見つめていることに気がついたマイケルがにこにこと話し掛ける。
「そういえば・・・そうだねぇ。ああ!これでお風呂に入るたびに怒鳴られずにすみそうだ!今日からはのんびりと長風呂を楽しむよ!」
ハウルがくすくすと笑い、ソフィーの『何言ってるの!』という怒鳴り声が響くのを楽しみにしていたが、当のソフィーは忙しく手を動かすほかは反応がなく、ハウルは少々ふてくされたように頬杖をつく。
マイケルが作業代の上に呪いの調合品をずらりと並べ、ぶつぶつと呟きながら課題に試行錯誤し、ハウルに助言を求めてくる。ぼんやりと眺めていたハウルは、心ここに在らずという感じで生返事を繰り返す。
「もう、ハウルさん!僕の話も聞いてくださいよ!」
マイケルが痺れをきらして声を荒げると、ハウルはぴくりと眉をあげる。マイケルは瞬間身構えるが、ハウルの碧眼はソフィーを見つめたままで、その瞳はどんどん険しくなり、がたんと音を響かせて椅子から立ち上がる。マイケルは不思議そうにソフィーへと視線を移すが、いつものように掃除に専念しているだけで、特に変わりはない。
「ハウルさん?どうか・・・」
「ソフィー!あんた何やってるの!?」
ハウルは慌てて駆け寄ると、一生懸命窓を拭くソフィーの腕を掴む。カルシファーが興味深そうに暖炉から顔を出し、二人を眺めるがハウルと同じように慌ててマイケルの隣に飛んでくる。
「マイケル、水を汲んできな!タオルを用意して!」
「えっ?えっ!?」
ずるり、とハウルに掴まれた右手から雑巾がべちゃと床に滑り落ち、ソフィーは困ったような笑顔を浮かべ、瞳を閉じる。
マイケルはカルシファーの言葉に驚きながら、ハウルが掴んだ腕にぶらさがるようにして崩れるソフィーに目を見開く。
ハウルは素早く細腰を抱きかかえ、だらりと力なく四肢を伸ばすソフィーをソファーに運ぶ。
マイケルはようやく事態を把握し、流し台に走り桶に水を張りながら、今度は洗濯物の干してある中庭に走る。
カルシファーも暖炉に戻ると自ら薪に手を伸ばし大きく口を開けて頬張ると、炎の勢いをあげる。
ハウルはそっとソフィーの額に自らの額を押し当てて盛大な溜め息をつくと、両手で華奢な身体を抱きしめる。
「ひどいのか?」
カルシファーが炉格子にしがみ付きながらソフィーの様子を伺う。マイケルがぱたぱたと駆け寄り、「ハウルさん!」と、毛布を差し出す。
「ありがとうマイケル。」
「ソフィーさん、熱があるんですか?」
マイケルは気がつかなかったことを恥じ入るように、おずおずと尋ねる。ハウルはそんな弟子に笑顔を見せ、ソフィーを毛布でくるみながら、しょうがない奥さんだよ、と呟く。
「今朝はいつもより早く起きたみたいなんだ。店が休みなのに。おかしいな、とは思ったんだけどね?」
皆がソフィーを囲むようにして覗き込む。肩が震え、よく見れば喘ぎ喘ぎの呼吸で吐く息さえ熱を持っている。顔色は熱を帯びてほんのりと紅い。
「やけにはりきってるな、と思ったんだよ。ソフィー、体調悪い時まで無理するんだから!」
ハウルはイライラした口調とは裏腹に、跪き心配そうにソフィーの頬に触れている。
マイケルは水の流れる音に握り締めた洗いたてのタオルを見て、弾かれたように流し台に走る。
「・・・風邪か?」
カルシファーが尋ねると、ハウルは肩をすくめる。
「そうみたいだね・・・。僕らがちょっと咳をしたり風呂あがりに髪が濡れていたりすると、『風邪をひいちゃうでしょう!?』って凄い剣幕で怒るのにね。昨日お風呂上りに、遅くまで繕い物をしてたみたいだし・・・。」
「あんたの帰りを待っていたんだよ。」
「うん、わかってる。」
マイケルが桶を抱えてきてタオルを浸すと、冷たい水を含んだタオルを持ち上げ両手で硬く絞る。小さく畳みソフィーの額に乗せると、ソフィーの口から息が漏れる。
「ありがとう、マイケル。」
ハウルは小さく呟く。
「どうして僕の奥さんは、自分を大事にしてくれないんだろう?今日だって、起きたときから体調がおかしいことくらいわかっていただろうに!きっと、『明日倒れてもいいように、今のうちにキレイにしておかなくちゃ!』ってはりきってたんだと思うね!」
ハウルは泣き出しそうな表情でソフィーの頭を撫でたり、頬を撫ぜる。
「でもハウルさん、よくわかりましたね?」
マイケルが感心したように尋ねるので、ハウルは苦笑する。
「・・・だってさ、マイケル。ソフィーが何度も同じ窓ばかり拭いていたらおかしいって思うよ。それによーく見てるとね、指先に力が入ってなかったんだ。だから、ほら!雑巾もびしょびしょ!」
ハウルが視線を向けた先には床に張り付くように落ちている雑巾が見え、確かに水分を含んで重そうに広がっている。よくよく窓を眺めれば、水跡の残ったソフィーらしからぬ拭き方である。
「でも、気がつくのが随分遅くなってしまった!こうして頬に触れれば、すぐにわかったのに!」
ソフィーを見つめる碧眼は激しく自分を責め立てているように見える。
「風邪を治す魔法はないのにさ・・・」
うっすらと汗を滲ませ首筋がぴくりと反応し、ソフィーが毛布の中からのろのろと腕を伸ばす。ハウルはその手をきゅっと握り締め、反対の手で髪を梳く。
「・・・ウル?」
「うん、なに?奥さん」
ソフィーはうっすらと瞳を開け、ハウルの心配そうな顔を見つけるとしまった!と云うように苦笑する。
「あたし・・・?」
「熱があるよ。苦しいだろう?どうしてこんな時にまであんたは奴隷働きしたがるのさ!あんたが倒れてしまったら、憐れな僕たちはどうしたらいいんだい?」
指先から感じるソフィーの熱や息遣いは、かなりの辛さを物語っているというのに。ソフィーは起き上がろうと腕に力を込める。しかし、熱のせいか力が入らずがくりとハウルに寄りかかり苦しそうな息をあげる。
「無理はいけないよ!ソフィー!」
「そん・・・なんじゃ、ないわ・・・。ただ・・・ベットへ行こうと・・・思って・・・。」
みんなに伝染しちゃ大変だもの・・・!そう言って再び立ち上がろうとするソフィーをハウルは毛布毎抱き上げて、酷く不機嫌そうな声をあげる。
「どうして、あんたはこんな時まで一人で我慢するの!僕は、僕たちは、何の為にここにいる?あんたを倒れるまで働かせて、それで平気だとでも思っているのかい?」
その言葉と、何よりソフィーを抱き上げる腕ががたがたと震えていることに気がつき、ソフィーはハウルを見つめ頬に手を伸ばす。冷たくて心地よい。熱のせいで思考回路もあやふやになりながらも、ハウルが悲しんでいることは伝わる。
「ごめ・・・なさ・・・そんな・・・じゃな・・・・」
喉の奥も頭の中も。痛みと熱で朦朧とする。それでもハウルを傷つけたことに罪悪感を感じて頬に触れ続ける。思いはこの指先から伝わると信じているから。決してそんなつもりではないのだと、精一杯謝罪の気持ちをこめる。
ハウルは抱きかかえたまま、悲しげにソフィーを見つめふいに口付ける。マイケルもカルシファーも唖然とその様子を眺め、ソフィーにいたっては目を見開いたまま時が止まったかのようにハウルの長いまつげを見つめてしまう。
ハウルはこれでもかと、いわんばかりに口付けを深め、苦しそうに喘ぐソフィーがようやくなけなしの力で頬を押すと、ようやく唇が離れる。
「・・・・!な・・・・」
言葉にならずに瞳を潤ませるソフィーに、ハウルはにっこりと笑って答える。
「わからずやのソフィーにお仕置き。風邪は誰かに伝染すと治るんだよ?これであんたはきっとよくなるね!僕はね、看病するより、されるほうがいいんだ。早くよくなって僕を優しく看病してよね!?」
「・・・!バカ・・・!」
ソフィーの手のひらにそっと頬を寄せ、祈るように瞳を閉じる。
ゆっくりと階段を上っていく夫婦を見送りながら、カルシファーは溜め息をつく。
「どうして、ハウルはああなんだ?」
マイケルは肩をすくめつつ、赤くなる頬に手をあてる。
二人の指先から発せられた、愛しい人への呪いに似た想いに胸がどきどきしていた。
指先からも愛を紡ぐなんて、さすがにお二人とも・・・魔法使いだ・・・!
end