胸に刺さった小さな棘  - 2 -





結局、一言も交わさないままハウルは王室へと出向き、帰宅したのは真夜中近かった。

「おい、このまま放っておいていいのか?」
催促するように暖炉の中から細い手をハウルへと伸ばし、火の悪魔は二階をちらりと見た。
ハウルは面白くなさそうにスープ皿をスプーンでつつくと、カランと音を立てて皿に投げた。
「自分で取れるだろう!?お前はもう暖炉に縛り付けられているわけじゃないんだから!」
そう言いながらもガタンと椅子を引き下げて、積み上げられた薪に大股で近づくと、2本掴んでカルシファーの口の中に放り込んだ。
「わかってるよ。このままじゃいけないってね。・・・・でも、これはソフィー自身が何とかするよりしょうがないだろう?」
ハウルは大きく溜め息をつくと、ソファーに倒れこんで天井を見上げた。
綺麗に煤の払われた天井の、ほんの端っこに蜘蛛の巣が遠慮がちに巣を広げている。
しばらくソフィーと勢力争いをしていたようだけど、お互い妥協したんだ?
「蜘蛛とだって、ちゃんと渡り合ってるのに・・・」
「まったくだね。・・・ほら、また妙な力が強くなってる。」
カルシファーは青い炎を威嚇するように大きくあげた。

まるで、悪い魔法使いが高い塔の天辺に閉じ込めたお姫様のように、ソフィーは寝室に籠って帽子を作り始めた。
ファニーの申し出を受けてハウルと気まずくなり、ソフィーは唇を噛み締めながら花屋の仕事をマイケルに任せて、早めの夕食の準備にとりかかった。
いつもなら「いってらっしゃいのキスは?」とうるさくせがむハウルは、しかし無言でキングスベリーへの扉を閉めるだけだった。
背中でその音を聞いていたソフィーの胸に、小さな痛みが走った。
「いっ・・・!」
一瞬顔をしかめたが、カルシファーが覗き込む寸前に、何食わぬ表情に戻せた。
あんな風にハウルに言い切った手前、家事をおろそかにすることなんてできない。
ソフィーは昼食を手早く作ると、カルシファーに夕方になったら煮込んでほしいと大きな鍋を指さした。
店先のマイケルに昼食の用意ができたことを伝え、夕方に鍋をカルシファーの上に運んでね、と告げるとさっそく帽子作りに必要なものを探し始めた。
今ではハッター帽子店の物置は中庭からその窓が見えはしても、そこに続く扉はなかった。
ソフィーは落ちていた枝を拾い上げると、片手を腰にあてて大きく息を吸い込み物置の壁に向かって声を張り上げた。
「どうしても帽子を作らなくちゃいけないの!ここはあたしの家なのに、自由に出入りする扉がないわ!さあ、一瞬でいいからここを開けなさい!」
ソフィーが枝を大きく振り回し壁を叩くと、不機嫌そうに壁は揺れ、しかしまるで子どもの積み木遊びのようにレンガの壁がガラガラと崩れた。砂埃と大きな音がしばらく続き、呆気にとられているソフィーは砂埃が治まるのを待った。そして現れたぽっかりと開いた大きな穴に溜め息が漏れた。
「こんなに大きく崩れなくても、あたしが入れるくらいでよかったのに。忌々しいったら!」
まるで大砲でも打ち込まれたかのような穴に、ソフィーは自己嫌悪に陥りながら、棚や引き出しを見ては帽子作りに必要な物を籠に入れた。
そこは2年ほど使われていないので、どこかカビ臭くて陰気な気持ちになった。
そして、この仕事に捕らわれていたあの頃の異常なまでの気弱さに苦笑した。
「もういいわ。このままじゃ、雨が降ったりしたら大変だから、元に戻しておくのよ?!」
ソフィーは大きな籠を庭に下ろすと、エプロンのポケットに突っ込んでいた枝を取り出して、散らばっているレンガに鼻をならしながら呼びかけた。やれやれ、と声が聞こえてきそうなほど、ゆっくりゆっくりとレンガが戻り再生されていくのを、ソフィーは見届ける間も惜しんで寝室に籠を持ち込んだ。

その日一日、憐れ、ソフィーの分も何かと働く羽目になったマイケルは、本日最後の仕事、王宮から帰宅した不機嫌なハウルに夕食のスープを盛り付けると、イライラしている師匠の前に並べ、早々に自室に引き上げていった。
「なんだい!ぼくの奥さんはぼくの帰宅も無視してるって訳かい!」
「あんた今日はここで寝るハメになるんだぜ」
パチッと薪を爆ぜながら、カルシファーは笑いを堪えるようにしてハウルを盗み見る。
やっかいなことに巻き込まれたことを嘆いているハウルは、それでもソフィーのことが心配な様子で二階を見つめた。可笑しそうなカルシファーと目が合うと、ハウルはバツが悪そうに舌打ちして毒づいた。 「ソフィーったら、ちっともわかってないじゃないか!」
ハウルは寝室のソフィーに向かって声を張り上げる。
「ダメだよ、ソフィーは壁にも呪いをかけたたからな。意地になってるのさ。あんたがあんなこと言うからだよ。」
からかうようなカルシファーの声は、しかしどこか心配そうに語尾が掠れた。
「ソフィーにとって、今日のことは・・・老婆になりきっていた前回より、さらにやっかいで強力な呪いがかかるんだ・・・!」
「それはあんたでも解くことができないんだろ?大魔法使いが聞いて呆れるよ!」
カルシファーは大きく炎を立ち上がらせ、天井を仰いだ。
「・・・・・・ソフィーは情に脆いからね・・・」
ハウルは否定せず、うな垂れた。
「こんな時にさえ、ソフィーはぼくを頼らない。」
ぼくは彼女にとってなんなのさ?
せめて、本当の気持ちを言ってくれてもいいだろうに。
暗い空気が辺りを包み、カルシファーは悲鳴をあげた。地の底から響くような叫び声が聞こえる。
「おい!このこんがらがった事態の時に、あんたがそんなんでどうすんだよ!今、あんたがねばねばを出したところで、ソフィーは気づきもしないぜ?それどころか、明日の朝、扉を開けて仕事が3倍にも増えたことで、ますます呪いを強めちまうぞ!?」
カルシファーの言葉に反応するように、部屋の隅で浮かび上がってきていたおぞましい影は、吸い込まれるようにして消えた。 階上で、ガタンバタンと何か大きな物が落ちた音が響き、慌てふためいてマイケルが扉を開けた。
「カルシファー!ハウルさんがっ!」
階段を転がるように駆け下りてきたマイケルが、拍子抜けしたように暖炉の前のソファーでうな垂れるハウルを見つめた。
「大丈夫だよ。さすがにこいつも、今、そんなことしでかして、ソフィーが本気でハウルを捨てかねないことくらいわかってるだろ!」
そういいながらも、火の悪魔はびくびくと薪にしがみついていた。
「ハウルさん、ソフィーさんの帽子作りが終わるまでの辛抱ですよ」
マイケルは、ハウルがソフィーに構ってもらえずに落ち込んでいるのだと考えて、ハウルの肩に手を置いて笑顔を貼り付けた。
ハウルはうんと力なく頷き、心配そうに覗き込むマイケルを見上げた。
「でもね、マイケル。この帽子作りが終わっても、今のままじゃダメなんだよ。ソフィーがそのことに気がつかない限り・・・。」
ハウルの碧眼は淡く揺らめいて、自嘲的に口元を歪めた。
「?」
マイケルはハウルの言う意味がわからず、火の悪魔へと視線を移した。
カルシファーは面白くなさそうに薪の下に潜り込むと、目を閉じて呟いた。
「きっと、朝はいつも通りに降りてくるさ。あんたらの朝食作りと掃除をする為にね。」
おいら、叩き起こされるんだから、もう寝るぞ!
「なんだい。ぼくの相手をしてくれるんじゃなかったのかい?」
拗ねたような口調でハウルが言うと、薪の下から火の粉をあげて「それはおいらの役目じゃない!」と言い返した。
「・・・あの、ハウルさん・・・?」
おずおずと問いかける弟子に、ハウルは苦笑して立ち上がると飲みかけのスープ皿を流しに運んだ。
「さあ、お前も疲れてるだろう?もう寝なさい。ぼくは大丈夫だから」
ハウルが珍しく腕まくりをして、皿を洗い出したのを見てマイケルはいよいよ悪寒が走るような気がしたが、ここに自分が留まっても解決策がないことを感じていたので、明日に備えて休んだ方が得策と「おやすみなさい」と自室に引き上げた。
ソフィーさんが帽子を作ることが、そんなにいけないことなのかな?
部屋に戻ったマイケルはマーサへの手紙の続きにそう書き足して、文机の明かりを落とした。
ハウルは魔法を使わずに、食器を片付けると薄目を開けてこちらの様子を伺っている、カルシファーに背を向けるようにして作業台の下の椅子を引き出して座り、頬杖をついた。
「・・・なんで断れないの?ソフィー。あんたまだ気づいてないのかい・・・?」
その声は哀しげで、夜の闇すら味方につけていそうな全てを遮断する扉の前で掻き消えた。
寝ずに作業をするつもりだね。
「あんたが唯一、未だに捕らわれているその呪いは・・・。本来なら、もうとっくに解けていいはずだったのに・・・。」
一抹の寂しさがハウルの金色の髪を揺らした。
本当なら、壁を蹴破ってでもソフィーにただいまのキスをして、ベットに沈めてしまいたかった。
「自惚れていたのかな。ぼくは・・・あんたの旦那じゃなかったのかい?」
それが解決にならないことは充分知っていたのだが。

帽子作りは、まるで呪いを完成させる為に用意されたみたいじゃないか・・・!

ハウルは眠れないまま、夜が明けていくのを待った。
ソフィーの顔が見たかった。声を聞きたかった。
それは、また最悪な言い争いになりそうだけど、と覚悟をして。
しかし、爽やかな夜明けは訪れなかった。
いつの間にか振り出した雨は、まるで夜明けを遮るように、どす黒く重たい雲を引き連れてきて、太陽を遮りいつまでも城の中を暗くしたままだった。

ソフィーは針を持つ手を止めて、寝室の窓の外のウェールズの光景が明るくなってきていること知り、慌てて立ち上がった。
「もう、朝なの!?」
予定の半分も作業が進まないことに苛立ちながらも、ソフィーは片づけを始めた。
「あたしったら、なんでこんなに要領が悪いのかしら」
思わず舌打ちながら、ソフィーはスカートについた糸くずを払い落とした。
欠伸をかみ殺し、皺一つないベットに視線を移すと急にハウルの顔が思い浮かんで、胸が痛かった。
「・・・あの人・・・どこで寝たかしら・・・・・・風邪でも引かれちゃ・・・・大変なのに」
そう言って、また胸が苦しくなった。

なんだって、あたしはこう厄介な性格なのかしら!

胸の中がざらついて、小さな痛みがまるで自らを責める様に続いていた。






3へ続く