牧師室 '07. 4 3 2


◎ 2007. 4.10 ◎

「いこいの場」

66:1 主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。
――主の御告げ。――
わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。
(イザヤ書66章1節〜2節)


   私の生まれた所は、弟子屈という小さな町で、ここは観光と温泉の町です。近くには、摩周湖・屈斜路湖・阿寒湖などの美しい湖があります。何歳になっても生まれ故郷というのは懐かしく思い起こされるものです。特にこうした自然の中に立つと「ホット」する思いになります。そこが「いこいの場」とでも言うのでしょうか!
   ところで、聖書は、昔の聖徒たちが憧れていたのは天の故郷であった、と記しています。「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル人への手紙11:16)と。
   さて、イザヤ書66:1節をご覧頂きたいと思います。ここに「天はわたしの王座」とあります。これは永遠の神の都、すなわち天の故郷のことです。  たとえどんなにすばらしい神殿を神様のために建てたとしても、それは一時的な場所でしかないと言うことです。そして、神様は「いったいわたしのいこいの場はどこにあるのか」と言われるのです。言い換えますと、『天はわたしの王座』すなわち神様の「いこいの場」は天の御国なのだと言うことです。ですから、昔の聖徒たちも真の「いこいの場」である天の故郷に憧れていたのです。
   私たちは神様が創造なさった素晴らしい地球に生まれてきて、家庭が与えられある意味ではこの家庭が「いこいの場」だと言えます。しかし乱暴な言い方かも知れませんが、それも一時的なものです。
   詩篇23篇を見ますと「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとり(アル・メー・メヌホット)に伴われます。」(2)とありますが、4節には「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」とありますように、地上の歩みというのはとても不確かなものなのです。
   そういう中でいったい本当に私たちが憩える場所とはどこなのでしょうか?続いて4節後半には、「あなたが私とともにおられますから。」とあります。つまり主ご自身が「いこいの場」であられると言うのです。この信仰の告白こそが、私たちを平安の道へと導いてくれる確信となるのです。
   このように見て参りますと、イザヤ66章1、2節で、「主はこう仰せられる」と言っておられるその内容は、主なる神の憩いに入ることが出来るのは、へりくだって心砕かれ、主のことばに信頼する者であって、その者にとっての『いこいの場』は私自身である、と主なる神は言っておられるのです。
   私たちは地上に於いても、また天に於いてもこの永遠に変わることのない「いこいの場」が約束されているのです。その約束を私たちに与えて下さったのが、イエス様です。イエス様のうちにこそ真の『いこい』があるのです。主なるイエス様の御前にへりくだり、御言葉に信頼して歩んで参りましょう。
   そして主はもうすでに私たちの『いこいの場』を備えていてくれるのです。 「14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネの福音書14:1〜3)
   主の約束を信じ、今日も『いこいの場』であられる主と共にある喜びを味わいながら共に励まし合い祈り合いましょう。



◎ 2007. 3.20 ◎

「祝福を持ち運ぶ」

heb 11:21 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。
(新約聖書 ヘブル人への手紙 11章21節)


   ヘブル人への手紙11章には、「信仰によって称賛された」人たちのことが書き記されています。その中の特に21節のヤコブに目を留めてみたいと思います。ヤコブのことは創世記25章19節以下に記されています。ヤコブは、アブラハムの孫であり、アブラハムの子イサクと妻リベカとの間に生まれた双子の兄弟の弟です。兄はエソウと言います。生まれてくる時兄の「かかと」をつかんで生まれてきたので、ヘブル語の(アーケーブ=かかと)を意味するヤコブと言う名がつけられました。
   父イサクはエソウを愛し、母リベカはヤコブを愛した(創25:28)とあります。そんなこともあってか、兄エソウは長子の権威(権利)にあぐらをかき、楽天的でした。しかし、弟ヤコブは、母の思い入れもあって出来れば長子の権威(権利)を手にしようと機会を狙っていたのです。
   チャンスがやってきました。ヤコブが煮物を煮ていると、兄エソウがお腹を空かして野から帰ってきて、「その赤いものを私に食べさせてくれ」。ヤコブは待っていましたとばかりに「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言いました。兄エソウは「腹が減って死にそうだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言って長子の権利をヤコブに売ったのです。「長子の権利」とは、財産の問題だけではなく、神の聖なる民としての祝福そのものを受け継ぐ契約のしるしでもあるのです。

出エジプト記13:2に 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」とあるとおりです。

   さて、時は流れてイサクお父さんは年をとり、視力が衰えよく見えなくなってきたので、長男エソウを呼んで「私が死ぬ前に私自身がおまえを祝福できるために」とその前におまえがしとめた獲物で美味しい料理を作って食べさせておくれ、と頼むのです。
   エソウは急いで出掛けていきました。ところがですよ、この話を聞いていた、母リベカが弟息子ヤコブを呼んで、「さあチャンス到来、私が作った美味しい料理を持っていって父に食べさせ、兄エソウが受けるべき祝福をあなたが受けるのです。」兄エソウは毛深い人であったので、母は子ヤギの毛を手と首につけ、兄エソウの着物を着せて、料理を持たせて父の許へと行かせた。(詳しくは27章を)こうしてまんまと弟ヤコブは、兄エソウが受けるべき長子の権利である祝福を横取りしてしまうのです。長子の権利をないがしろにしたエソウは、受けるべき祝福をも失ってしまったのです。
   こうして、アブラハム・イサクに受け継がれた神様の民としての祝福は、長子エソウではなく、ヤコブに受け継がれることとなったのです。やがてヤコブは、イスラエルと呼ばれるようになり、名実ともに、神様の聖なる民の祝福の中に生きる民とされたのです。
   さて、ヤコブには、12人の男の子が与えられた(特にヨセフが有名)。そして彼もやがて視力が衰え、自らの死の近いのを知って、息子ヨセフの子ども達に祝福を与えるのです。おじいちゃんが孫に祝福を祈る姿です。麗しい姿ではないでしょうか。
   神様は、信ずる私たち一人ひとりにも同じように、祝福(神様の民・聖なる国民)の基となることを約束して下さいました。民数記22:6には、「あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われる」とあります。祝福は受け継がれていくものなのです。聖書の中に「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と度々言われていますが、神様の祝福を受け継ぐことの象徴として用いられる呼び名です。そして、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」は、私たちの神でもあり、私たちも祝福を受け継ぐ者であると同時に、その「祝福を持ち運ぶ」者でもあるのです。肉の家族には勿論、神の家族・教会においても、私たちは、まさに「祝福を持ち運ぶ」者にほかならないのです。この教会の93年の歴史を祝福をもって導いて下さった神様が、更に新しい年度の歩みの上にも、今までと同じ、いえ、それ以上の祝福を注ぎ続けてくださるに違いありません。
   どうか、教会に集っている一人ひとりの祝福のために、とりわけ幼い子どもたちの祝福の為に共に祈りましょう。
   主イエス・キリスト様の御名によって。アーメン!



◎ 2007. 2.12 ◎

「これほどまでに」

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章 7節〜11節)


  「地球の温暖化」ということが言われ始めてから、もうずいぶんになります。フロンガスの規制とか、排気ガスの規制などが行われてはいますが、あまり効果は上がっていません。地球の温度は上がっていますが、それとは逆に、イエス様が世の終わりのしるしの一つとして「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)と言われましたように、だれもがそう感じずにはおれないような状況が日本を、いえ世界を覆っているように思えてなりません。「地球温暖化」の問題に対しては国際会議や、それぞれの国においても議論され、ある意味での対策はなされています。しかし最も大切な「心・愛」に対して、すなわち人間の根本問題は、置き去りにされていると言えないでしょうか。なぜでしょうか?それは、この事に真剣に取り組もうとするなら、宗教・信仰と言うことを抜きにしては解決の道はないからなのです。ですから「地球温暖化」の問題を議論するように「愛の低温化」を議論することは難しいのです。

  何かややこしい話しになってしまいましたが、人間の心の問題の解決は「愛なる神に帰ること。愛をもってすべてのものを創造された主なる神に帰る」ことです。伝道者の書の最後に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)と言っています。神様が創造なさったすべてのものは、「非常によかった」と聖書は記しています。創世記 1:31に「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」と。

  しかし神のかたちに創造された人間が、創造主なる神の命令に背いて罪に陥ってしまった結果、ローマ人への手紙 8:22に記されてあるように「 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」そして 8:19「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」どんなに多くの人が寄り集まって議論をしても「愛の低温化」を食い止めることは出来ません。何故なら「愛」は神ご自身から出ているからです。ヨハネの手紙第一 4章を御覧下さい。 7節に「愛は神から出ているのです」とあり、8節には「なぜなら神は愛だからです」と宣言されています。

  そして私たちがこの神様の愛を知るためには、「神から生まれる」すなわち新しく生まれることが必要です。私たちが新しく生まれるためには、イエス様の十字架と復活を信じる信仰以外にはありません。10節に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあるとおりです。独り子イエス様が「なだめの供え物」となって下さり、その命と引き替えに罪を赦して下さった。「これほどまでに」愛されている私たちなのです。この神様の愛を知り、互いに愛し合うことによって「愛の温暖化」へと地球は暖められていくのです。まず私たちが、そして教会が、教団が、地球のすべてのクリスチャンが、協議や議論ではなく心合わせて祈るなら、神様は聞いて祝福して下さるのです。