守るべきもの ― 5 ―
「・・・もう、このままでは・・・」
一瞬鼓動を止めたハウエルを抱きしめて、ソフィーはガタガタと震える唇を噛み締めた。
蒼白な美しい少年は、このまま永遠にその翡翠色の瞳を開かないのではないか、と体中の血が引いていく気がした。
ソフィーは息をのみ、それでも何とか名前を呼ぶ。
「ハ・・・ハウエル!?・・・っハウル!ハウル!」
小さな体が弱く震え瞼が微かに動く。
良かった。戻ってきてくれた・・・!
ソフィーは握り締めた手に返ってくるハウエルの掌に、安堵しながらもさらに大きな不安が広がり胸が押し潰されそうだった。
でも、このままではダメだ。頭の中で声がする。
そっと額にかかる髪をかきあげて、その白く幼い愛しい人を覗きこんだ。
「・・・ソフィー・・・ぼく・・・このままここに居たいけど・・・・」
「うん。」
ソフィーはその小さな手を握って、ハウエルの言葉を待つ。
「もう、戻れないのかな?もうずっとミーガンに会ってない。・・・ミーガン・・・心配してる・・・かな?」
いくらソフィーが側にいても、ハウエルの家族にはなれないのだ。・・・今はまだ。
「ハウエル・・・いい事を教えてあげるわ。」
ソフィーは胸に一つだけ浮かんだ解決策を・・・今までずっと、上手くいかないだろうと半ば諦めていた思いを口にした。
もう、これしか、このハウエルをそして愛しいハウルを助けられない気がしていたのだ。
ソフィーの決意が瞳に宿り、まだ苦しそうに肩で息をするハウエルは不思議そうに、こくんと頷いた。
「あんたを・・・魔法使いハウルの・・・お師匠様に会わせてあげるわね。」
「・・・?」
ソフィーは、己のしようとしている無茶を充分理解していた。
でも、これしか方法がないと思えたのだ。
ハウエルが時空も次元も超えてこちら側にやってきたのは、強い願いから。
だったら、とソフィーは願った。
「どうか、お願いよ!あの人の先生の元へあたしたちを連れてって!先生の生きていた、あの頃へ・・・あたしたちを連れて行って!!神さまでも悪魔でもなんでもいいわ!あたしの願いを叶えてちょうだい!」
ソフィーはハウエルをぎゅうっと胸に抱きしめて、声を天に向かって張り上げた。
『仕方ないな』
ソフィーの耳には、そう聞こえた気がした。
やっぱり悪魔?それとも神様?どちらでもいい、あたしの願いを叶えてくれるの?
「ソフィー・・・?」
ごうっと風が起こり、驚くハウエルがソフィーにしがみ付くとソフィーは目に見えない大きな渦が自分たちを飲み込んでいくのを感じた。
ぐるぐると回転する意識の中で、ソフィーはそれでも願うことをやめなかった。
どうか!先生!この子を助けて!
薄れ往く意識の中で、ただ必死に。
パン!と誰かが手を叩く音に、ソフィーは驚いて顔をあげた。
そこは・・・薄暗い応接間で、青と白と金で統一されていた。見覚えのある部屋にソフィーは少し安堵した。
腕の中のハウエルは再び気を失っていて、ソフィーは一瞬青くなりそっと心臓に耳を寄せた。
とくんとくんと小さな鼓動が聞こえて、微笑んだ。
息を整えるように深呼吸をして、ソフィーは手を叩いた人へと視線を向けた。
青と金で刺繍された椅子に腰掛けて、珍客に目を細めているのは・・・ソフィーが老婆で会った時より幾分皺の数が少ない・・・ペンステモン夫人だった。
「まあまあ、随分乱暴な来客ですわね。」
私の家に無断で上がりこんで。
厳しい口調でそう言いながらも、瞳の奥ではどこか優しい温かな光りが溢れていた。
「あの、あたし、ハウルの・・・・!」
「ハウル?」
不思議そうに覗き込む夫人に、ソフィーは自分たちがどれほど過去にきたのかわからずに、狼狽した。
夫人はソフィーをじっと見つめ、ゆっくりと眉をひそめた。
「貴女には・・・どこかでお会いするわね。でも、きっとそれは遠い未来。・・・貴女禁忌をお破りなったのね」
厳しい声に鞭打たれたように、ソフィーは一瞬言葉を飲み込んだ。
「それに、その少年は・・・・」
ソフィーはしかし、すでに悪魔に魂を売り渡した気持ちでいたので、今更何を怖がる必要があるのか、と開き直って夫人を見上げた。
「・・・まだ、先生の元には・・・・ハウルという弟子は居ないのですか?」
「ええ、いないわね。・・・その少年と同じ・・・異世界から来た・・・弟子はようやく一人前に育てましたけど?」
夫人は口元を引き結び、じっとハウエルを見下ろしていたが、やがて驚愕したようにその神経質そうな瞳を見開いた。
「その少年、とても強い魔力を感じますわ。サリマンもそう感じましたけど・・・・この少年のこの強い魔力は・・・比べ物になりませんわ!」
「あの、この子を元居た世界に戻して欲しいのです!この子は・・・ちょっと悲しい想いをしたんですけど、多分、もう立ち直ることができると思うのです・・・!」
だから!
礼儀も作法もかなぐり捨てて、ソフィーは懇願した。
ペンステモン夫人はソフィーの瞳の中を覗き込むように見つめ、そして大きな溜め息をついた。
「・・・貴女は、この子の母上だというのかしら?」
その言葉には、どこか懐かしさが滲む。
「禁忌は・・・貴女のそして私の未来になんて入り組んだ仕掛けを施したものか・・・」
「ペンステモン先生?」
「その少年、そのままあちらに帰っても・・・辛い思いをしますわよ?見えないものも見える力。理解するものもなく、心に孤独を抱えて。それでも?」
ソフィーは時折ハウルが覗かせる暗い横顔を思い出していた。
夫人はまた一つ大きく息を吐くと、やれやれ、と呟いた。
「私に預けてくださらない?この子に、あちら側と・・・行き来できる力を授けたいと思うのです。この子の魔力は、私の後を継ぐのに匹敵するだけのものがあります。・・・貴女ならご存知でしょう?」
夫人は椅子から立ち上がると、ハウエルを抱きかかえるソフィーの前に跪き、にこりと、微笑んだ。
「この子は、なんて幸せなのかしら。貴女のような女性に愛されて。それにしても、貴女、無茶をするのね。」
「あたしの・・・守らなくちゃいけないものが・・・この子は・・・その全てなんです・・・!」
「守るべきもの、ね。」
そっと、頬を骨ばった手で撫でられて、ソフィーは思わず涙が零れた。
「・・・っあの、あたしの夫は、本当に貴女を尊敬していました。」
貴女が亡くなった時も、貴女の死を誰より悼んでた!
ソフィーが言葉にできず、俯いて涙を流すとそっと抱き寄せられた。
「・・・いいのよ。あの子が悲しむ必要はないのよ。それが、私の天命です。だから、貴女が・・・未来に戻ったら、伝えてちょうだいね?貴方は私の誇れる、最後の弟子だと。」
夫人は何事か呟くと、小さな光りの粒子がソフィーの身体を取り巻いた。
「そして、もう一つ伝えてちょうだい?禁忌を犯す魔法を以後使わないこと!と。よくて?二人に伝えるんですよ?まったく、あの子達ときたら!」
言葉とは裏腹な夫人の表情は、厳しさの裏側に潜ませていた母に似た優しさで溢れていた。
「さあ、お別れですよ。貴女はお帰りなさい。」
ソフィーの腕の中で、ハウエルがゆっくりと瞳を開けた。ソフィーの涙に驚いて、ハウエルは小さな手を顔に伸ばしそっと頬に触れた。
「・・・ソフィー?」
込み上げる、愛しさと寂しさにソフィーは歯を食いしばり、意を決してハウエルに告げた。
「ハウエル、死者は甦らせることはできないのよ。悲しいけれど。でもね、あんたのその小さな胸に・・・心の中に・・・ご両親はちゃんと生きてる。だから、今は悲しくても、また歩き出すのよ?そうして、また未来で・・・あんたに会えるのを楽しみにしてるから!」
「・・・ソフィー!?」
「あんたは、その時まで、今日のことは忘れるの。いい?あたしのことは、忘れるのよ?あんたは、ペンステモン先生の弟子になったのよ。今日までの記憶は・・・あたしが持って帰るから。」
「いやだっ・・・!」
碧の瞳から・・・大粒の涙を零しながら、次第に浮かび上がるソフィーにしがみ付くハウルに、ソフィーはそっと唇を重ねた。
「大好きよ、ハウル。あんたが悲しんでいる時に、もっと側に居てあげたかった。」
でも、もう時間ね。
「ソフィー・・・!」
光りに包まれたソフィーは、ゆっくりと瞳を閉じた。
必死に手を伸ばすハウエルと、柔らかに微笑むペンステモン夫人が視界から消えた。
「ソフィー!」
体中に生暖かい感触を感じて、ソフィーは目を開けた。
痛いほどに抱きしめられ、ソフィーはぼんやりと、悪魔の腕の中に落ちたのね、と呟いた。
「なんてことを言うんだろう!?聞いたかい?マイケル!これが愛しい旦那様に向かって言う台詞だと思う!?」
息も切れ切れに話すその声は・・・。
ソフィーははっとして目を開けた。
飛び込んできたのは・・・ハウエルより長い黒い髪。
そして血に染まった、ソフィーの伴侶で大魔法使いの・・・
「ハウル!」
腕に力を込めて、ソフィーはハウルを抱きしめた。ふらりとハウルの足元が揺れ、誰かが後ろから支えた。
「あんたなんで!?この血は!?どうしたっていうのよ!?」
ソフィーはハウルの頬や首筋、そして抱きとめてくれている腕に無数の切り傷があることに気がつき、慌てて腕から飛び降りた。
「なんでじゃないだろう?どうしてこう、ぼくの奥さんは無鉄砲なんだろう!あんたが、禁忌を犯してまで・・・過去に行きたいって言うから!」
ハウルは言って、ソフィーを強く抱きしめた。
「あんたがっ・・・・!ソフィー!ソフィー!ソフィー!」
「この馬鹿二人は、禁忌を自分たちで被ったんだよ。あんたが過去に行くことに気づいたんだ。」
頭上から、そういいながらも涙声の・・・火の悪魔の声が響く。
二人?
「そういえば、ペンステモン先生も言ってたわ」
ソフィーはハウルの後ろで苦笑する、同じく傷だらけのサリマンに目を向けた。
「・・・不思議だったんだよ。禁忌だ、危険だと言うわりに・・・やけに何度も時空の開き方を教えてくれた・・・ペンステモン先生がね・・・」
サリマンは額の傷から流れる血をぐいっと拭うと、心底ほっとした顔で微笑んだ。
「王室付き魔法使いが、禁忌を破ったなんて・・・バレたら一大事だな。」
「よかった!一時はどうなることかと思いましたよ!ソフィーさん・・・!」
マイケルの声にソフィーはようやく、辺りを見回した。
そこは見慣れた城の中で、暖炉の前の床に大きな魔方陣が描かれて、その中心にハウルとソフィー、そしてサリマンが立っていたのだ。
部屋の中は・・・恐ろしく汚れている。寝ずに探してくれたのだろう。あちこち散らかって、酷い有様だった。
きつく抱きしめられた腕の中から、涙を堪えるマイケルの腕を見つめると、すやすやと眠るモーガンが居てソフィーは体中の緊張が一気に解けていくのを感じた。
「・・・あんた、他はなんともない?もう、こんなに傷だらけになって。」
モーガンを早く抱きしめたかったけど、今はハウルの腕の中で安らいで居たかった。
久しぶりの、大きなハウル。
あたし・・・あんたを守れたの?
「・・・本当に、ぼくがっ・・・っどれくらい心配したか・・・!」
ハウルは抱えきれないくらいの想いで胸が張り裂けてしまいそうだった。
ソフィーの髪に顔を埋めると涙を流した。
「あんたがっ・・・ぼくに・・・未来をくれてたなんて・・・!」
今まで封印されていた記憶が戻り、ハウルは苦しくて愛しくて、ソフィーの両手を握り締め口付けた。
もう、二度とあんたの手を離さない。
あんたはぼくの過去も未来も守ってくれた。
ぼくは、あんたのこれからを全身全霊をかけて守ろう。
あんたは、ぼくの・・・守るべき人。
end