消えない刻印
まっすぐに伸ばされた背筋は、しかし、触れたら折れてしまいそうなほど頼りなくはかなげに見えた。
この小さな肩にはどれほどの十字架を背負っているのだろう?それなのに、私はこの女性(ひと)にもっと多くの苦しみを与えようとしている。
わかっていて、それでも、言わずにいられなかった。
「私では、君の胸に抱えるものを支えることはできないのだろうか?」苦しげな男の呟きに、金の髪を震わせて女は首を横に振った。
「あなたには決してお話できません。」
彼は知っていた。彼女が何故それほどまでに頑なに自分を拒むのかを。
――しかしそれを明かしてはいけない。私の思いを同情だなんて言われたくはない!私をいつも守ってくれた小さな背中。その背中にある・・火傷の痕・・・
つっと、まだ誰も触れたことのない背中に指を這わせた。
「っ・・・」
びくりと細いからだが強張る。いつもは冷静な彼女だったが、羞恥心からかうなじまで真っ赤に染まり「やめてください」と普段なら凛としたよく通る声も震えて小さな囁きになっていた。
「怖がる必要はない。私は・・・そんなに酷い男ではないよ。わかっているだろう?」
男の言葉に微かに首を横に振り、小さな声で「いいえ」と彼女は果敢に抵抗を試みた。「あなたは・・・酷い人です。私が・・・触れて欲しくないことを知っていて、触れてくるのですから」
見られたくない、この男にだけは、あの酷い火傷の痕を見られたくなかった。
――愛しているから。誰よりも焦がれて、この男の為なら命を捨てても構わないと思うほどに。
そして彼女は実際に行動したのだ。
男を助けるために身を焼かれたのだ。
だけど、それを負い目になど感じないで欲しい。醜く引き攣れた痕を見せたくない。
彼女は唇をかみ締め、溢れる涙を目をしばたいて堪えた。
体中がたった一人の愛しい人に向かって傾いでいくのを感じていた。
――いけない!もうこれ以上、傍にいることはできない・・・!
彼女の悲壮な想いは、震えるつま先だけが知っている。しかし意思とは反し、立ち去ることはできなかった。
男の手は纏め上げられた髪に伸び、パチンと音をさせてバレッタを外した。さらさらと白い肌に金色のカーテンが下りる。
「お願いです。もう帰らせてください。私は・・・あなたの」
「君は、わかっていないのだ・・・・私が、どれほど、君に触れたくて、私自身を抑えていたのか」
呻くように言った男の声は、ひどく掠れて低い声だった。
男は腕を伸ばし、まだ抵抗する彼女を後ろから抱きしめた。
萎縮した身体から甘い香りが放たれて、私はその香りに頭の中にあった最後の自制心が砕かれるのを感じた。
優しさを忘れたように彼女を腕の中で振り向かせ、その薔薇色の唇に自らの唇を重ねた。
やわらかく瑞々しい唇は彼女の意思を示すように固く引き結ばれ、彼を拒絶した。男は泣きたくなるような焦燥感が胸の中に湧き上がり、隙間を作ることを許さないとばかりに腰を引き寄せた。
「やめて・・・」
イヤイヤと頭を横に振って彼女は男の唇から逃れ、非難を込めた瞳で見上げた。
瞳に映る己の姿を男はじっと見据えた。飢えた狼のように目をギラつかせ、決して逃さないと射すくめる瞳が彼女を見下ろしていた。
男は誰も愛したことがなかった。なのに何故、このたった一人の女性に、全て揺るがされてしまうのかわからなかった。多くの女に囲まれていたが、自らの命を差し出してまで男を守ったものはただ一人だ。そして、それをひた隠しにして・・・。
――ああ、私は激しく突き動かされ、ただ求めるだけ。自分でも恐ろしくなるくらいに。
腕の中の、ただ一人、この世で唯一全てが欲しいと願う女性。その心は一生私の方をむくことがない。ならば――
「私は、君の全てを奪う。」
そう宣言して、男は再び深く口付けた。そして逃げられないように壁に背を押し付けると、唇を合わせたまま型遅れの首を覆う高い襟のドレスのボタンを性急に外していった。女は何度も腕を叩き、男の胸を押してもがいた。
駄目よ、見られるわけにはいかないの・・・!
しかし、その願いは叶えられず、なんとか食い止めようとする腕によって胸の前で留まっているドレスを引き下ろすと、男は首筋に口付け、指先で彼女の背中に触れた。指先は滑らかな絹のような肌触りを楽しみ、やがて痛々しいまでの火傷の痕に辿り着いた。「いやっ」小さく吐き出された言葉を無視して、男はゆっくりと背中に向かってキスを落としていく。
いつの間にか背後に回った男がゆっくりと火傷の痕に口づけていることを知って、女は背筋を駆け上がる熱に身体を震わせた。ゆっくりと口付けたまま、ついに男は豊かな双胸に手を這わせドレスを完全に床に落とした――。
「・・・大佐?」
ホークアイ中尉の声に、私ははっとして手にしていた本を勢いよく閉じて視線をあげた。
振り返ると小首を傾げた中尉が「どうかされましたか?」と訊ねてくる。私は内心のどたばた騒ぎを隠すように「いや?」と短く答えて、テーブルの上のコーヒーに手を伸ばした。
珍しく非番が重なったらしく、これからハボックのところへ見舞いに行くという彼女に誘われて、コーヒーショップに入った。
化粧室に立った彼女の紙袋から床に転がり落ちたものを拾い上げると、それは一冊の小説だった。
(中尉が読書、ねえ)
いや、読書そのものはするだろう。私が驚いたのは、その小説が『ロマンス小説』と呼ばれるものだったことだ。あの中尉が、ロマンス小説を読んでいるなんて意外だな。とても興味を引かれ・・・そのまま悪戯心で小説をペラペラとめくった。
たいして気にもせずに開いたページ。それはなにやらただならぬ雰囲気を醸し出している場面で・・・・思わず読みふけってしまっていた。
心臓に悪い。ロマンス小説という類を初めて読んだわけだが、ある意味、グラビア雑誌よりエロティックであると思い、それを中尉が読んでいると思うと真っ赤になった。
「大佐、コーヒーはすでに空ですが?」
「あ、ああああーそうだった。は、はははは」
「何がそんなにおかしいんです?」
中尉は私の向かいに腰掛けると、不思議そうに私を見つめた。
そうされると、何故かますます落ち着かなくなり、私はまた空っぽのコーヒーカップを持ち上げようとして慌ててソーサーに戻した。
「・・・なにかあったのですか?」
私の挙動不審な様子に、中尉は声を潜めてあたりにさり気なく注意を払う。
私はコホンと小さく咳払いして「そうではないよ」となんとか口端をあげて笑おうとした。
「では、どうされたんですか?私たちが居なくなって、寂しくて腑抜けてしまったなんて言わないでください?」
「相変わらず手厳しいね。」
私が苦笑すると「それ・・・」と中尉は私の手の中にあるロマンス小説を指差した。
「面白かったですか?」
「え?いや・・・ちらりと見ただけだから・・・」
しどろもどろになる私に、中尉は首を傾げ、すぐに背筋をぴんと伸ばしコーヒーを口に運んだ。
私は「意外だね、君がこんな小説を読むなんて」と笑って見せた。「君はこの手の話はなんとなく・・・苦手なような気がしてたんだが・・・」
勝手に見てしまってすまない、と頭を下げて小説を中尉のほうに差し出すと、彼女はまた不思議そうに首を捻った。
「これ、私のではありませんよ?」
小説を手にした中尉は「忙しくて、小説読んでる時間はありませんよ」と苦笑した。
「では、これは?」
「それ、ブレダ少尉から預かったんです。ハボック少尉に渡してくれって。」
「ブレダ少尉ぃ!?」
思わず、ついていた肘がずるりと滑った。
な、なんだ、中尉の本じゃなかったのか・・・いや、まあ、そうだよなあ、あんまり好きそうじゃない・・・なあ。
「で、どんな内容なんです?『消えない刻印』・・・ハードボイルドですか?」
私は背表紙を眺めて、そのタイトルを呟いた。「『消えない刻印』・・・ね・・・意味深なタイトルだよ、まったく・・・」
「?」
「まあなんというか・・・ある意味ハードボイルドよりスリリングなのかもしれないね。」
「そうなんですか??・・・そろそろ私は少尉のところへ行きますけど・・・大佐は・・・」
「いや、私は遠慮しておくよ。『追いかけてこい』なんて言っておいて、まだちっとも先に行けていないからね。」
知らず浮かぶ自嘲的な笑みに、彼女もまた見慣れてしまった困ったような笑顔で頷いた。
「ハボックによろしく。では、支払いはしておくから」
私はそう言って、先に店を後にした。
リザは目の前に残された本を手に取り、ページを開いて呟いた。
「このくらいで赤くなってるようじゃ・・・まだまだ甘いですね・・・大佐」
くすりと笑ったその瞳は、彼の後姿を愛しそうに見つめていた。
2007/12/18
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