牧師室 '07.12 11


◎ 2007.12.11 ◎

「一つの願い」

27:4 私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
(旧約聖書 詩篇27:4)

 2007年も残りわずかとなって参りました。この一年どんな年でしたでしょうか?
 思い返すといろいろなことがありましたが、1月3日(水)愛する田中豊子姉妹を主の御許へと送りました。 1月15日(月)那須こと姉妹、2月5日(月)には古川初乃姉妹、4月18日(水)西田ミヤ子姉妹が相次いで主の御許へと帰って行かれました。
 お互い、生まれて今日まで、いろいろな出会いがありそして別れがあり、喜びがあり悲しみがありました。そうです。初めがあれば終わりがある。それが私たちの人生です。そのような一度しかない人生において、一番に願うこととは何でしょうか?
 さて、先ほどお読みいただきました詩篇27篇ですが、これは表題に「ダビデによる」とあります。これはダビデ王晩年の歌であろうと思われます。
 彼は、一国の王として戦いに次ぐ戦いの日々を送りました。時には失敗もしました(部下の妻を横恋慕した)。王であるが故に、息子に命をねらわれるということもありました。しかしダビデは神様を見失うことはありませんでした。罪を示されては悔い改め、神様の助けを求めて祈りました。そして神様もその様にへりくだった心を顧みてくださったのです。ですから晩年このような詩を詠うことができたのです。この詩篇は「確信に満ちた祈り」と言われています。
 1節を見ていただきますと、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」と、私の・私の・私は・私の・私は、とこの二行の短い文書の中で、繰り返し「私・私」と言っています。これは、主への深い信頼を言い表していると言われます。そんなダビデが晩年に、神様に一つのことを願い求めているというのです。
 それがお読みいただきました4節です。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」
「いのちの日の限り、主の家に住むことを」、すなわち地上での残された日々はあとどのくらいあるか分からないけれども、主への信頼を失うことなく、信仰の歩みを全うすることができるように、との祈りです。
 そして日々、麗しい主を礼拝し、主の教えを瞑想しながらゆったりとした気持ちで生活を送ることができるように、との願いです。
 さて、私の願いはと言いますと、まだまだゆったりとして、瞑想の日々をとは参りませんが、やはりダビデのように、様々なことが周りで起こって参りましても、決して主への信頼を失うことなく、日々主を礼拝する喜びを味わいながら歩んでいきたいと願います。
 私が34歳で献身をしまして、短大で学んでいました時に、当時学園教会の牧師であり、短大神学科の科長でもあられた、瀬尾要造先生が、「私には二つの願いがある。」一つではなくて二つです。
 一つは、心おきなく後任の牧師先生に学園教会をお任せすること。 もう一つは、ゆっくりと聖書を読み、静かに人に迷惑をかけずに主の御許に召されていくことです。」と言われました。 神様はその願いの通りに先生を導かれました。
7節に「聞いてください。主よ。私の呼ぶ声を。私をあわれみ、私に答えてください」とダビデは祈りました。
 ダビデは「一つのこと」を願いました。瀬尾先生は「二つのこと」を願いいました、私はもう一つ欲張って三つのことをお願いしようかなと思います。 それはさておきまして、いずれにしても主と共にある平安のうちに、与えられた信仰を全うし、いのちの日の限り歩ませていただきたいと願います。
 ダビデは最後にこう歌いました。「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」と。ダビデは、約束のメシヤを待ち望んでいました。
 しかし、私たちは今、すでに来られたメシヤ、主イエス様のご降誕を祝うクリスマスを迎えようとしています。 そのイエス様から私たちに与えられている約束は、「私はすぐに来る」と言われた、主の再臨です。
 私の光、私の救い。私のいのちのとりでであられる主が再び来られる。そして、主と同じ栄光の体に変えられるのです。なんと厳かな約束でしょうか。「雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」 アーメン・ハレルヤ!

◎ 2007.11. 6 ◎

「わたしの喜び」

 17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
 17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。              
(新約聖書 ヨハネの福音書17:13、21)


 今、あなたにとっての最高の喜びとは何ですか?と聞かれて「はい。○○です」とすぐに答えられる人は最高に幸せな人だな、と思います。
 そう思いつつ自分自身の事を考えてみると、いろいろ思い浮かぶ事がありますが、「最高の喜びはこれだ」とすぐに答えられない自分に正直がっかりしました。孫と一緒にいる事、美味しいものを食べる事、こうしてシメオン会の皆さんと交わりをしている事、それもこれも勿論喜びには違いないけれども、もしそれらのものが取り去られたとしても残る喜びとは何か?と言われたら果たしてなんだろう?
 暫く思いめぐらしていた時に、パウロ先生の事に思いが導かれました。むち打たれ、獄に入れられたけれども主を賛美し祈っている姿(使徒の働き 16:23〜25)。同じように獄に捕らわれていながら、喜びと感謝をもって祈りながら手紙を書いている姿(ピリピ人への手紙 1:4〜5)。なぜ?
 獄に捕らわれていると言うことは、自由が奪われていると言うことです。行きたいところへも行かれず、食べる物と言えばあてがわれた物だけ。その様に自由を奪われてもなお失われない喜びがあるとパウロ先生は言うのです。
 それは「主にある喜び」だと。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ人への手紙 4:4)と。
 では「主にある喜び」とはどんな喜びなのでしょうか?
 そこで、先程お読みいただきました、ヨハネの福音書17:13をご覧頂きましょう。
 ここはイエス様が、十字架を前にして父なる神様に祈っておられるところです。
 「わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。」と死が間近に迫っていることを知りながら、なおかつ「喜びが全うされるために」と祈っておられるこの喜びとは何でしょうか?
 イエス様にとっての最高の喜びは、父なる神様の御心を成し遂げる事です。つまり父なる神様に喜んでいただく事がイエス様の最高の喜びだと言う事です。では「父なる神様の御心を成し遂げる」とはどういう事でしょうか?
 ヨハネの福音書3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とはっきり記しています。
 つまり、神様の御心とは「御子(イエス)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ことなのです。
 と言うことは、あなたがそして私がイエスを信じることによって、罪赦され神様の子とされる事が神様のみこころなのです。ですからイエス様はこう祈られたのです。
 17:21 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」
 イエス様の「喜び」とは父なる神様の御心を成し遂げること、すなわち私たちが救われて、神様の子として一つになることなのです。ですから、こうして私たちがイエス様を信じて共に恵みを分かち合い主にある交わりを通して一つにされていることこそが最高の喜びなのです。
 そのことがパウロ先生をいつも「主にあって喜ぶ」歩みへと導いておられたのです。イエス様が父なる神の御名によってお遣わしくださった、助け主なる聖霊様は、時間も場所も越えてすべての人に同じ「主にある喜び」を与えて下さるのです。
 そこで私に与えられた「最高の喜び」とは、何よりも「主イエスが私と共にいてくださる」事。「主と共にある交わりが与えられている」事。「共に祈り会える」事、そして主を愛する人々と「共に礼拝を捧げる」事なのだとの思いに導かれたのです。
 なぜなら、これこそ、イエス様が「わたしの喜びが全うされることだ」と言っておられる事だからです。