牧師室 '08. 5


◎ 2008. 5 ◎

「私はあなたの神」


20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 
<旧約聖書 出エジプト記20章2〜3節>


 もう随分前のことですが、あるお坊さんと話していた時のことです。そのお坊さんが言うには「教会では、神はただ一人、と教えているが本当にそうなのだろうか。神は人の心に生まれてくるものだから、私達が心の中で、これが私の神と思えるなら、それはそれでいいのではないか。」と。つまり、キリスト教のように「神はただ一人」と押しつけることは、他のものを排除することになるのではないか、と。 このお坊さんが言うことが、すべてのお坊さんの思いではないかも知れないが、私はこれを聞きながら、仏教には神はいない、と思いました。いえ少なくともこのお坊さんのうちには、神はいないと。 さて、「十戒」という映画をごらんになった方も多いと思いますが、旧約聖書出エジプト記を読みますと、イスラエルの民が、エジプトに奴隷として仕えた年月はなんと430年(出12:40〜41)であったと記されています。
 430年の時を経て、神はイスラエル人の嘆きを聞かれ、奴隷の地エジプトから乳と蜜の流れる約束に地カナンへと導き出されます。
 この出エジプトの体験は、イスラエルの人々にとっては、決して決して忘れることの出来ない、いえ忘れてはならない出来事となりました。
 決して忘れることのない為に定められたのが過ぎ越の祭りです。出エジプト記12章22節〜28節を見ますと、神様はこれを永遠に守るべき掟とされました。子々孫々に至るまで、この出来事が神様の救いの御業である事を伝え続ける儀式(祭り)として定められたのです。
 過ぎ越とはそもそも、エジプトの地にくだされる神の災いが、家の鴨居に小羊の血を塗ったイスラエルの家を過ぎ越して行かれたところから来ています。すなわち小羊の血が流されたのです。
 さて、新約聖書に目を向けますと、イエス様が十字架に架けられる時のことが記されていますが、マタイ26章を見ますと、イエス様が十字架に架けられたのは「過ぎ越の祭り」の前日であったことが記されています。
 御存知のように、イエス様のことを小羊にたとえています「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29〜30)と。
 出エジプトの時に流された小羊の血が、イエス様が十字架の上で流された尊い血潮の象徴であったことを知る事が出来ます。
 イスラエルの人々が、神様の約束を信じ、小羊の血を家の鴨居に塗り、その事によって災いが通り過ぎていったように、私達には、イエス様の十字架の血潮が、罪の赦し・救いの約束であることを信じる信仰によって、神の裁きから永遠のいのちへと導かれているのです。
 実はこの信仰によって私たちの内に神は存在しておられるのです。決して神様は私達の思いによって生まれるような、曖昧なお方ではなく、はっきりと「わたしがあなたがたの神、主である」と語ってくださるお方なのです。」
 私達は自分の思いや知識によっては、真の神を知る事は出来ません。ですから、心に思い浮かぶことがその人の神だとするなら、それはまさに「偶像」にしか過ぎないのです。
 イスラエルの人々を奴隷の地エジプトから導き出された神が、 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(20:2〜2::3)と命じられたように、十字架の血潮によって、私たちを罪の奴隷から連れ出し、永遠の御国の世継ぎとして下さった神様が、聖霊様なるお方を通して語りかけていて下さるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と。
 私達はこのように愛して下さっている神様と共にあることを喜んでいるだろうか?
すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。(ユダ1:25)と賛美しつつ歩もうではありませんか。