囁きの聞こえる距離
「秋山さんっ!」
部屋のドアの前に屈んでいた小さな人影が、大きな声を出して立ち上がった。
日雇いの仕事で疲れていた俺は、思わずがくっと肩を落とす。
神崎 直、だ。
彼女はぱあっと笑顔を見せ、回りも気にせず「おかえりなさい!」と大きな声を出している。
俺は片手で額を押さえ、「はあ」と一つ溜め息を吐いた。
「あのね、」
「お仕事、お疲れ様です。」
「もう、夜だけど・・・」
「ホント、遅かったですね。待ちくたびれちゃいました。」
「あー・・・うん、悪い。」
何で謝らなくちゃいけないのかわからなかったけど、彼女の、えへへと恥ずかしそうに笑う顔を見て思わず言った。
手にはスーパーの大きなビニール袋。
「・・・なんかあった?」
鍵を開けてドアを開ける。
籠っていた熱が一斉に出口を求め吐きだされる。
そのまま、中に入らずにドアに寄りかかり、彼女に尋ねる。
答えはわかっていたけど、誰彼構わず、彼女がこんなことしてるわけじゃないってわかってるけど、やっぱりこれってよくないんじゃないか?
「あ、コレ!秋山さんにご飯作りに来ました。」
「なんで?」
「え、だって、まだお礼してないじゃないですか。」
「いや、あれはもう・・・」
「ダメですよ、あれからもイロイロとお世話になってるのに、ご飯くらい作らせてください。」
――悪意のない笑顔。
「だからって、こんな夜に・・・」
「秋山さん、いくら電話しても出てくれないから・・・だから来ちゃいました。」
他意のない笑顔――。
だから、タチが悪い。
俺には下心なんて芽生えないと思ってるのか?
「入れてもらえますか?」
考え込んでいる俺に、小首を傾げて見せる。
「だ〜いじょうぶですよっ、本当に、私これでも自炊歴長いんですから!」
言って、彼女は靴を脱いで部屋に上がりこんだ。
「お邪魔します、あ、秋山さんはくつろいででくださいね。すぐにできますから〜。」
「夜にオトコの家に上がり込んじゃダメって、言われなかったの?」
「え?なんですか?」
まな板しか置けないような狭い台所にビニール袋を乗せ、トマトやきゅうりを出し始めた。
無防備というか、何というか・・・。
複雑な気持ちになる。
「今日は暑いですから、冷やし中華でも作ろうかなって。」
言いながら、鍋を覗き込んでさっと洗い流している。
男の一人暮らしなんて、小さな片手鍋があれば充分だから、それしかないけれど。
「冷やし中華って・・・料理が上手いとか下手とかあんまり関係ないんじゃ・・・」
「待っててくださいね!」
包丁を見つけて、彼女は笑顔で振り返った。
「随分信用されてるなー、俺。」
漏れた言葉に苦笑して、干したままのタオルを外して浴室に向かう。
「汗流してくる」
「はい!その間に作っておきますね」
その笑顔が、罪作りな笑顔だって、知らないんだろうな・・・。
シャワーを浴びて出てくると、彼女は鼻歌を歌いながら、テーブルを拭いているところだった。
「あ、秋山さん」
飲み物くらいしか入らない小さな冷蔵庫を開け、「はい、これ」と冷えたビールの缶を取り出した。流しに伏せてあったコップを持ってくると、コトンと置く。
普段コップなんて使わずにそのまま飲むから、バスタオルで髪を拭きながら、なんとなく所在無く(俺のアパートだってぇの)立ったまま、彼女が注ぐビールを眺めた。
彼女は俺をまじまじと見つめ、急に頬を赤くした。
「どうした?」
「な、なんでもないです。」
そんな後姿に、思わず笑ってしまった。
多分、男の裸なんて、見慣れてないんだろう。
「欲情した?」
「し、しませんっ。」
真っ赤になって立ち上がった彼女は、「ちょうどできたので、食べましょう」と言って背を向けた。
「はいはい」
俺が、くくくっと笑い続けていると、彼女は「秋山さんっ」とまだ頬を染めている。
こんなくらいで赤くなるくせに、男の部屋にあがりこんじゃダメだろう、と思いながら、俺はTシャツを頭から被った。
食べながら、神崎 直は父親の話やバイト先の話をして、始終笑顔を絶やさない。
身振り手ぶりを交えて、一人百面相をしながら――ほとんどがドジな話だったけど――話した。
大学も休みに入り、父親の所へ行く時間も増えているようで、ホスピスの話が多い。
「それで、またコウタくんに悪戯されちゃったんですよ」
それでも、彼女の顔から笑みは消えない。
「ふーん、相変わらず騙されてるんだ。」
「はいっ」
厭味も、彼女には半分くらいしか伝わらない。
彼女の声は明るくて、優しくて。
呆れたりしながら訊いていても、確実に心地よくなっていく。
そろそろ送っていかなくちゃ、と思いながら体が心地よく沈んでいく。
瞼が、彼女の声にあわせて、少しずつ降りてくる。
次第に彼女の声が遠くなる。
一日中炎天下に居たからな・・・・・。
「秋山さん?」
壁に寄りかかるようにして相槌を打っていた秋山さんから、静かな寝息が聞こえてきて、私は時計を見て苦笑した。
「あ、もうこんな時間」
日付が変わろうとしている。
「疲れてるのに、付き合せちゃった」
秋山さんといると妙に緊張していたのに、なんでかな、最近は凄く落ち着いてしまう。
面倒くさそうに、「馬鹿だな」なんて呆れたように言っても、秋山さんはちゃんと受け止めてくれるってわかったから、秋山さんと話をしていると時間があっという間だ。
器用な格好で寝ている秋山さんを起こさないように、食器を洗って片付けた。
そろそろと近づいて、顔を覗き込んでみる。
「元天才詐欺師も、寝顔は可愛い。」
ふふふと笑って、頬を突付いてみた。
こんな風に、私の前で眠ったことなどなかったから、私はなんだか嬉しくなった。
「少しは、信用してくれてるのかな?」
そして少し考えて、そっと頬にキスをした。
「秋山さん、いつもありがとう」
小さな声で囁くと、ぴくりと体が強張って、私は慌てて秋山さんから離れた。
「・・・あ、悪い、寝ちゃってた?」
「おやすみなさい」
また顔が赤くなってるってイヤと言うほど感じていたから、私はバックを掴んで飛び出した。
閉めたドアに寄りかかって深呼吸していると、ドアの向こうでくすくすと笑う声が聞こえて、飛びのいた。
秋山さんが顔を出して、笑いながら「送ってく」と言った。
先に歩き出した秋山さんの背中がとても優しかったから。
「はい」
バックを後ろ手に握り締め、秋山さんを追いかけた。
――夏の夜の出来事。
2007,7,10
少しだけ甘い二人。