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めったにないことですが、07年度内に二回イースターを迎えます。そこで今回は、イエス様の十字架への道の一こまを共に見て参りたいと思います。 7節に「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」とユダヤ人たちは言っています。ユダヤ教には実に細かい決まりがあったのです。例えば安息日には○○m以上歩いてはいけないとか…。 聞いた話しです。アメリカでの事ですが、ある人が猫をお風呂に入れたあと早く渇かしてあげようと、普通では考えられないことですが、乾燥機に入れたそうです。猫は可哀想に死んでしまいました。ところがこの人は、乾燥機を作った会社を訴えたのです。『使用説明書に猫(動物)を入れてはいけないとは書いてなかった』と。裁判所はその訴えを受け入れ会社は莫大な慰謝料を払わされたと。その後、乾燥機の説明書には『生き ものは入れないでください』と書き入 れたそうです。身近なところでは、薬ですが、『この薬は服用後眠くなるこ とがありますから、車の運転は避けてください』など。 さて、イエス様が十字架に架けられたのは「自分を神の子としたのだから」とあります。 つまり神を冒涜した罪です。律法には「冒涜罪は死刑に処す」とあるのですから、それを破ったら罰せられるのは当然だと言うのです。でも、しかしですよ、イエス様は「神様の一人子」ですよね!。しかも総督ピラトははっきりと「私はこの人には罪を認めません。」(6節後半)と言っているのです。なのに、なのになぜイエス様は十字架につけられ死ななければならなかったのでしょうか? マルコの福音書によりますと、「ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。」(15: 10)とあります。「ねたみ」何と恐ろしいことでしょうか。福音書を読みますと、イエス様の周りにはいつも多くの人が集まっていたとあります。イエス様の評判が高くなればなるほど、祭司長たちにとっては目の上のたんこぶ的存在だったのです。邪魔者は消せと言わんばかりに、群衆を扇動し、「神様の一人子」イエス様を殺してしまったのです。 |
けれども、それが父なる神のみこころであり、御計画であったのです。え!それはどのようなみこころ・御計画なのですか?それは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハネ3:16)。「世」とは「世にあるすべての人」のことです。すなわち、あなたが、私が滅びる事がないために、永遠のいのちをもつことができるために、イエス様は十字架に架けられなければならなかったのです。 ピラトが「私はこの人には罪を認めません。」と言って、人々の前に「さあ、この人です」と言ってイエス様を連れて来ました。人々はイエス様を見たのです。しかし、彼らには神様のみこころ・御計画を見ることは出来なかったのです。ねたみ (嫉妬)のために、心がふさがれてしまって、本当に見なければならない事を見ることが出来なかったのです。彼らが長〜〜〜い間待ち望んでいたメシヤ「救い主」であるのに。 わたしたちは聖書66巻を通して、神様のみこころと御計画を知る事が出来ます。それは、あなたのそして私の罪の身代わりとなって、罪無き方が罪人とされ、十字架で死なれたと言うことです。 わたしたちはイエス様に何を見ているでしょうか? この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ (讃美歌21−280 4節) |
お読み頂きましたマタイの福音書のキー(鍵となる)メッセージは、「共にいます神」です。イエス様がお生まれになるとき御使いが告げて言いました。「その名はインマヌエルと呼ばれる。」と。「インマヌエル」それは「神は私たちとともにおられる、という意味である」と説明されています。(マタイ1:23) そして、マタイの福音書の最後は、イエス様ご自身が「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)との約束を残して天の父なる神の許へお帰りになりました。 ですからマタイの福音書は「神ともにいます」という言葉に挟まれたサンドイッチです。その中身はイエス様です。 しかもそのイエス様は、私たちのために生まれ、私たちのために生き、私たちのために苦しみを受け、私たちのために死なれ、私たちのためによみがえり、今も生きてとりなし、「共にいてくださる」お方なのです。 ですから、どんな時にも私たちはひとりぽっちではないのです。先日本屋へ行きましたら、「今一番売れている本」という紹介コーナーがあり、その本の正確な題は忘れましたが、「ひとりで生きるための備え」???というような題だったと思います。 パラパラと中を開いてみると、その前書きに「誰しもやがて一人になるときがある。独身者はもとより、妻に先立たれ夫に先だたれ、一人で生きていかなければならないときが遅かれ早かれやって来る。特に女性のほうがその確率は高い。その時のために備えることは大切なことです。」というような内容です。(女性の書いた本です。) 興味をそそられ、買ってこようかな?と思ったのですが、いやいや今読みかけの本が沢山あるので………と、買わずに来たのですが、どうも気なる本の一つです。 さて、この本を目にしながら「私にとって一人生きるときの備えとは何か」と思ったときに、浮かんだのが、マタイの福音書28:20の御言葉「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」でした。 |
もし私がたとえひとりぽっちになったとしても、イエス様が共にいてくださる。いや、わたしは独りぽっちになることはないのだ、と言葉に表せない平安がわたしを暖かく包んでくれました。 そして改めて、マタイの福音書を読みながら、イエス様がどんなに深く、このような小さな者を愛していてくださっているのかが、ひしひしと心の深みに迫ってくるのを感じました。 一冊の本との出会いが、そのような思いへと、導いてくれたことを感謝しています(中身を読んだわけではないのですが)。 ところで「人生とは、重い荷物を背負って遠い坂道を登っていくようなもの。」(徳川家康の言葉だそうです。)あるいは「花の命は短くて、苦しきことのみおおかりき」(放浪記・林芙美子)。 確かに、人生は苦しみの方が多いのかも知れません。けれどもだからこそなくてならぬものを、しっかりと握りしめていることが必要なのです。それは主の御手です。 詩篇107篇に「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」と4回(6節、13節、19節、28節)も繰り返し語られています。 希望なく荒野を彷徨い飢えと渇きに魂は衰え果て、闇と死の陰に座し悩みに打ちひしがれ、病の中で苦しむ時、まさに荒れ狂う海のような人生の旅路の中で、「一人生きるときも」「私はあなたと共にいる」と約束して下さった、インマヌエルの主に叫ぶなら、主は必ず苦悩から私たちを救い出して下さるのです。それが、神様のみ言葉による約束なのです。 ですから、今、共に与えられている日々の中で、同じ主を信じ呼び求める私たちが、互いに励まし合い、祈り合い、助け合いつつ、約束の御言葉に信頼し歩み続けて行こうではありませんか。 主にある平安がお一人ひとりの内にありますように。 |
今年教会の標語は「いのちの日の限り、主の家に住むこと」(詩篇 27: 4)が与えられました。 この御言葉をよく味わってみますと、実は神様ご自身がわたし達と共に親しい交わりの中に住むことを望んでおられると言うことなのです。 神様との正しい関係を失い、不安と恐れの中にいるすべての人の人々のために、神様ご自身が和解の道を備えて下さいました。それがイエス様の十字架の道です。ヨハネの福音書1章12節に「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。 つまり神様の家族として迎えて下さるというのです。それはまさに、神様ご自身がわたし達と共に住むことを望んでおられると言うことです。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ人への手紙第1 5:16〜18)皆さん良く御存知の御言葉ですが、続いてこう記されています。「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と。 聖書が私たちに語りかけて下さる中心テーマは、全能なる神様が私たちをどう思っていて下さるのかと言うことです。 神様に背を向けた結果、罪が世に入り込み、痛み、苦しみ、悲しみ、病、そして死という、様々な困難の中を歩まなければならない私たちは、パウロ先生が言うようにまさに弱さの中で生きていると言えるのです。 人は問うのです。「なぜ、どうして」と。しかし、その答えを見出すことは人間の知恵では不可能なのです。 そこで今日お開き頂きました、コリント人への手紙第2 12章を見てみましょう。 パウロ先生は肉体に与えられたとげ(病)、それを取り除いて欲しいと三度も(執拗に、真剣に)祈りました。がしかし、その祈りは聞き入れられませんでした。 ところが、神様は「私の恵みは、あなたに十分である。」と言われるのです。いえむしろ、「パウロよ、その弱さの中に私は共にいるのだ。」と主は言われるのです。パウロ先生にとって、この神様のお言葉こそが、まさに生きる力となったのです。 |
実は、毎週水曜の祈祷会ではヨブ記を連続で学んでいますが、実はヨブの問も「なぜ、どうして自分はこんな辛い目に合わなければならないのか。私は神様の前に真実に生きてきた。なのに………」という切なる神への訴えです。そしてその答えがここ(パウロ先生への神様のみ言葉)にあるのです。ここにはパウロ先生が個人的に経験したことが記されています。しかし、神様の恵みは、信じる者一人ひとりに同じように与えられていると言うことをパウロ先生は言いたいのです 但し、例外があります。それは、「自分は強い」と思っている人には意味を持たないと言うことです。 皆さんはいかがでしょうか? 弱さを覚えるとき、そこに主が共にいて下さることを信じようではありませんか。あなたのために十字架の上で、痛み苦しみ悲しみを担って下さった主は、あなたにも、私にも「わたしの恵みは、あなたに十分である。」と声を掛けて下さっているのです。 パウロ先生はローマ人への手紙 8:18に「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。 そして、「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録 21:3b〜4)との約束が与えられているのですから。 「私はいつもあなたがたと共にいる」と仰った主の御言葉に信頼しましょう。 「主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ わが主イェス わが主イェス わが主イェス われを愛す」 アーメン! |