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7月31日(土)

 今から夫婦二人そろって初めての海外旅行に出発だ。10日間の日程、準備等あわただしくも今日の日を楽しみにしてきた。宝達発10時12分、「サンダーバード22号」、「はるか27号」を乗り継いで15時32分に関西空港に着く。
 4階出発ロビーに行き、託送したスーツケースを受け取る。便利なもので前日に自宅で宅配業者に荷物を預け、空港で出発前に受け取ることができる。帰国時も同様に荷物を預けると翌日自宅で受け取ることができる。そのあと16時10分、阪急交通社「トラピックス」のカウンターで受付をする。添乗員はKY
さんという。簡単な出国手続き等の説明を受け、「キャセイパシフィック航空の搭乗口から18時10分発のCX−0507便の香港行きに乗ってください、香港で団体メンバーが集合する」とのこと、初めての人にとっては不安を感じるような応対だ。関空で参加メンバー全員が集合して飛行機に乗るのかと思っていたが。まあ最近は、個人情報云々で一緒に旅行する人の名簿や自己紹介等も無い時代だからこんなもんか。ともかく関空でユーロとスイスフランに両替し、搭乗口へ向かう。(レート 1ユーロ=116.7円、 1スイスフラン=88.27円)
 18時10分、定刻でCX−0507便は関空を離陸、香港へ向かう。飛行時間約3時間50分、現地時間21時に到着。(時差−1時間)飛行機から見た香港の夜景はとてもきれいだった。ビデオに撮ったがうまく映っているかな。香港空港は、ハブ空港なので世界各国の飛行機が並んでいた。とても大きな空港だ。着陸してから到着ゲートに着くまで15分ぐらいランディングしていた。乗り継ぎのための待ち時間は、3時間ぐらい。免税店がたくさんあり、ウィンドウショッピングを楽しむ。ドイツで小銭が必要と思い、日本のドリンク「午後の紅茶」を買ったが、香港では輸入品になるからか3.5ユーロ(約400円)で高いのにびっくり。しかもおつりはユーロセントではなく香港ドルでくれたので、思惑外れだった。ドイツで使う小銭が欲しかったのに。
 23時50分、同じキャセイパシフィック航空のCX-0289便でドイツのフランクフルトへ向けて香港を飛び立つ。飛行予定時間は、12時間10分。合計16時間飛行機に乗ることになる。
                                                     機内泊
8月1日(日) 
 午前6時、フランクフルトに到着。(今、夏時間で日本との時差は−7時間)入国手続きは、簡単だった。日本人には、あまり厳しくないようだ。専用バスで72q先のネッカー川に開けた中世の古城都市ハイデルベルクに向かう。
 【ハイデルベルク】
 1386年に開校したドイツ最古の大学がある学生の街である。学生の頃読んだマイヤーフェルスター作の戯曲「アルトハイデルベルク」の舞台となった地だ。
 街並みはネッカー川沿いに広がり、旧市街の丘の上に立つハイデルベルク城は町のシンボルとなっている。プファルツ選帝候が住んだハイデルベルク城は14世紀から増改築を繰り返したため、ゴシックからバロックまで様々な建築様式が混在する。1618年の30年戦争とそれに続くプファルツ継承戦争で破壊された傷跡が一部残ったままである。
 ハイデルベルク城内のフリードリヒ館は、ルネッサンスとバロックの様式が混在し、外壁の装飾がとても美しい。22万1726リットルのワインの大樽も見所である。そばに毎日ワインを13リットルも飲んだという酒好きの見張りの人形が置いてありました。樽を一周するような階段があり、樽の上から下を眺めるとその樽の大きさが実感できます。
 城を後にし、ハイデルベルクの街を散策する。ネッカー川にかかるカール・テオドール橋に行く。1788年に建造された石組みの橋で、アルテ・ブリュッケ(古い橋)とも呼ばれる。旧市街地側には、2本の白い尖塔をもつ、ブリュッケ門がある。そこは軽い罪を犯した人を投獄する牢屋として使われたこともあるそうだ。橋を渡って向こう岸からは、ハイデルベルク城を背景にカール・テオドール橋を写真に収めることができるのだが、ちょうど市民マラソンを開催していて、通行止めになり向こう岸へ行くことができなかった。橋のたもとに猿の像がある。ドイツでは猿は「あほ」と見なされているそうだ。
 市街をゆっくりと散策、石畳の道が美しい。家々のベランダにはきれいな花が咲き乱れている。街の中心、マルクト広場のすぐ近くに聖霊教会があり、高さ82mの塔からは街が一望できる。
 【古城街道】
 ハイデルベルクからローテンブルクまで約164q、古城街道を走る。
 古城街道は、起点がマンハイムでドイツを横断して東西に延び、終点を国境を越えたチェコのプラハとする全長約975qの道である。街道沿いには要塞の役目を果たした重厚な城や装飾が美しい宮殿風の城など70以上の城が点在する。
 【ローテンブルク】
 ロマンチック街道と交差する人気の街、ローテンブルクを訪れる。ローテンブルクは、堅牢な石壁に囲まれた中世の街並みが残るきれいな街である。赤茶けたとんがり屋根のきれいな木組みの家々が立ち並ぶ。店先に吊られた鉄製の透かし彫りの飾り看板は、デザインによって何の店かがわかる。街の中心にあるマルクト広場は、石畳が美しい。広場に立つ市庁舎は、13世紀に建てられ、その後16世紀に火災で半分が消失。そのため広場に面した建物はルネッサンス様式で奥はゴシック様式となっている。マルクト広場では、吹奏楽の演奏が行われていた。市民や観光客が大勢、演奏を楽しんでいた。市議会員宴会館の壁には、「マイスタートゥルンク」の物語を再現するからくり時計がある。午後3時に動くというので、暑い日差しの中をブラスバンドの演奏を聴きながら待った。
 「マイスタートゥルンク」の物語:キリスト教の宗派が戦った30年戦争で、ローテンブルクは、ティリー将軍率いる旧教軍に占領された。将軍が市の参事会員を斬首しようとすると、市民はジョッキのワインを勧め、将軍を酔わせてしまう。ヌッシュ市長は、「私がジョッキに入ったワインを一気飲みできたら、命を救って欲しい」と提案。見事に飲み干し、街を戦火から救ったという史実である。
 2本の尖塔が目印の聖ヤコブ教会は、1311年より170年近い年月をかけて建造されたゴシック様式の教会である。主祭壇奥のステンドグラスが美しい。5000本以上のパイプを有するオルガン、リーメンシュナイダー作の彫刻、「最後の晩餐」が見事だ。
 街を守る石の壁は、10世紀に築かれた。現存する壁の大部分は12世紀に建てられたものだそうだ。壁の上に続く木造の通路から街の内側を一望できる。西側の壁には、矢を放つための小窓がある。
 【ロマンチック街道】
 ローテンブルクを後にし、今日の宿泊地フュッセンへとロマンチック街道を264q走る。
 ロマンチック街道は、ヴュルツブルクからフュッセンまで全長350qのドイツ南東部の田園地帯を南北に延びる道である。歴史の面影を残す煉瓦色の三角屋根や木組みの家々、緑の田園風景が美しい。
 フュッセンには、午後7時頃到着。夕食を食べた後、明日の目玉のノイシュバンシュタイン城のライトアップが見られるというので、夜10時過ぎに出かけた。暗闇に浮かぶ白亜の城は、幻想的で美しかった。ノイシュバンシュタイン城と向かい合うように立つホーエンシュヴァンガウ城も見ることができた。オレンジ色に輝くホーエンシュヴァンガウ城は、アルプ湖を見下ろす高台に立ち、ノイシュバンシュタイン城も遠望できる。12世紀の城の廃墟を王子だったマクシミリアン2世が発見し再建を決意した。ルートヴィヒ2世は幼少期をこの城で過ごした。
                   宿泊ホテル:ユーロパーク インターナショナル(ドイツ・フュッセン)
8月2日(月) 
午前8時10分、ホテルを出発、約5q先にある今度の旅行の目的であるノイシュバンシュタイン城へ向かう。
 【ノイシュバンシュタイン城】
 1869年、第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世の命で着工された標高1000mの崖に立つ未完の白亜の城である。若くして(19歳)王位に就いたルートヴィヒ2世は、中世の騎士が住むにふさわしい「夢の城」の建設を思い立ち、財政が破綻するほどの巨額の資金を投入して築城した豪華絢爛な城である。別名「新白鳥城」とも呼ばれる。城内には、ワーグナーのオペラや中世の騎士道物語をテーマとした、バロック、ゴシック、ルネッサンスなど、あらゆる建築様式を取り入れた豪華絢爛な空間が広がっている。王の築城熱が国家財政を逼迫したため、1886年6月12日、精神の病を理由に臣下によりベルク城に幽閉され、王位を剥奪される。その日の散歩の際に姿を消し、翌13日、付き添いの医師とともにベルク湖畔で謎の水死体で発見された。王の死によって城のすべての建築作業は中止された。
 ディズニーランドのシンデレラ城は、この城をモデルにしたといわれている。
 始めに城の裏にある吊り橋・マリエン橋から谷の向こうの崖に立つノイシュバンシュタイン城を眺めた。絶景の撮影ポイントである。崖の上にそびえる白亜の城、空の青さと木々の緑が目にまぶしい。
 マリエン橋から城の入り口まで風景を楽しみながら歩いていく。城の見学はガイドツアーのみで可、10時の予約時間まで写真を撮りながら待つ。城内は撮影禁止である。アーチを描く美しい丸天井の「控えの間」から見学開始。「玉座の間」は、幅の広い大理石の階段の先に玉座が置かれる予定だったが、王の死によって玉座は未完のままに終わった。重さ900sの豪華なシャンデリアは王の死後に完成し取り付けられた。城内で唯一ゴシック様式を用いた「寝室」、白鳥の形をしたマルヨカ焼の大きな花瓶のある「居間」、人工の鍾乳洞である「洞窟」、ルートヴィヒ2世のためだけの階段として造られた「階段の天井」、ワーグナーがオペラの題材にした「パルシファル」の伝説を描いた絵画で全体が覆われている「歌人の間」そして温水の出る給水設備、自動回転式のグリルなど当時としては最新の設備を持つ「調理場」を見学した。
 帰りは、城から馬車に乗り、駐車場へ向かう。ひとり3ユーロ、登りは倍の6ユーロ。他の団体の日本人の子ども達が、馬車の後を走ってついてきた。元気な子ども達だ。
 次の見学地は、約24q先の世界遺産「ヴィース教会」である。
 【ヴィース教会】
 フュッセン郊外ののどかな牧草地にたたずむヴィース教会は、素朴な外観で周囲の風景にとけ込んでいる。しかし内部はロココ様式の華やかな装飾に彩られている。主祭壇には「ヴィースの奇跡」のもとになる「鞭打たれるキリスト像」が置かれている。1730年の聖体行列のために作られた「鞭打たれるキリスト像」は、寄木造りで関節部は、亜麻布で覆って彩色されていた。
しかしながら、血と傷で覆われた姿の木像は、そのあまりの悲惨さのために、信者たちの同情をよんで用いられなくなり、屋根裏に置き忘れられた。1738年3月4日、その像を農婦マリヤ・ロリーが譲り受け、熱心に祈りを捧げた。すると6月14日の土曜の夕方と翌日曜の早朝に、木造の顔に涙のような雫が流れた。この「ヴィースの奇跡」が瞬く間に広がり、国の内外から多くの巡礼者が訪れるようになった。それまでの農場礼拝堂と木造の本堂では手狭になり、1743年、高名な建築家ツィンマーマン兄弟により新しい教会の建設が始まり、1754年に完成した。1983年、世界遺産に指定された。
 見学後、次はスイスのラウターブルンネンまでバスで約420qの移動。途中ちょこっとオーストリアを横切る。ラウターブルンネン駅には午後8時ごろに到着、列車に乗り換え約10分でウェンゲン駅に着く。8時半過ぎだが、まだ明るい。ウェンゲンの街は、きれいだ。
                                宿泊ホテル:レジーナ(スイス・ウェンゲン)

8月3日(火)
 旅行4日目、今日からスイスの観光だ。昨日ドイツのフュッセンからスイスのラウターブルンネンまで約450qのバスの移動の間、雨が降っていた。ラウターブルンネンからウェンゲン駅までの列車の車窓から見えた川の流れは激しく、土色に濁っていた。シュタウプバッハの滝の水も激しく落ちていた。ウェンゲンの街は、標高1275mである。
 今朝は、小雨が降っているが晴れることを祈る。8時45分、ユングフラウ鉄道の登山列車でクライネシャイデック駅(標高2061m)を経由し標高3454mのユングフラウヨッホへ向かう。クライネシャイデック駅を出るとまもなくトンネルに入りユングフラウヨッホへ。ユングフラウ登山鉄道は、16年の年月をかけて1912年に全線開通した。アイガーヴァント駅とアイスメーア駅で5分間停車するのでその間にアイガー北壁に造られた窓から切り立った崖を眺めることができるはずだったが、残念ながら濃いガスがかかりガラス窓の外は真っ白で何も見えなかった。内側のアイガー北壁を手でなでて、記念にかけらを少しとってきた。
 標高3571mにあるスフィンクス展望台には、地下から高速エレベーターに乗り、約26秒で到着する。西にユングフラウ、東にメンヒ、南にアレッチ氷河を見ることができるはずだったが、ガスがかかって360度真っ白け。何にも見えなかった。屋外バルコニーは、気温2or 3度ぐらいか。フェンスに雪が付いていた。
 展望台を降りて次はアイスパレス(氷の宮殿)へ。ペンギンやクマなどのかわいい彫刻が並んでいる。氷の通路を滑らないように注意して歩いた。手すりが設置してあったが、氷河が移動しているので手すりも何年かごとに付け替えるそうだ。以前の手すりの跡が残っていた。
 駅の土産物屋さんで買い物。横に富士山にある簡易郵便局との姉妹提携を記念した日本の赤いポストがある。切手を買って昨日のうちに書いておいた絵はがきを日本の家族親戚に宛てて送った。帰国までまだ6日あるので帰国前にたぶん到着するだろう。
 帰りは、標高2320mのアイガーグレッチャー駅で下車し、クライネシャイデック駅まで約2,5qのハイキングを楽しんだ。標高差259m、始めは小雨が降っていたが、次第に雲が切れ青空が顔を出してきた。足下に咲き乱れる色とりどりの高山植物の花を楽しみながら、山の空気を胸一杯吸う。カウベルを鳴らしながらのんびりと草を食べる牛たち、眼下遠くには赤い登山列車の停車するクライネシャイデック駅、振り返ると厳しくそそり立つアイガーの北壁などなど、緑と白と空の青さが目に染みる。黒い羊たちが花々の中を歩いている。約1時間30分のハイキングだった。クライネシャイデックの山上レストランで昼食をとり、再び登山列車でラウターブルンネンへ、そこからバスでインターラーケン(標高567m)へ行った。インターラーケンでは、1時間のフリータイム、のんびりと買い物を楽しんだり、散歩したりした。
 ウェンゲンへ戻り、街のレストランで夕食。食事中、街の教会でコンサートが開かれるので聞きに来てくださいと街のおばさんがチラシを配っていた。バロック音楽の演奏会、一人30スイスフランということなので行ってきた。およそ100人ぐらいの市民が演奏会を楽しんでいた。ホテルには10時過ぎに戻った。
                                宿泊ホテル:レジーナ(スイス・ウェンゲン)
8月4日(水)
 8時2分ウェンゲンから列車でラウターブルンネンへ、専用バスでカンデルシュテッグへ、カートレインでゴッペンシュタインへ、バスでテーシュへ、列車に乗り継いでツェルマットへ向かう。カンデルシュテッグからゴッペンシュタインまでのカートレインは、バスに乗ったまま列車に乗るものである。バスはサイドミラーを外し、ぎりぎりの幅の列車に乗客を乗せたまま乗る。うまく乗り終わったときは、みんな、運転手さんに拍手を送った。それほど狭いのである。乗用車なら余裕があるが。
 ツェルマット(標高1631m )の街は、ガソリン車乗り入れ禁止となっている。ここに来るには鉄道しかない。街を走るバス、タクシーなど自動車は、全部電気自動車である。駅前からマッターホルン(4478m)を眺めることができるとのことだが、残念ながら雲に隠れて見えない。しかし展望台(3130m)へ向かうゴルナグラート登山鉄道の車窓からはピラミッドのように尖ったマッターホルンを見ることができた。標高差1500mを約30分かけて一気に登っていく。線路脇をハイキングしている人も多数いた。マッターホルンやゴルナー氷河がとても雄大ですばらしかった。ゴルナグラート展望台からの大パノラマは、すばらしい。カストール(4226m)、ブライトホルン(4164m)、モンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)、そしてマッターホルンとアルプスの山々が連なっている。
 再び登山鉄道でツェルマット、テーシュへともどり、テーシュからバスで今日の宿泊先ジュネーブへ行く。距離にして約232q、レマン湖畔にある国際機構中枢の街に午後8時30分頃到着した。
                   宿泊ホテル:ベストウェスタンシャヴァンドゥボジズ(スイス・ジュネーブ)

8月5日(木)
 今日はほとんど移動日だ。フランスのモンサンミッシェルまで行く。午前7時30分にホテルを出発する。9時17分発のフランスの高速列車TGVに乗り、パリへ向かう。ジュネーブ中央駅(コルナヴァン駅)からパリまで約3時間30分かかる。ジュネーブの駅の構内でフランスへの入国となる。特に審査はなかったが、その一帯は監視カメラで監視されていて写真撮影はしないように言われた。ジュネーブの駅でトイレに入ったがドイツと同じで有料だ。50サンチーム支払うとおばさんが便座などをアルコール消毒してくれる。ドイツでは、スーパーのトイレも有料だが、買い物をするとその分値引いてくれた。
 12時49分パリのリヨン駅に到着、ここからモンサンミッシェルまで約400qある。途中にセーヌ川河口の港町、オンフルールに立ち寄る。フランス北西部にある小さな港町だが、かつて印象派の画家がその風光に惹かれて集まったという街である。ここはモネの師であるブータンの出身地でもあり、ブータン美術館がある。印象派画家の作品を沢山所蔵している。今日も若い画家がイーゼルを立てて港の風景を描いていた。歴史的建造物も多く、多くの人でにぎわっていた。サーカスの一団が開業していたし、町中のメリーゴーランドでは、多くの家族連れが楽しんでいた。片方だけ上がる跳ね橋があり、ヨットが通過するとき一時通行止めになる。その跳ね橋の向こう岸に15世紀に建造されたサント・カトリーヌ寺院が見える。船大工が建てたという木造の教会である。
 午後8時30分、モンサンミッシェルにあるホテルに着いた。外はまだ明るい。チェックインした後、ホテルのレストランですぐに夕食、テラスの向こうには2q先に海に浮かぶモンサンミッシェルが見える。夕食後、写真撮影を兼ね散歩に出る。島内にはいるとモンサンミッシェルの全景は撮れない。暗くなるとライトアップするというのでいったん部屋に戻り、10時頃夜の闇に浮かぶモンサンミッシェルを撮影に出かけた。
 切り立つ花崗岩の岩山に建てられたこの修道院は、708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、信じなかった。3度目に大天使はしびれを切らし、オベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に穴が開いていることに気づいてびっくりし、お告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造って陸続きになり、フランス西部の有数の観光地となっている。1979年にはユネスコの世界遺産に登録された。近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化してきたので、堤防を橋桁にして海水の流れを戻し、かつての「島」に戻す計画が進んでいる。2,3年後には、現在の駐車場も無くなり、海に浮かぶモンサンミッシェルが再現するだろう。
                              宿泊ホテル:ルレ・サン・ミッシェル(フランス)

8月6日(金)
 朝焼けに染まるモンサンミッシェルがきれいだ。今日は9時から約2時間、モンサンミッシェル修道院を見学する。島は、15世紀に造られた堅牢な城壁で守られている。島内には約400人の村人が住んでおり、ホテルやおみやげ屋さんなどがある。島の入り口のラヴァンセ門、そして大通り門、哨兵の門とくぐり、聖堂へつながる唯一の通路である90段の大階段を登ると雄大な景色が目に入ってきた。海抜80mの高さにある西のテラスからは、西はブルターニュのカンカル、東にノルマンディのグルワン岬、北にはトンブレーヌ小島を見渡すことができる。修道院付属の教会は、11世紀に完成したが、何度かの手直しで、本堂北側は12世紀のロマネスク様式、内陣と後陣は15,16世紀のゴシック後期のフランボワイヤン様式となっている。
 「驚異」を意味ずる「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれる居住部分はゴシック様式の3層構造で、最下層は貧者のための布施分配室、2階は貴賓室と騎士の間、3階に聖職者専用の回廊と食堂がある。その回廊は列柱廊と呼ばれ、天国を象徴する中庭に面した僧の憩いと瞑想の場となっている。ロマネスク様式の聖マルタン礼拝堂、修道僧の納骨堂、死者のために設置された聖エティエンヌ大聖堂と巡る。大きな車輪は、牢獄時代の19世紀の設置された。車輪の中に6人の囚人が入り、人力で城壁のレールに沿った荷車を上下させて荷物を運んだそうだ。
 11時30分、近くのレストランで昼食、名物のふわふわのオムレツを食べた。後は一路パリまで400qの道のりだが、途中フランスで最も美しい村の一つに数えられるブブロン・オン・オージュへ立ち寄る。木組みの古い家々が立ち並ぶ小さな村である。村の教会や牛を飼っている農家、ノルマンディー地方名産のりんごの発泡酒シードルやりんごのブランディー・カルバドスを売っている酒屋さんなどを覗きながらゆっくりと散歩する。
 途中レストランで中華料理の夕食を食べ、パリに着いたのは、午後8時頃、当然まだ外は明るい。明日はパリ市内とベルサイユ宮殿の見学だ。
                              宿泊ホテル:プルマン・パリ・リヴ・ゴーシュ

8月7日(土)
 今日は午前9時出発、朝はゆっくりとできた。パリからヴェルサイユまでは約22qのバス移動。ヴェルサイユ宮殿は25年前に一度訪れたが、今回は観光客の多さにびっくりした。団体での入場時間を予約してあったのだが、それでも30分遅れで入ることができた。ヴェルサイユ宮殿の総面積は800万u、部屋数は700室もある。ルイ13世が建てた小さな狩猟の館を太陽王ルイ14世が絶対王政の中心地として1661年に宮殿建設を発令してから約50年の工期を費やして完成した。王室礼拝堂から始まってヘラクレスの間、豊穣の間、ヴィーナスの間、アポロンの間等々、各部屋の天井画や肖像画、そして部屋の豪華絢爛な飾りなどを楽しむ。幅10m、奥行き73m、高さ12mの正殿と王妃の居室をつなぐ鏡の回廊は、中央庭園に面した17の窓と向き合う17のアーチ型の開口部に357枚の鏡がはめ込まれている。大窓から差し込む太陽の光がこの大鏡面に反射して光り輝き、夜ともなれば、黄金の燭台とクリスタルのシャンデリアが煌めく。また、ル・ブランによる丸天井の30枚の絵は、ルイ14世の栄光の治世を描いている。 王妃の寝室の家具や装飾は、アントワネットの時代のもので1980年に復元された。戴冠の間には、ダヴィット作の「ナポレオン1世の戴冠式」の絵が飾られている。これはダヴィッド本人の手によるレプリカでオリジナルはルーブル美術館にある。絵に違いがある。向かって左側に立つ女性たちは、ナポレオンの妹たちだが、左から2番目の女性のドレスが、ヴェルサイユ宮殿ではピンク色、ルーブルのは白である。また、絵の中央の高い席に座っているのはナポレオンの母親だが、ヴェルサイユのはヴェールを被っており、ルーブルのは被っていない。ナポレオンの母親は、実際は、戴冠式に参加していなかったそうである。
 ヴェルサイユ宮殿の次は、パリ市内に戻り、ルーブル美術館に行く。ルーブルも25年前とはすっかり様変わりしていた。混雑ぶりも25年前の比ではない。「モナリザ」の前が一番混んでいた。シャイヨー宮でバスを降り、エッフェル塔を眺める。凱旋門、オペラ座、コンコルド広場などを車窓から見学しながらセーヌ川クルーズの乗船場へ向かう。
 バトー・ムッシュのクルーズは、アルマ橋から出発。コンコルド広場、オルセー美術館、ルーブル美術館の脇を通りながら、シテ島へ向かう。ノートルダム寺院が横から後ろからと、さまざまな角度から楽しめる。サン・ルイ島を過ぎてからUターン。エッフェル塔とシャイヨー宮を左右に眺め、自由の女神像を廻って再びアルマ橋に戻る。各国語での説明が船内に流れるのだが、日本語の説明は、ずっと後のほうなので説明が始まった頃にはその場所を通り過ぎていることが多い。観光客の数によって順番が変わるそうで、最近は、中国語に押されているそうだ。
 今日の夕食は、市内のレストランで名物エスカルゴを食した。サザエを食べているような食感で、ガーリックがとてもきいていておいしかった。
 8時30分頃、ホテルに戻る。まだ明るいが暗くなるとエッフェル塔が毎正時にブリンクするそうだ。タクシーでエッフェル塔まで行く。
 エッフェル塔は、1889年に革命100周年を記念してパリで開かれた第4回万国博覧会のために建設された。高さ324m、3つの展望台があり、高さは57m、115m、274mである。第2展望台で乗り換えて第3展望台まで登る。登っている途中で10時なり、電球がキラキラしだした。最上階からは360度パリの夜景が目に飛びこんでくる。ライトアップされた凱旋門や街の灯り、流れる車の光跡がきれいだ。11時が近づいたので急いで下へ降りる。ぎりぎり間に合った。見上げるとエッフェル塔がキラキラと夜空に輝いていた。ヨーロッパの旅、最後の夜である。
                              宿泊ホテル:プルマン・パリ・リヴ・ゴーシュ
8月8日(日)
 いよいよ旅行も終わり、10時30分、ドゴール空港へ向けてホテルを出発。空港までわずか30分の距離。パリからとても近いところに国際空港がある。14時発のキャセイパシフィック航空CX260便で香港へ(11時間30分)、CX506便で関西空港へ(3時間40分)向かう。
                                                     機内泊
8月9日(月)
 7時30分香港着、10時05分香港発、14時45分関西空港に予定通り到着した。入国手続き後、はるか28号、サンダーバード35号を乗り継いで宝達駅には21時12分に着いた。

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