牧師室 '06. 4 3 1

◎ 2006. 4.25 ◎
「主の器をになう者」

11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。
12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。
(旧約聖書 イザヤ書 52:11〜12)


 この箇所を聖書の歴史的な面から見てみよう。

 イスラエルの民が神様の御声に聞き従わず、神ならぬ神々、すなわち偶像礼拝に陥りました。そんなイスラエルの民に神様は、預言者をお遣わしになり、「わたしのもとに帰ってこい」と語られるのです。それがイザヤ書です。

 イザヤ書1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。19 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。20 しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」・・・と神様が警告したにもかかわらず、彼らは無視するのです。お言葉の通り、神様はバビロンのネブカデネザル王を用いてイスラエルの民を滅ぼされます。民の主だった人は捕囚としてバビロンの国に連れて行かれたのです。

その後ペルシャのクロス王が力を得てバビロンを倒しイスラエルの民を解放するのです。

 捕囚として囚われ、意気消沈しているイスラエルの民に、イザヤは神様から託された、解放の預言を告げるのです。『「慰めよ。慰めよ。私の民を」とあなたがたの神様は仰せられる。』と。  この40章から語られる解放の預言のクライマックスが、『さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。』で始まる今日お開き頂いています52章だと言われています。

 さて、40章から始まります解放の預言は、イスラエルの民のバビロンからの解放と同時に、更には新約時代における、すべての民に及ぶ神の救いの御業をも預言しているのです。

 52:11「去れよ。去れよ。そこを出よ。…」=「バビロンからの解放であり、罪からの解放」です。 「汚れた者に触れてはならない」= 「二度と罪を犯してはならない」。 「その中から出て、身をきよめよ」= 「神様の民として、自らを聖別せよ」 「主の器をになう者たち」=「神に選ばれた人々」すなわち、クリスチャンです。

 12節 は出エジプトの時と対比されています。 出エジプト記12:11「腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。」

 でもここでは「あなたがたは、あわてなくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなた方の前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」

 このところを読んだとき、何かしらホットする思いになりました。 「主があなた方の前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられる」これはインマヌエルの主、イエス様が私と共にいて下さる、と言うあの約束の言葉です。イエス様が天の父なる神の許へお帰りになるとき、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」と仰ったように、あわてるな、もっと余裕を持って生きよ、私が共にいるのだから、と言ってくださっているように思うのです。

 実に慌ただしい日々の歩みを強いられています。ほれ新幹線だ、やれ高速道路だ、ジェット機だと、少しでも早いものがすぐれているように錯覚させられてはいないでしょうか? 今はほとんど見られなくなりましたが、"汽車"石炭を焚いて走るあの蒸気機関車です。峠を越えるのに前にそして後ろに機関車が付いていて、シュシュポッポ・シュシュポッポと、のんびり、しかも力強く上っていくのです。

 私も60を目の前にして、折り返し地点を過ぎ、人生の峠を登り?!始めました。 あわてず、焦らず、主が与えて下さっているこの時を感謝をもって、主に従って行きたいと思わされています。「主の器をになう者たち」よ、愛する皆さん、あわてず、ゆっくり、行こうよ、主が前に後ろに共に歩んで下さるのだから。しかし、怠ることなく忠実に、です。

 最後に、この52章に続く53章は、イエス様の苦難のお姿を預言している箇所です。今、私たちはペンテコステ(五旬祭)を前にした五旬節と言われる季節を過ごしていますが、イエス様が約束された助け主(たすけぬし)なる聖霊様を認め、自らのうちに歓迎し、イエス様ご自身のお姿を思い起こしつつ、与えられた今日この一日を、一歩一歩、ゆっくりと踏みしめながら歩んで行きたいと思います。最後まで読んで下さったことを感謝いたします。

 神様の祝福をお祈りいたします。

◎ 2006. 3.10 ◎
「キリストと共に」

2: 1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2: 2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2: 3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2: 4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2: 5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2: 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2: 7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2: 8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。      
(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1〜8)

 私たちは、見る、聞く、話す、匂う、味わう、触るなどという感覚の世界で生きています。ですから、実際に見て、聞いて、触って、味わってみなければ信じることができない面が多くあるように思います。イエス様が甦られ、弟子たちに現れたときにトマスだけがそこにいませんでした。他の弟子たちがトマスに、「私たちは甦られたイエスにお目にかかった。」と報告するのですが、トマスは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、又私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じません」と言いました。そのトマスに対して、イエス様は「貴方の指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に差し入れなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい」(ヨハネの福音書20:24〜29)と言われました。しかし、私たちは決してトマスを笑うことはできないのではないかと思うのです。「イエス様が十字架に架けられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちより甦り…………」と使徒信条によって信仰告白しますが、2000年前に起こった出来事を私たちはどの様に信じることが出来るのでしょうか?  トマスは直接イエス様にお会いし、その傷ついた手を見ることが出来ました。でも私たちは直接イエス様を見ることも手で触れることも出来ません。イエス様がトマスに現れた時は、まだ、主がお約束なさった聖霊様は降っていませんでした。イエス様が十字架に架かられる前に、弟子たちにこう約束なさいました。「私は父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることが出来ません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかしあなたがたはその方を知っています。その方はあなた方と共に住み、あなたがたの内におられるからです。」(ヨハネ14:16〜17)
 この約束の通りに、聖霊様が降られた時、弟子たちは「力を受け、主の十字架と復活の証人として」世に遣わされたのです。そして、今私たちは聖霊様を通して、聖書が語る主の弟子たちの証言を、あたかも目の前に主イエス様がおられるように、聞いて、見て、触れているかのように近くに感じることが出来るのです。ですから、私たちがイエス様を信じ、永遠の命の約束を持って、今の時を生きることが出来ると言うことは、聖霊様が私のうちに住み、ともにおられるイエス様を愛することが出来るようにして下さっているという証拠なのです。  ですから、エペソ2:1に「あなたがたは自分の…………」と語りかけられている御言葉も、この私自身に語られていることとして受け止めることが出来るのです。罪の中に死んでいた私は、生まれながら御怒りを受けるべき者でした。けれども神様の愛の故に、イエス様と共に生かしてくださったのです。6節に「キリスト・イエスにおいて、ともに甦らせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とありますが、今私たちはまだ地上におります。しかし聖書は、天国は死んだ後に行く所ではなく、イエス様を信じる者の只中にあると言っています(ルカ17:21)  これが私たちに与えられている「キリスト共に天にいる」と言う「永遠の希望」なのです。そしてまさにこの「永遠の希望」を信じてひと日一日歩み行くのがキリスト者の姿なのです。


◎ 2006. 1.3 ◎


「赦されて生きる」

23:33 されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
     (新約聖書 ルカの福音書 23:33〜34)

 皆さんは、勘違いして、後で気がついて情けない思いをしたことはありませんでしょうか?
 人類史上最も大きな勘違いは、イエス様を十字架に架けてしまったことではないでしょうか?
 罪のないお方を、死刑にしてしまったのです。勘違いではすまされないことです。けれども、私たちの目から見たら、それはどうにも取り返しのつかないことです。しかし、神様はそれさえも益に変えて下さったのです。この十字架の死、イエス様の流された血潮と、命がけの愛がなければ、当然復活もなかったのです。とすれば、私達人間の救いは永遠に閉ざされたままなのです。しかし、神様は、最も最悪の状況から、最高の祝福への道を開いて下さったのです。
 ある初夏のさわやかな日のお昼時、敏子さんは、このところ仕事が忙しくてゆっくり食事をすることも出来ないでいましたが、今日は思い切って会社の近くの喫茶店に出かけ、息抜きをしようと思い立ち、その店で評判の、美味しいクッキー、そしてコーヒーを注文し、のんびりと雑誌を読み始めました。
 しばらくすると、見知らぬ男性がテーブルの向かい側に座りました。お昼休み店が混んでいたので、気にもせず雑誌に目を落としたまま、テーブルに置いたクッキーをほおばりました。その時、クッキーの袋がガサガサと音を立てました。思わず雑誌から目を上げたその時、向かいの男の手が、袋からつまみ出したクッキーを口に入れました。「まさか、そんな。人のクッキーを無断で食べるなんて」。でも暫くするとまた、ガサガサという音がします。またも、袋からクッキーをとって食べているではありませんか。ちらっと目が合いましたが、男は、まったく悪びれる様子もなく、また手を伸ばして、クッキーを。敏子さんも負けじとクッキーをほおばります。しかし、彼は、ニコニコしているではありませんか。だんだん、腹が立ってきました。でも、余りにも堂々と人のクッキーをとって食べる男に、面と向かって文句を言う勇気もありません。とうとう、袋の中のクッキーは最後の残り一枚となりました。同時に手を伸ばした二人は一枚のクッキーをつかみました。この男はニッと笑ったかと思うと、クッキーを半分に割り、その半分を口に入れたのです。余りにも腹が立った敏子さんは、勢いよく席を立ち、バッグを鷲づかみにしてその場を立ち去りました。
 そのまま職場に戻った彼女は、興奮収まらないまま、読みかけの雑誌をしまおうとバッグを開くと、・・・・・・・・、そこには、手つかずのクッキーの袋が入っているではありませんか。
 あの男が彼女のクッキーをとって食べていたのではなく、彼女が、彼のクッキーをとって食べていたのです。にもかかわらず、彼は最後のクッキーまで半分にして分けてくれたのです。(涙のち晴れ・マナブックスより引用)
 イエス様は、私たちの弱さを最も良く知っておられます。でも、すぐに怒鳴ったり、腹を立てたりせずに、私たちがそれと気づくのを忍耐を持って、待っていて下さるのです。
 十字架の上でイエス様が「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、とりなし祈って下さったのは、私たちがその事に気づいて、悔い改める機会を与えて下さったのです。私たちは「赦されて生きている」のです。
 そして、それは今も変わりません。わたしも度々失敗をします。人のクッキーをとって食べていても気づかずにいる事が多いのです。しかし、主は忍耐を持って待っていて下さるのです。
 でもなるべく失敗しないようにしたいと思います。その為には、日々主との交わりを、絶やさないことです。最近、横文字が流行っていまして、「ディボーション」とよく言われますが、日本語では、「静思」といいます。、主の前に静まり、祈り、み言葉に思いをはせる時、主は私たちの内に、約束の聖霊様をお遣わしになって、力を与え、導いて下さるのです。
 ですから、私たちは主との交わりを大切にしたいと思うのです。「主を待ち望む者は新たなる力を得る」(旧約聖書 イザヤ書40:31)と約束して下さっているからです。 信じて待ち望みましょう。