河村花不言の略歴


 本名 河村米吉
 明治24年(1891年)1月15日 石川県鳳至郡能都町宇出津に生まれる。
  米屋を営みながら、「藻潮吟社」を創設し、句作を続ける。
  大正元年(1912年)季題の廃止と自由律を提唱した荻原井泉水の俳風に賛同し、
 層雲に入門する。層雲第二句集「生命の木」に入選。
 大正7年、高岡市の木津樓で行われた北陸層雲大会で初めて荻原井泉水と出会う。
 昭和22年(1947年)5月27日、57歳で逝去した。
  昭和45年9月、師匠萩原井泉水先生が北陸漫遊の折、愛弟子の墓参に立ち寄る。
 当時、先生は87歳の高齢であったが夫人同伴で、花不言の遺児河村槇太郎宅を
ご訪問された。以下、昭和45年10月6日発行の「層雲」に記された「能登三日」
から、花不言に関する旅行記を転載する。

 自動車は、国鉄の線路に沿うて走り、海にでたところ、小木の九十九湾であった。この日は、そこに
宿をとっておいたのである。宿に着くと直ぐ刺を通じてきた者が、故河村花不言の遺児槇太郎、前能都町
中央公民館長小林篤二との二人である。もっとも前もって打ち合わせてあったことで、私が小木に宿を
とったのも花不言の墓参をしてやりたいからである。
 花不言は、今から二十三年の昔、亡くなっている。だが、花不言の面影を私は忘れていない。層雲
六十年俳句作家として傑出した人が数多くある。俳句人として人間的に「如何にも好い人だった」と
言うべき人は甚だ少ない。花不言はその甚だ少ない人の一人である。
   孔子は「詩百篇、一言以テ之ヲ蔽ヘバ思イ邪ナシ」と言っている。芭蕉は俳諧の精神は
「誠の一字にある」と言っている。その人が誠の人だからというだけで、その作品が生きるというのでは
ないが、詩・俳句のごとき短文学においては、なんとしても作者の人間的心境の裏付けが必要である。
新しい・古い・上手・下手というよりも、其の句を通じて、作者の人柄の分かる句、この人にして
此の句ができるのだという、そういう人を誉めていい。
 花不言が層雲に入門したのは大正元年(1912年)である。層雲第二句集「生命の木」に入選して
いる。「層雲作品選ー第一」には、

 
   大声あげてあら海を漕ぐ小舟なり
  舟脚ふかき舵に夕べさざなみ
  よごれしわが姿こそ人に親しまれ
  杖をひろうてすでにけわしき山の道
   二つにひらいた岩から小百合がさいた
  舟、病人を受けとりに来た
  貧しかりしヂヂババのこれが水甕

 「貧しかりしヂヂババ」の残した水甕と共に、古い家を継いで来た彼であるが、彼の時代には貧しい
ことはなく、宇出津で米屋を業としていたと聞く。本名は米吉であるが、私がはじめて彼に会ったのは、
高岡市の木津樓で北陸層雲大会のあった大正七年。新傾向俳句に対して、層雲自由律が発祥したとて、
これを是とする者、非とする者、議論が沸騰して侃々諤々とした雰囲気の中に、ひとり黙然として端座、
ただ微笑している男がいた。あの男は能登の花不言ではないかと、私がフト感じた通り、それが能登の
彼だったのである。その後、私が奥の細道の跡をたずねて北陸を歩いた大正15年、石動から倶利伽羅峠
を越えた時、彼は同行した。暑い日だった。私も若かったが、嶮しい峠を上りきると、津幡で乗る列車の
時刻まで余裕がないために、下りは駈け脚というか、いや、脚が自然にバネになるような足取りで、
汗びっしょりになった。列車には幸い間に合って、駅で別れたのが彼と会った最後だったと思う。
 花不言の息・槇太郎が花不言の遺物の手帳や私が彼に書いて与えたものなどを見せるのだった。
彼の詩を私が書いたものもある。


  木の芽を歓ぶの詩  
    
    鶏が鳴いたらお日様が笑った
  それで、木と木が
  もうよいころほいと
  掌のような、芽を見せた

    これは多分、層雲に載せたものだろう。数行に分けて書けば詩、一行につけて書けば俳句なのである。
 「層雲作品集ー第二」には、彼の句はもうない。彼は脳溢血を病み、命はとりとめたが、身体が不自由
  となると共に、詩心も衰えたらしい。彼が病床で読んでいたらしい佐藤春夫詩集の見返しに
  
  書くに字が書かれず、この年蜜柑をむ
  憤るこの世の中、雪にうもれていく

と、辛うじて読めるように書かれている。晩年の彼の気持ちは分かる。

 第二の話 花不言が没して二十年近くになった頃、金沢大学教育学部の藤田福夫教授から手紙を貰って
「宇出津に河村花不言という俳人がいた筈、その業績を調べたい」との事に驚き「自分ははじめて花不言
の名を知った」と篤二が言う。土地でも、花不言が詩人であったことを知る者は極少なく、ただ米屋の
好人物のオジサンとしての存在だったのである。遼一、晴生は共に七尾へ帰る。充一父子は輪島へ帰る。
宇出津の槇太郎・篤二も、さらに、明日の朝を約束して帰る。
 小木の港は、九十九湾の一つ、花不言の宇出津の港も九十九湾と同様に、溺れ谷の入江であるが、陸か
ら見れば一つ一つ個性のある湾だ。それぞれの湾の奥に部落があって、船泊まりを主とした入り江で漁業
を主としたものである。宇出津は漁業や商港として発達したところ。小木は遠洋漁業の基地と昭和30年
以後に観光ブームと共に旅館が新築されたところらしい。
 小木の港と九十九湾は、深く入り込んで水を湛えている。宿の二階からは、港に泊まる船の姿は見えな
い。日が暮れても窓下の港を通る船が一隻もない。港には盆石を置いたような小さな島が一つ(蓬莱島か)
深い青色の水に、さらに濃い緑の影を沈めている。緑髪のような松の木の翠影である。対岸にはなだらか
な丘陵の上に月が出ている。ほかに星がない。月は湾の水にくっきりと映っている。木星もまた映ってい
る。燈火の影かと見まがうようにー。

花不言の略歴