牧師室 '08. 7


◎ 2008. 7 ◎

「上を向いて歩こう」


21:8 すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。    
<旧約聖書 民数記21:8〜9>


 暑くなって参りました。まだまだこれからですが、皆さん夏バテなどしませんように!この夏も元気に乗り切りましょう。
 さて、お開き頂きました民数記の記事ですが、辛い苦しいエジプトでの奴隷生活から解放され、約束の地、カナンに向かう途中、イスラエルの民は腹が減った、喉が渇いたと言ってはモーセにくってかかり、『こんな事なら、エジプトにいた方がましだった。おいしいすき焼きもあったし・・・』と文句を言い始めます。参考までに・出エジプト記16章1〜3を読んでみましょう。
「16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
とつぶやくのです。その様な民に向かって神様は怒り、燃える蛇を送ります。蛇に噛まれて多くの民は死んだと聖書は記すのです。しかし、民の中にも神様を恐れる人々もおりました。彼らはモーセのところに来て悔い改め「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去って下さるよう、主に祈ってください。」と願うのです。その様にモーセが祈ると、神様は祈りを聞かれ、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」と仰ったのです。
 「燃える蛇」とは文字通り燃えている蛇ではなく、噛まれた時の焼け付くような痛みと激しい毒によって苦しむ有様のゆえにその様に呼ばれた」(チェーン式バイブル注解より)のです。
主が言われたように、モーセは青銅の蛇を作り、旗竿の上につけました。蛇に噛まれたものも、この「青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。」(9節)のです。
 青銅の蛇そのものに力があるのではなく、神様の約束を信じて仰ぎ見た者だけが生きることが出来たのです。そしてこれは、私たちの罪を背負って十字架に架けられたイエス様を象徴しています。
   
 ヨハネの福音書3:14に「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」とある通りです。
 私たちも、罪の中に歩んでおりましたが、罪を悔い改め、このイエス様を仰ぎ見ることによって、新しく生きる者とされました。しかし、世の様々な出来事の中で、イスラエルの人々のようにつぶやくことはないでしょうか?つぶやきは「不信仰」です。不信仰は信仰が無い訳ではではありません。けれども、主を仰ぐことを忘れてしまい、自分の周りの事柄に心が奪われてしまい、主を信頼することを忘れてしまうことです。
詩篇の記者はこう言います。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る。・・・主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」(詩篇121篇)と信仰告白しています。
 昔(??)、「上を向いて歩こう」という坂本九チャンの歌が流行りました。しかしどういう訳か海外では『すき焼きソング』として有名になったそうです??!!。(なぜか、どなたかその訳を御存知の方はおられますか。)
 すき焼き(肉なべ)を慕って奴隷の地エジプトへ戻ろうとしたイスラエルの民をなんと愚かな事か、と私たちは笑います。けれども、思い返しますと私自身も、何度つぶやいたことでしょうか?信仰を捨て、無くしてしまった訳ではないのですが、主に信頼することを忘れ、「下を向いて歩いている」愚かな自分であったことを思い恥じ入るばかりです。しかし、主はそのような愚かな者に「私を仰げ、そうすれば生きる」と呼びかけて下さるのです。そうです「私の助けは、天地を造られた主から来る」のです。
 只このお方だけを仰ぎみて、生きる、生かされている喜びを日々味わいながら歩んでいきたいと思うのです。
 すき焼きに思いを奪われることなく、「上を向いて歩こう」ではありませんか。『主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる』と約束して下さっていますから、このお方を信頼し、従って参りましょう。