原罪(堕罪性)、個人的罪

  私たちは、罪が最初の人間の不従順によってこの世にもたらされたこと、また罪によって死がもたらされたことを信じる。
  私たちは罪には二種類、つまり原罪(オリジナルシン)、すなわち本質的な堕罪性と、個々人の犯す実際的な罪(プラクティカルシン)があることを信じる。 私たちは、原罪すなわち堕罪性とはアダムのすべての子孫の人間性の腐敗であり、それゆえすべての人間が原義(最初の人間が創造されたとき持っていた純潔な状態)からかけ離れており、神に背き、霊的生命を持たず、常に悪に傾く者であることを信じる。さらに原罪は聖霊のバプテスマによって心がきよめられるまでは、新生した者の新しい生命と共に存続するものであることを信じる。
  私たちは原罪と実際的罪との違いを信じる。すなわち、実際的罪とは原罪のゆえに私たちが生まれながら犯す罪であって、その罪を赦そうとされる神の恵みを無視、あるいは拒絶するならば、みずからその責任を負わなければならない。
  私たちは、実際的、人格的な罪とは、道徳的責任を負う人間が、教えられている神の戒めを意志的に破ることであると信じる。それゆえに意志的でない避け難い欠点、弱点、短所、過ち、失敗あるいはその他の逸脱は、堕罪の影響の結果なのであるから、それらを完全な行為の基準と混同してはならない。これらにはキリストの霊に逆らう霊的罪といわれる態度や応答は含まれていないからである。私たちは実際的な罪とは何よりもまず愛の律法への違反であり、キリストとの関係においては不信仰と定義されるものであると信じる。

  〈注〉堕罪性としての原罪は、人間の全存在に影響を与えているから、人の全機能は常に悪のために用いられる。これは、聖潔の源泉である聖霊の臨在が、アダムの不従順と共に撤去せられた結果である。それは、ちょうど、死と共にからだの生命力が失われて物理的崩壊を始めるようなものである。このようにして、アダムの子孫である私たちは、堕罪前の正しい人間とは違ったものになった。しかし、悔い改めて救い主を信じる者の霊性は生かされ、さらに聖霊に満たされるときに、罪は除かれ、罪性から自由にされる。