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◎ 2007. 9.13 ◎

「約束は必ず成る」

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。              
(新約聖書 ルカの福音書 2:25〜26)


  暑かった夏の陽射しもようやく和らぎ、朝晩はめっきりと涼しくなってきました。気がつくと、蝉の声は止み、赤とんぼが我が物顔に飛び回っています。四季折々に神さまは素晴らしい恵みを備えて私たちを和ませて下さいます。
  神さまってなんてすてきな方なのでしょう。
  さて、8月は様々な行事のためシメオン会はお休みでしたが、今日こうして良き時を主が備えて下さったことを感謝いたします。9月17日が「敬老の日」ですが、一足先に女性会の方々が心づくしのお料理をもって、お祝いの席を設けて下さっています。お料理を頂くのも楽しみですが、心をこめたお持て成しが何よりのお料理です。
  肉の糧を頂く前に、霊の糧である御言葉を味わいましょう。
  今日は、この「シメオン会」の名前の由来となっています聖書の記事、ルカの福音書から暫く学んでいきましょう。
  さて、「シメオン」は、何歳とは書いてありませんが、かなりのお年寄りであったと思われます。この後にアンナという女性が登場して参りますが、「この人は非常に年をとっていた。……八十四歳になっていた。」(ルカ 2:36,37)と記されています。おそらくシメオンさんはアンナさんよりは少し若い70代ではなかったかと思われます。
  聞くところによりますと、男性がこの会の名前を付けたということですので、「シメオン会」となっていますが、もし女性がこの会の名前をつけるとするならあるいは「アンナ会」であったかも知れませんね。
  さて、神さまはシメオンに約束されたように今も変わらず、主を待ち望む者には、日々新たな力を与えて下さるのです。
「みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」とシメオンは言っていますが、これは、救い主に出会うことによって与えられる平安を言っています。
「みことばどおり」とは、神が与えて下さった約束の通り、ということです。その約束とは「救いを見る」と言うことです。私たちにとって「救いを見る」とは、十字架と復活のイエス様に出会うと言うことです。
  私はある時、死の恐れに捕らわれた事がありました。自分は今死んだらいったいどこへ行くのだろう。イエス様を救い主と信じる前のことです。死の恐れに捕らわれた時、自分の罪深さを知らされました。そして、イエス様の十字架が本当に自分の罪の身代わりであったことを信じました。私にとって「救いを見た」経験でした。悔い改めに導かれ、洗礼を受けました。その時以来、死の恐れに捕らわれた事は一度もありません。
  約束の通り、平安を与えて下さったのです。それは永遠の命の約束、天の御国の約束です。ですから主は私を「平安のうちに去らせて下さる」ことを信じています。
「約束は必ず成る」と信じます。
  シメオンさんは、神様の約束の救い主メシヤに出会いました。そして、真の救い主に出会って彼は真の平安を得たのです。しかも彼は、この平安は、異邦人にも与えられているという壮大な神様の御計画を預言したのです。「31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」と。
  異邦人とは、イスラエル人以外の人々すべてを指しています。つまりすべての人に与えられている約束、これこそ、イエス様の誕生の時に御使いが告げた「すべての人に与えられたよろこびの知らせ」福音なのです。
  私たちはイエス様に出会いました。イエス様を私の救い主と信じ約束の平安を頂いているのです。
  私たちは今、ここにこうして集められて主の恵みの中にあることを、共に分かち合う事が出来る幸いを心から感謝したいと思うのです。と同時にこの平安を知らない多くの人々がおられることを覚え、とりなし祈る者でもありたいと思うのです。
    すべての人々の上に神さまの平安があるように。 アーメン!


◎ 2007. 7.10 ◎

「喜びの香り」


4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。 喜びなさい。 4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってく れます。
(ピリピ人への手紙 4:4〜7)

100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 100:2 喜びをもって主に仕えよ。  喜び歌いつつ御前に来たれ。
(詩篇100:1〜2)



 花はそれぞれ色も形も違うように、香りもその花独特の香があり、私たちを楽しませてくれます。が、本来この香の役割は、虫を呼び寄せるためだと言われています。殆どの花には雄しべと雌しべがあって、雄しべの花粉が雌しべに交配され、種、あるいは実を結ぶわけです。その交配の手伝いをしてくれるのが虫たちなのです。 ですから良い香りを放って虫たちを誘うのです。女性が香水を振りかけるのもそれに似ていますよね。
 さて、お読み頂きましたピリピ人への手紙は、パウロ先生がローマの獄中で書いた手紙であると言われています。けれども驚くべき事に、自由を奪われ、何時どのような裁きが下るか分からないそのような状況の中で書かれたにもかかわらず、この手紙には「喜びの香」が漂っています。
愛する喜び(4: 1)
一致の喜び(4:2,※2: 2)
宣教(伝道)の喜び(4:3,※1:18)
祈りの喜び(4:6,1: ※3〜4)
与える喜び(4:18、※2:17〜18)
 全体を貫いているのは、主にある喜び(4: 1,2,4,7、※3: 1)
 パウロ先生がこの手紙を通して強調している喜びは「主にある喜び」です。すべての喜びは主にあってこそ真実な喜びとなるのです。これがなければ、誰が獄中に囚われの身でありながらこのように喜びに満ちた手紙を書くことが出来るでしょうか?
 同じように私たちも主にあって喜び歩むなら、良い香りを放つ者とされるのです。しかし、皆が同じ香りではありません。花にもそれぞれ独特の香りがあるように、私たちも主にあってそれぞれ違う香りを放つのです。
   私は、最初に献身の思いが与えられたとき、あこがれを持っていました。それは、本田弘慈先生のように、日本中を伝道する大衆伝道者です。
 しかし、献身の道は開かれませんでした。けれども、10年後再び献身の思いへと導かれた後に、祈りのうちに示されたのは、ローマ人への手紙10章14節15節でした。「信じたことのない方を、どうして呼び求めることが出来るでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることが出来るでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことが出来るでしょう。……」
 そうだ、本田弘慈先生のような働きも大切だけれども、たとえ与えられる働きが、小さな田舎の教会であったとしても、それが主の御心ならば、それに従います。と言う思いが与えられて祈り始めたときに、献身の道は開かれたのです。
 皆が同じ香りを放つのではないけれども、主にあるならば、ここにあるそれぞれのが美しく咲き、香りを放って人々を慰め、喜びを与えることがれるように、主はその人その人をその個性を用いて喜びの香りを放つ者としてくださるのです。
  ですからパウロ先生が繰り返し言っているように、喜びの香りは、「主にあって」でなければ放つ事は出来ないのです。
 パウロ先生が獄中にありながら「喜びの香」を放つことが出来たのは、祈りにおける主との交わりです。1章4節「あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、……」と言っている通りです。
 4章6節にも「……あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって・・・」とあります。このように祈りによる主との深い交わりによって、愛(4:1)、喜び(4:4)、平安(4:7)、寛容(4:5)の実を結ぶのです。
 これは御霊の実です。
 御霊の実は、「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」(ガラテヤ5:22〜23)です。
 私たちも日々主との交わりを通して、「喜びの香」を放つ者とさせていただきたいと思うのです。

◎ 2007. 6.12 ◎

「もうしばらくすれば」

10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束の ものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
10:37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。 おそくなることはない。
10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。 もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、 信じていのちを保つ者です。
(ヘブル人への手紙10:34〜39)


  旧約時代、人は罪の赦しの供え物(犠牲)として動物の血を神様に献げました。特に、傷のない小羊が多く使われたのです。ですからユダヤ人達は「小羊」と言うと、犠牲の献げ物というイメージを、すぐに思い描くことが出来たのです。
  あのバプテスマのヨハネが、イエス様を紹介してこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書1:29)と。
  まさしくイエス様は、私たちすべての人の罪を取り除く(赦す)為に十字架の上で犠牲となり命を捨てられました。けれども、三日目に甦って、父なる神の許にお帰りになり、今は助け主なる聖霊様を通して私たちの内に住んでいて下さるのです。
  そのイエス様が弟子たちにこう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:3)と。また黙示録22章20節には「しかり、わたしはすぐに来る」とイエス様は言われました。
  イエス様の弟子たちは「また来る。すぐに来る。」というお言葉を信じ待ち望んでいましたが、イエスはすぐには来られませんでした。そしてあれからもう、かれこれ2000年という時が流れてしまいました。
  いったいイエス様の約束はどうなってしまったのだろう? 聖書はこう言うのです。 「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Uペテロ 3: 9)と。
  さて、今日お読みいただきました、ヘブル人への手紙10章36節に「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」とあります。「みこころを行って」とは、「信仰に立って」と言う事が出来るでしょう。 信仰があるから忍耐できる。
  そして、この約束とは、「また来る。すぐに来る。」と言われたイエス様の再臨の約束です。そして、「約束のものを手に入れる」とヘブルの記者(作者不明)が語っている事柄は、「栄光のからだ」に変えられるとの約束を手に入れる、と言うことです。
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」( ピリピ 3: 21)とあるとおりです。
  この約束の故に、私たちは今の時を忍耐をもって、希望を持って待ち望むのです。
  しかし、私たちの忍耐などたかが知れています。私たちの忍耐は神様の約束を信じる信仰によって与えられるのです。
  例えば友人と待ち合わせをして、約束の時間が過ぎた場合、その人は必ず来る。今まで約束を破ったことがない、と信じるなら、貴方は待つでしょう。しかし、前にもすっぽかされたことがあるとするなら、きっとせいぜい10分も待って来なければ諦めてしまうのではないでしょうか。
  しかし、神様の約束は必ず成ると信じる根拠があります。それは聖書です。
  マリヤさんが、イエス様誕生の知らせを御使いによって知らされた時、戸惑いながらも、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ 1: 45)
    私たちのために、忍耐をもって導いて下さる主の忍耐に学ぶべきです。主が私たちのために忍耐をしていて下さるから私たちは忍耐が出来るのです。
  忍耐。ヘブルにも忍耐とある。


◎ 2007. 5.10 ◎

「義の栄冠」

4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 
(新約聖書 テモテへの手紙第二 4:7〜8)


 私は小学生のころ、運動会が大嫌いでした。特に50メートル、100メートル徒競走ではいつも5・6人で走って、後ろから1番か2番でした。それでもゴールを目指して一生懸命走ったものです。
 ゴールが分からなければ走りようがありませんし、無駄な労力としか言いようがありません。
 人生も行くべき所、ゴールがはっきりしていなければ無駄に走っているようなものです。つらく、苦しい道のりかも知れませんが、走り抜いた時の得も言えぬ達成感は、1番・2番という順位を超えた喜びがあるものです。
 私は、マラソンとか駅伝を見るのが好きです。それはゴールにたどり着くまでにいろいろなドラマがあるからです。思いがけないアクシデントで、やむなく途中であきらめなければならないこともあります。
 あるいは自分の限界を超え、ふらふらしながらも懸命にゴールを目指して走る姿には、見ている者にとっても感動があります。
 パウロ先生が若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙が、テモテへの手紙第一・第二です。その中に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言っています。
 余談ですが、当時も走ったり、あるいは、相手を倒すレスリングというようなスポーツも盛んに行われていました。記録に残る古代オリンピックは紀元前に遡ります(紀元前776年〜紀元393年)。途中中断しますが、 近代オリンピックはクーベルタン男爵らの働きかけにより、1896年アテネオリンピックから始まり現在に至ります。
 ですから、パウロ先生が信仰の歩みを「走るべき道のりを走り終え」たと人生の歩みを競技に当てはめて書いているのもうなずけることです。
 さて、パウロ先生は私たちの人生のゴール、走り終えたその先に待っているのは「義の栄冠」だと言っています。
 しかも「正しい審判者である主が、それを私に授けてくださる」と言うのです。「正しい審判者」とは、言うまでもありません。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイの福音書 28:18)と言われたイエス様です。
 そうです、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で血を流し、いのちを捨てて下さったお方、しかも死さえも打ち破って甦られたお方。
 「義の栄冠」それは、神と共に住む永遠の命の約束です。しかしこの「義の栄冠」は、私たちの努力や流した汗の代価として与えられるものではなく、パウロ先生が「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言っていますように、イエス様を信じる信仰によって生涯を歩み通した者に与えられるものなのです。
 先程マラソンの話しをしましたが、その走るべき道のりは、決して生やさしいものではないでしょう、途中で止めてしまいたくなるような苦しい時もあるでしょう。しかし、走り通したなら与えられるのです。しかも、一番先にゴールした人にだけ与えられるのではなく、ビリでもいい走り通した人に与えられるのです。パウロ先生はこう言っています。「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」と。ハレルヤ!です。
 しかし、思い出して下さい。その「義の栄冠」を私たちに授けて下さるために、イエス様がお受けになった冠は何だったでしょうか?そうです、「いばらの冠」でした。イエス様はその痛み苦しみを通して、私たちの受ける痛み苦しみを担って下さったのです。ですから、その様に痛み苦しみ十字架の上で死なれたイエス様を見上げる時、私たちは自らの、痛み苦しみにも打ち勝ち勝利する力が与えられるのです。
 再び来られると約束なさったイエス様を慕い求め、与えられた人生を走り通しましょう。

※弱きを覚えておられる方々のために祈りつつ、共に「義の栄冠」を授けていただきましょう。