魔女の呪い  ― 1 ―






「ねえ、マイケル。これなにかしら?」

花を入れるバケツがほとんど空になり、後片付けをしていたソフィーはバケツの下に黒い封筒を見つけて手にとる。

珍しい花が手に入るというジェンキンス生花店は、昼を少し過ぎた頃になると、こうして店先の商品がなくなってしまうことはよくあった。

いつものように手早く掃除を始めたこの店の女主人は、見慣れない黒い封筒をひとしきり眺め、一緒に店番をしてくれる彼女の夫の弟子に差し出した。

「宛て先は・・・がやがや町・・・ソフィー・ハッター嬢と書いてありますね」
マイケルは封筒を受け取り裏返して見る。
「差出人は・・・書かれていませんね」

封筒は上等な本の表紙のように分厚く、不思議な文字でしっかりと封がされていた。
なにやら不思議な封の仕方である。文字が意思を持って押さえ込むかのようであった。

マイケルはうーんとうなる。
「呪文?」ソフィーも覗き込む。

この差出人はソフィーが結婚して<ジェンキンス>となったことを知らないようだ。

「魔力は感じませんが・・・」ハウルさんが帰るまで触らずに居ましょう。
マイケルが眉を顰めて言う目の前で、ソフィーはほとんど霞んで読めなくなっている呪文らしきもののくだりを指で辿って読み始めていた。

「星たちの瞬き・深く根をはる木々・・・」

ぴりっと小さな稲光のようなものがソフィーの指先に走ったのを、マイケルは目ざとく見つけ「ソフィーさんっ!」と咎めるような声をあげた。
しかし、ソフィーは最近学び始めた古い呪いの言葉を読み解くのに必死で、マイケルの呼びかけの必死さを感じ取れなかった。
「・・・年輪の刻まれた根幹・・・?ねえマイケル、あたしには、なんのことかわからな――・・・」

パンッ!!!

「っ!!」
「ソフィーさんっ!!」

黒い封筒からソフィーを引き剥がそうと、マイケルが手を伸ばすより一瞬早く、禍々しい黒い光りが一面に放たれ、その中心ともいえる強い光が、封筒からソフィーに向かいまっすぐにソフィーを貫いた。

「あっ・・・!」
「ソフィーさんっ!」

意識が遠ざかる前、ソフィーはまた厄介なことを引き起こしたらしいことを悟る。

――あぁハウルごめん・・・・!

・・・それは、ほんの一瞬、あっという間の出来事だった。





「これは荒地の魔女の呪いだね」

ベットに横たわる新妻から、視線を黒い封筒に移しながら魔法使いはため息をついた。

「悪魔の封書だな。でも、なんで効いちまったんだろ?魔女も悪魔ももういないのに!」
カルシファーも暖炉から抜け出してきてソフィーを覗き込む。

つくづく呪いを受ける運命なんだから・・・と悪態をつきながらも、心配な様子だ。
マイケルはおろおろしながら「僕が一緒にいたのに・・・すみません!」と涙ぐむ。
ハウルは気落ちしているマイケルの肩をぽんぽんとたたき「マイケル、君のせいじゃないさ」と苦笑する。

「封を破ったのは・・・ソフィー自身だよ。」ハウルがそう言うとカルシファーが「またやっちまったな!」と舌打ちする。

「そのようだね・・・まったく荒地の魔女はしつこいんだから。どこまでも僕を苦しめたいわけだ。
・・・でもさ、よりによって自分への呪いに自分で力を与えちゃうなんて!ソフィーのお人よしも度を超してるよ!」
ハウルは半ばヤケクソになって笑う。
「これは<忘却の呪い>だな?」
カルシファーはハウルに尋ねる。
「うん。まあ、呪いはほとんどここに残っているんだけどね」
ハウルは封筒をひらひらとつまみ、放り投げる。
落ちてくる紙に手のひらを向け何か呟くと、ぼうっと炎が封筒を包む。
「カルシファーが食あたりしちゃあ悪いからね」ハウルは立ち上がり「問題はソフィーが呪いをかけたってことさ」と天を仰いだ。
最悪のシナリオが選択されないように、と、ハウルは溜め息を零した。




丸一日、ソフィーは眠り続け・・・目を覚ました時には、この奇妙な生活をすべて忘れていた。
自分が魔法使いハウルの妻であることも。




まあ、予想されていた事態とはいえ・・・
「レティーを呼んでおいて正解だったな〜」
暖炉から身を乗り出し、パニックを起こしているソフィーに今までの経緯をゆっくりとレティーとマイケルが話すのを、カルシファー・ハウル・サリマンは見つめていた。

ソフィーは時折、脅えた表情でハウルを見たりカルシファーを見ている。

――あれじゃぁ、初めて会ったときにのソフィーのようだ。

「でもさ、なんでソフィーに忘却の呪文なんてかけようとしたんだろうな?」

パチパチと乾いた薪を抱え込み、カルシファーはハウルに尋ねる。

「魔女はソフィーの力を恐れたのさ。自分の計画を台無しにするって。歳を取らせるだけじゃ不安になったんじゃないかな。僕の弱点になることもね。結界のせいで今まで入りこめなかったんじゃない?」
ハウルは苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
「無意識に魔力を使っているみたいだね」
サリマンは大きく溜め息をつくハウルのとなりに並び、ソフィーに視線を向けた。

「彼女の魔法は強力だから・・・新婚さんにはつらいな」


「この城へ来た理由や魔法使いハウルは噂で聞いたような人ではないことは、なんとなく、わかったわ」
半日かけて説明を続けていたレティーとマイケルは、ほっと息をつく。
何だかんだ言ったところで、ソフィーである。
どんな困難も受け入れて、前向きに考えて生きようとするのだ。
不安そうではあったが、この不思議な城での生活に好奇心でいっぱいの様子だ。

長女のあたしが、なんて思いもよらない運命を選んでいるのかしら?

「でも・・・あたし・・呪いが解けたのにこちらでお世話になってるのね?何故かしら?」
レティーとマイケル、落ち着いたのを見計らってそばまで来ていたカルシファーは、一瞬息を止め互いに視線を交わし
――哀れみの表情をハウルに向け――笑い出した。
ソフィーは頭に????を増やすばかりで・・・

「あは、そうよね。忘れてしまった姉さんにとったら、不思議よね?姉さんとハウルは・・・」
「花屋を手伝ってもらっていたんだよ。女の子がいると、お客さんが安心するからね」
いつのまに近くに来ていたのか、ハウルはレティーの口元を優雅に手のひらで覆い、華やかな笑顔をソフィーに向ける。
「義兄さん!」
なんで本当の事を言わないの?
そうレティーが言いかけると今度はサリマンがレティーの肩をそっと掴む。
「混乱させて、ますます呪いを強固なものにしないようにだよ」

――君のお姉さんは知らずに魔法を使うからね。

カルシファーはハウルの周りを飛びながら可笑しそうに言う。

「いじっぱり!忘れられたのが悔しいんだ!」



「それじゃあ、姉さん。私帰るけど大丈夫?」
レティーは何度もソフィーの手をとり訊ねる。
今日は一緒に居てあげたい、とレティーはソフィーをサリマンの館に連れて行くと言い張ったのだが、
ソフィーは何故かこの城を離れるのが不安だった。

なんて言うか・・・留守にしたら、取り返しのつかない事になりそうで。

そう考える自分が不思議で仕方ないのだが・・・

「悩んでいても仕方ないし、わからないことはマイケルさんや、カルシファーさん、それにハウルさんに聞くから。
あなたも忙しかったでしょうに、ありがとう。ええっと、サリマンさん?忘れてしまって申し訳ありません。
妹を宜しくお願いします。」

二人が帰った後、早速ソフィーは腕まくりをして夕食のしたくをしようと流しへむかう。
マイケルが慌てて「今日はゆっくりしていてください!」と静止する。
「じっとしているのは苦手みたいなの。ご存知なんじゃない?働いていたほうが思い出せそうな気がするの」
「記憶を無くしても、ソフィーはソフィーだな」
カルシファーが可笑しそうにパチパチと音をたててハウルをちらりと見る。
ハウルは肩をすくめて階段を上り分厚い書物を手にして降りてくると、暖炉の前の肘掛椅子に座った。

作業台の上で玉ねぎを切りながら、ソフィーは頭の中の整理をしようと試みる。

――荒地の魔女に90歳のおばあちゃんにされてここに来て・・・
カルシファーは火の悪魔(!) でこの城を動かしていて・・・悪魔とはいえ、いろんなことを手伝ってくれるのよね?
・・・マイケルは魔法使いハウルの弟子・・・感じのいい子よね・・・そして・・・−

ソフィーはハウルをそっと盗み見る。
インガリー1の魔法使いと言われる・・・派手な衣装さえ霞んでしまうほどの美しいハウル。

荒地の魔女を一緒に倒したなんてちょっと信じられない・・・。

ハウルその人はひどく沈んだように見える。
憂いを含んだ碧眼が、カルシファーに照らされ揺れている。まるで涙を湛えているように・・・

「ああ!大事な事を言い忘れていました!」

マイケルが突然言ったので、ソフィーは自分がハウルに釘づけになっていたことに驚き、慌てて視線を逸らす。
「ソフィーさんのもう一人の妹・・・マーサのことですが・・・」
マイケルは真っ赤になり、しどろもどろになりながら、切った玉ねぎをボールに移しながら言う。
「マーサと、あの・・・その、僕お付き合いしています。覚えていらっしゃらないでしょう?」
ソフィーはフライパンを手にしながら、その下のカルシファーに呟く。
「あたしの忘れていることって、他に何があるの???」
カルシファーはフライパンの下からくぐもった声で可笑しそうに言った。

「早く思い出さないと、城中みどりのねばねばでいっぱいになっちまうぜ!」







        2へ続く