今ここに在る危機
この城の主である魔法使いが帰城したのは、暖炉の中の悪魔さえ眠りこける真夜中であった。
魔法使いはキングズベリーからの扉を少し乱暴に閉めると、右手を左肩に置いて、ゆっくりと首を回し溜め息をついた。
そして誰に聞かせるでもない愚痴をウェールズ語で呟いて、重い足取りで暖炉前のソファーまで歩くと、そこにどさりと沈み込んだ。
睡眠不足の身体の疲れより、心の疲弊が大きい。
魔法使いが起こした風で、暖炉の中で小さく揺れていた炎は一瞬非難する様に身を捩る。
暖炉の中で薪がパチリと小さく爆ぜ、火の悪魔は薄目を開けて魔法使いを盗み見たものの、細い腕を静かに伸ばして薪を一本引寄せると、抱きかかえるようにしてまた目を閉じた。
魔法使いは金色の髪に両手をあてて天井を仰ぎ見ていた。
碧の瞳を大きく見開いていたかと思うと、急に身体を震わせてぎゅっと目を瞑り、掌でさらさらの金糸を握り締める。
魔法使いが何かに苦悩していることも、そしてそのことで自らを責めていることも、この火の悪魔にはわかっていたのだが、慰めも同情も何の足しにもならないことくらいには、この魔法使いのことを知っている。
王室付き魔法使いなんて大した肩書きで仕事をしていても・・・本当は弱虫で臆病なことも。
すっかり眠気は抜け切ってしまったものの、火の悪魔は話しかけたりせずに寝息をたてて見せた。
「あ〜あ」
それはこの魔法使いにとっても同じ事で、この悪魔が寝たフリを続けることくらい知っていたし、愚痴に付き合ってほしいわけでも――― まして、今にも泣き出しそうな顔の、情けない姿を見てほしいわけでもなかった。
だから、一人と一匹は、暗闇の中、青白い炎が揺らぐ静寂の中で、奇妙な連帯感を持ちながら、ただ時計の針が無情に時を刻むのを聞いていた。
「ちょっ・・・!」
女の、押し殺したような声が聞こえたのは、ちょうど魔法使いが再び溜め息をついた時であった。
声の主は、彼の妻であり、今頃は2階の奥の寝室で、安らかな寝息をたてているはずのものである。
魔法使いは怪訝そうに掌をほどき、暗闇の中、2階へと続く階段を凝視した。
「寝言?」
呟いて耳を澄ます。
「・・・待ってっ!・・・そんなに・・・っ」
再び、妻の声が聞こえてくる。
大きな声ではない。
多分、寝室で囁くように紡がれた言葉だ。
思わず魔法使いは耳をすまし、暖炉の中で寝たフリを決め込んでいた火の悪魔を見つめた。
火の悪魔も怪訝そうな顔で暖炉から浮き上がり、同じように魔法使いを見つめている。
「いやっ・・・!」
小さな囁き声が、拒絶の言葉でありながら、たいして嫌がっているふうでもなく、どこかくすぐったそうに響く。
得も言われぬ不安が胸をよぎる。
魔法使いは知らず立ち上がり、嫌な汗が背中を伝うのを感じて頭を振った。
先程までの苦悩すら、今あるこの危機と比べたらまったく大したことではないように感じられるほどである。
「ね、待って・・・!」
魔法使いはぶるぶると震える拳を握り締めたが、両足はまるで氷付けになったように動かない。
大声をあげて妻の名を呼びたかったが、まるで鉛でも流し込まれたのように、喉の奥が詰まって言葉も出てこなかった。
それでも何とか気力を振り絞るようにして、ハウルは息を吸い込んだ。
――― ソフィー!?何してるのさっ!?
そう叫んだつもりであったが、まるで水槽から口をパクパクとさせる金魚のようで、声にはならなかった。
「おい、ハウルっ!」
心配したような悪魔の声に、ハウルはようやく呪縛が解けたように身を弾かれた。
と、同時に階段へと駆け出した。
心の中では邪悪な想像が大きく羽を広げ始める。
「ハウルさん、こんな真夜中にどうしたんですかっ!?」
バタバタと駆け上がる物音に驚き、階段の近くにある弟子の部屋から、長年共に生活しているマイケルが慌てふためいて顔を出す。
気がつけば、ハウルは胸の奥から湧き上がるような唸り声をあげて、階段を駆け上がっていたのだ。
「何かあったんですか!?」
「お前じゃないんだね?それじゃあ新弟子の・・・!?」
必死の形相のハウルが素面であることに益々驚くマイケルは、何のことかわからずに鋭い目つきで寝室に歩み寄るハウルの袖を引っ張った。
「ハウルさん、何がどうしたんです?」
「うるさい!離せ!」
「ソフィーさんなら、とっくにお休みです!」
「お前もグルなのか?」
「はあっ!?」
訳もわからず、とにかく乱心な様子のハウルを押し留めているマイケルの腕を、ハウルは振り払うようにして寝室のドアノブを握る。
「いやっ・・・・そんなにしたらっ・・・・!痛いわよっ」
中からはソフィーのくすくすと笑うような声が聞こえてくる。
カッと頭に血が上るような言葉に、ハウルはぎゅっと碧眼を閉じ、蹴破るようにして寝室のドアを開けた。
「ソフィー!あんた何してんのさっ!」
怒鳴りながら、しんと静まり返った寝室の空気に自らの皮膚がボロボロに切り裂かれるような感覚にハウルは両腕で自分を抱きしめた。
今目の前で広がっている、この世の終わりと思われるような光景を見つめる勇気がなかった。
「・・・ハウル?」
きょとんとしたような妻の声に、ハウルはまだ目を開けられずに立ち尽くしていた。
心の中で、相手を八つ裂きにしてしまう恐ろしい自分が居て・・・何より一番大切な妻が自分以外にその身を委ねているかもしれないという事実から目を背けていたかった。
ぎいっと扉が開く音がして、寝ぼけたような声がハウルの背後でする。
「マイケルさん・・・?何かあったんですか?」
ようやく聞きなれてきた新弟子の声に、ハウルは頭に疑問符を浮かべ、頭上で漂う悪魔の気配を感じながら、恐る恐る瞳を開けた。
――― そこには・・・寝室のベットの上には、驚いた顔のあかがね色の髪のソフィーが一人、ポツンと座り込んでいるだけであった。
「・・・あれ?」
「・・・なんなのよ?」
真夜中の寝室に怒鳴り込んできた夫に呆気にとられたものの、次々と覗き込む弟子たちや火の悪魔に、さすがのソフィーもむっとした声をあげた。
「・・・あんた一人?」
「そうよ、あたりまえでしょう?」
情けなく震える指先でソフィーを指さし訊ねるハウルに、ソフィーはベットの上で腰に手をあてて憤慨したように答えた。
なんとなく事情を察したマイケルは、肩を竦めると寝ぼけ眼を擦る新弟子の背中を押して「さ、寝るよ」と自分たちの部屋へと引き上げていく。
火の悪魔も呆れたように二人の頭上を一回転すると、わざとらしく大きな欠伸をして寝室を後にした。
寝室に残されたハウルは、ソフィーの冷たい視線に射抜かれたように動けなくなっていた。
「・・・で?あたしが一人なのが気に食わないの?」
「だって、あんたの、その、声が聞こえたから・・・」
ハウルはぎこちなく笑顔を作ってソフィーに歩み寄った。
「だから、あの、ぼくはてっきり・・・」
言いながら、ハウルはソフィーを見つめた。
ソフィーは膨らませていた頬を柔らかく緩ませると、そっと膨らんできたお腹に手をあてて笑った。
「ああ、一人じゃあなかったわ。もう一人、ここに居たわよ?あんたに良く似て、あたしを眠らせてくれない・・・愛しい存在がね。」
「・・・そうだったね!」
ハウルは苦笑して、そんな大事な存在を忘れていた自分に呆れてその場に座り込んだ。
ソフィーはゆっくりとベットから降りると、ハウルの元まで歩き、そっと優しく包み込むように抱きしめた。
「悩んでいても夜は明けるのよ。さあ、朝まで眠りましょう?この子も、あんたと一緒の方が悪さをしないわ。
妬きもち焼きのパパが一緒ならね。」
――― 今ここに在る危機は、乗り越えていける筈。
この小さな幸せの為なら。
end
久しぶり・・・のリハビリSS(苦笑)
モーガン妊娠中です(笑)