牧師室 '06. 7 6 5


◎ 2006. 7.11 ◎

「神の安息に入る」

10 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
11 ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
(ヘブル人への手紙4:10〜11)

 少し面倒なことになるかも知れませんが、このところを理解するためには、モーセの時代にまで遡らなければなりません。
 モーセに導かれてエジプトの地を出たイスラエルの人々、その当時成人であった人々は、神様の約束の地カナン(乳と蜜の流れる地、あるいは安息の地とも言われる)に入ることは出来ませんでした。それは不信仰(ヘブル3章19節)・不従順(4章6節)の故であったと言うのです。モーセ自身も約束の地を目の前にしながらそこに入ることが出来ませんでした。
   モーセの後に指導者として立てられたのがヘブル4章8節に記されているヨシュアでした。  彼はモーセの後を継いでイスラエルの民を導き約束の地に入りましたが、 それは地上的な安息であって、神が本当に与えようとしておられる霊的な安息ではなかった、とヘブルの記者は語っているのです。
 3章14節15節を御覧下さい。  『3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。 3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。』
 「キリストにあずかる者となる」とありますが、この「キリストにあずかる」とは、「イエス様の安息に入る」と言うことです。イエス様によって与えられる安息、霊的な安息に入るように努めなさいと勧めているのです。
 さて「安息日」についてですが、聖書の中で最初に「安息日」という言葉が使われているのは、出エジプト記(16章23節)です。これは明らかに神様が創造の業の完成を告げられた七日目の事です。創世記2章2節〜3節を見てみましょう。 「2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」
 神様は6日目に人を創造され、 最初に人に与えられたのは、「安息の日」でした。これは単なる「休み」ではなく、まず最初に神様と共に憩う喜びをお与えになったのです。 しかし、人は神様との約束を破り罪に陥った結果、神様との憩いすなわち「安息」を失ってしまったのです。
 神様が旧約聖書・新約聖書を通して示しておられることは、失われた神様との「憩いの時」「安息」を回復させることなのです。
 ですから「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(3:15&4:7)と繰り返し、神の御声に聞き、「神の安息に入る」ように、と今も語り続けておられるのです。
 しかも、それはイエス・キリスト様によって与えられる安息であって、世が与えるようなものとは異なると、霊的な安息について語っているのです。
 旧約の時代には、モーセ、ヨシュアなど多くの預言者を通して「安息」に入るようにとお示しになりましたが、時至って、神様の御独り子イエス様を通して、すべての人に与えられる「安息」の道をお示しになったのです。
 ヘブル人への手紙4章14節を御覧ください。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」とありますように、私たちが「安息に入る」ため、そして、それを持ち続けるためには「イエス・キリスト様は主である」という確かな信仰の告白をもって主を仰ぎ見ることです。ですから、本当の安息は「神様が私と共におられる」という信仰告白が土台なのです。この信仰を堅く保っているなら、何時如何なる時も神様の安息の中に憩うことが出来るのです。
「今、この時も、主は私と共におられます」 アーメン


◎ 2006. 6.13 ◎

「神のいつくしみ」

3私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。 4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、 5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。   6神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
(テトスへの手紙3:3〜7)


 北海道は約4〜5ヶ月雪に閉ざされます(場所によって差はありますが)。ほとんどの木は秋の間に葉を落とし、寒い冬を耐え忍びます。そして雪が解けると、いっせいに花が咲き始めます。
ちょうどその頃、イースター=復活祭を迎えるのが北海道です。イエス様が墓の中から甦られたように、何もなかった大地に花が咲き誇る姿は、まさに復活に相応しい時期のように思います。
 処でライラックは、5月の初旬から咲き出し、札幌では5月の末に「ライラック祭り」が行われます。ちょうど今頃が見頃だと思います。
ところで、トルストイの『復活』という作品の中にライラックが登場してくるそうです。ライラックは死から再生する春を象徴していると言うことを、トルストイも意識して作品の中に登場させたのでしょうね。
 さて、みなさんは花がお好きでしょうか?先日(6月第二日曜日)は「花の日」でした。近くの交番、消防署、交通局、日の出タクシーに、素晴らしくアレンジされたお花をCSの子ども達が届けました。とても喜んで下さったそうです。綺麗なお花を頂いて嫌な顔をする人はほとんど居ないと思います(花粉症の方は??)。花は人の心をなごませ、優しさを与えてくれます。
 聖歌の530番に、「悩む世人のために咲きいでし花あり その香今や世界の隅々におよべり 香たえなるシャロンの野花よ 来たり開けやこの心の中に」(1節)とあります。
 イエス様を美しく咲き薫る花にたとえています。
 最初にお読みしましたテトスへの手紙3:4に「私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛が現れたとき、………」とありますが、その前の3節には、「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」そんな私たちの内に主イエス様は来て下さったのです。そして、十字架の愛と、復活の栄光をもって私たちに「神のいつくしみ」をお与え下さいました。神様のいつくしみ、優しさは、ひとり子の痛みと苦しみを代価として、すべての人にそそがれたのです。
 わが家の初孫もだんだん知恵が付き、機嫌が悪くなると誰があやしても駄目です。ところがお母さんの顔を見た途端、何とも言えない表情でお母さんを求めて身を乗り出すのです。お腹を痛めた母親との絆は、何にも優って癒しなのでしょうね。
 私たちも、神様の痛みを本当の意味で知ったなら、このお方、主を求める思いへと駆り立てられるのではないでしょうか。 このお方によって、私たちの心は溶かされ、癒されるのです。
 復活されたイエス様がペテロに「あなたはわたしを愛するか」と三度訪ねた記事がヨハネの福音書21章に記されていますが、ペテロは三度もイエス様を知らないと言ったことをとがめられてはいない、むしろいつくしみと愛をもって語りかけて下さったイエスさまのお心に触れたのです。
 その時ペテロは初めてあの十字架の痛みと苦しみの意味を知ったに違いありません。イエス様は同じように私たち一人ひとりをも、助け主なる聖霊様を通していつくしみと愛とを注ぎ続けていて下さるのです。
 6節〜7節に「神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」とあります。
 聖霊様が一人ひとりの上に「神のいつくしみと愛」とを豊かに注いで下さっていることを感謝しつつ歩んで行きましょう。

◎ 2006. 5.15 ◎

「理想的な家」

 ・・・ 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
(ヨハネの黙示録21:3〜4)


 時々、テレビの番組で 「◎◎さんの豪邸拝見」 というのがありますが、それはそれはみごとな、まさに豪邸が紹介されます。思わず「へぇ〜、うぉ〜」とため息が出てしまう事があります。ま! 欲を言えばきりがありませんが、でもやっぱり出来ることなら住んでみたいな〜〜と思うこともあります。
 ところが、見ているうちにだんだん虚しさが心に湧いてくるんです。それは願っても叶うはずもないというあきらめと、それをうらやましいと思って見ている、自分の心の貧しさ(嫉妬)が入り交じってのことと思います。
 よく言われることですが、「ハウス(家)と、ホーム(家庭)とは違う」と。家は、お金さえあれば、人もうらやむ豪邸を建てることは出来ます。
 しかし家庭はお金では買えないのです。家庭を作るのは人なのです。
 どんなに素晴らしい豪邸に住んでいても、喜びも、感謝もないというのでは、虚しいのではないでしょうか。

 箴言の21章20節に「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。・・・」とあります。
「知恵のある者の住まい」とは、主を畏れ敬い、主とともに歩む家庭を言い表しています。「好ましい財宝」とは、生活に必要な(足りなくもなく、有り余ることなく・ちょうど良い)物質的祝福を表し、「油」とは霊的な祝福(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)<ガラテヤ人への手紙5:22−23>を表しています。

また、詩篇23篇でダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と歌っています。つまり、主なる神がともにいて下さると言うことがどんなに祝福された歩みであることかと歌っているのです。だから「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」とこの歌を結んでいるのです。
 最初にお読みいただきました黙示録ですが、もう一度見てみましょう。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 これは永遠の御国のことを言っていますが、しかしイエス様はこう約束なさいました。「・・・わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と。イエス様は、死んで三日目に甦り、天の父なる神の許へお帰りになりましたが、助け主なる聖霊様を通して、いつもともにいて下さるお方なのです。
 一人密室で祈っているときも<マタイ6:6>、ふたりまたは三人が主の名によって集まる所にも、主はともにいて下さる<マタイ18:20>のです。
 問題は、私たちがそのことを信じ、意識して日々歩んでいるかどうかなのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。・・・」(詩篇23:4)と。
 日々主の臨在を仰ぎ、「今日も主がともにいて下さる」と自分に言い聞かせるようにしながら、歩み続けていきましょう。
 確かに私たちの地上の歩みは、それぞれが経験しておられるように、悲喜交々、艱難辛苦、涙流すことも度々です。
   けれども神は、私たちに素晴らしい家、家庭を用意し、やがて時が来たなら迎えに来て下さると言っています。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1〜3)
 主がともにおられる家、これこそが私たちに約束された「理想的な家」なのです。
 約束の主を見上げ、今この時も主がともにいて下さることを感謝し日々歩み続けましょう。
「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」天の御国目指して。