牧師室 '08. 6


◎ 2008. 6 ◎

「幸いなことよ」


8:32 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
8:33 訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。
8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。
8:35 なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。
<旧約聖書 箴言8:32〜35>


 チルチルとミチルの「青い鳥」のお話をご存知の方は多いでしょう。私は絵本や童話を読んだ事はありませんが、なんとなくあらすじを知っている程度です。調べたところによりますと、このお話は、童話のために書かれたのではないそうです。ベルギーの作家メーテルリンク著作で、元々は戯曲(演劇の脚本)として書かれました。
 魔法使いから青い鳥を捕まえれば豊かで幸せになれると聞いた貧乏なチルチルとミチルは、青い鳥を探すために長い旅に出かけます。しかし、青い鳥は全然みつかりません。チルチルとミチルは仕方なく家に帰りました。すると、家で飼っていたみすぼらしい鳥が青い鳥に変身したのです。ふたりは「青い鳥はここにいたんだ」と喜びました。絵本や童話ではこれがラストでハッピーエンドになっているそうです。ところが、原作はこの先があるのです。
 ようやく見つかった青い鳥。チルチルとミチルが喜んでいたら・・・青い鳥は飛び去ってしまいました。 最後はチルチルのセリフで幕が下ります。「どなたかあの鳥を見つけた方はどうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるでしょうから。」
 つまり、「幸せ」というのはすぐ近くにあるのに気づかないでいることの方が多い。そしてこれが「幸せ」なんだ、と思っても、それも束の間どこかへ飛んで言ってしまうものなのだ。「幸せ」を求めることは儚いことだ。
 でも、本当に私達の求めている「幸せ」とはそんなに不確かな儚いものなのでしょうか。
 その答えは聖書の中にあります。「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は」と神様は仰るのです。私達が本当の「幸せ」を得ようとするなら、神様に聞き従い、神様の道を守ることだと。
 ところで「聞き従う」とは「信じる」と言うことです。どんなにすばらしい言葉を聞いても、従わなければ信じたことにはなりません。では何を聞き、どう従うのでしょうか。それはまさに聖書を通して語られる神様の御言葉に聞き従うと言うことです。
 そこでまず耳を傾けてみましょう。神様が言われる「わたしの道」とはどんな道でしょうか。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われた真理に至る命の道、すなわちイエス・キリスト様に外なりません。
 真理に至る命の道とは、イエス様が十字架と復活によって示して下さった「救いの道」です。私のために命を捨ててくださり、三日目に甦って今も生きてとりなし導いてくださるお方を信じて歩む事が、人間にとって最も「幸せ」な歩みなのです。
 しかも私たちがイエス様を信じるなら、神様の子として下さると約束されています。 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)ですから、本当の幸せとは、「子どもらよ。」と呼びかけて下さる父なる神を知ることであり、その声に聞き従うことです。ここにまことの「幸い」があるのです。
 天と地を造り、全てのことをその御手に治めておられる神。その様な偉大な神が、私達のためにひとり子を世にお遣わしになり、命がけで愛して下さったのです。
 私達は、その様なお方を「父よ」と呼ぶことが出来るとはなんと言う「幸い」でしようか。子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。
 与えられている今日、そして「いのちの日の限り、主の家に住むこと」(詩篇27:4)が何よりも「幸い」な歩みであることを心から信じ従い続けましょう。