牧師室 '06.10 9


◎ 2006.10.20 ◎

「一部分しか知りません」

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13章12節)


 コリント人への第一の手紙13章と言えば「愛の章」と言われ、必ずと言っていいほど結婚式で読まれる箇所です。先程お読み頂きましたすぐその後に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13節)と続いています。
 ここに「一番すぐれているのは愛です」とありますが、「愛」という言葉は奥が深い、そう思われませんか?
 なんでもそうだと思いますが、完全に理解し、完全に知ると言うことは私たちには不可能のように思います。
良く「道を究める」と言いますが、華道・茶道・柔道・剣道・等々その道を究めることは並大抵のことではないでしょう。いえむしろ「窮め尽くすことは出来ない」と思います。表もあれば裏もあるのですから。
 先日、鶴屋の7階で行われていました「日本いけばな芸術九州展」を見に行きました。○○流、○○流、……………、私が知っているのは、池坊、草月、小原流ぐらいでしょうか?165点の作品が並べられていましたが、表示されていなければどれが何流なのか全然分かりません。もしも池坊を極めたとしても、それで華道のすべてを極めたとは言えないでしょうね。
 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とありますが、この「愛」を極めることは人間には不可能でしょう。
 「もし神様が愛なら、どうして、この世にこんなに争いや、苦しみ、憎しみがあるのか?」とよく言われます。
 それは、「人間が神様から離れた結果入り込んで来た罪のためだ。 そんな人間の罪を赦すためにイエス様が十字架で身代わりとなって命を捨てて下さった。ここに愛がある」と言ったとしても、信仰を持って、それを受け入れるのでなければ、そう聖書に書いてあるからと、それで神様の愛が理解出来るわけではありません。
かといって、イエス様を信じる私たちが、神様の愛を完全に理解しているかというとこれもまた??です。もし仮に理解したとしても、そのように生きるのでなければ本当に理解したとは言えません。パウロ先生が言っているのはそう言うことではないでしょうか?「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」
 人が流す涙の意味を私達は傍で見ているだけではその心の内にある思いまでを理解出来ません。喜びあふれて踊っている人の心のうちまでは知る事は出来ません。
 私たちが見える部分は真に一部分にしか過ぎないのです。しかし聖書はこう言うのです。「今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
 「私が完全に知られている」とあります。神様は私たちのすべてを完全に知っておられるというのです。あなたの流す涙の意味も、喜びあふれるその心の内もみな主は御存知なのです。ですから、「何故?どうして?」と今は理解出来ないことに出遭ったとしても、主の十字架と復活を見上げるときにこそ慰めがあり、励ましがあり、恵があり、祝福が備えられているのです。
 今は一部分しか知ることは出来ませんが、「その時」すなわちイエス様と顔と顔とを合わせて見るときには、それらのことを完全に知ることが出来ると断言しているのです。
 ですから、私たちはイエス様を信じる信仰によって与えられた約束の言葉に信頼し、希望を持って歩むことが出来るのです。それは、命をかけて救いへと導いて下さったイエス様の愛に出会ったからに他なりません。このお方を信じ受け入れる者にとっては、すべてのことが相働いて益となることを知っているのですから、この時を感謝して生きることが出来るのです。それは自分の力ではなく、「信仰と希望と愛」という神様がイエス様を通して与えて下さった恵によるのです。
 感謝をもって主をほめたたえましょう。



◎ 2006. 9.15 ◎

「主と共に」

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
(旧約聖書 詩篇23)


 季節が変わり、秋の気配が漂い始めました。大きな木の太い枝に生まれた、葉っぱのフレディのおはなしです。
 春に生まれたフレディは、数えきれないほどの葉っぱにとりまかれていました。はじめは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきます。
 フレディは親友で物知りのダニエルから、いろいろなことを教わります。自分達が木の葉っぱだということ、めぐりめぐる季節のこと...
フレディは夏の間、気持ちよく、楽しく過ごしました。遅くまで遊んだり、人間のために涼しい木陰をつくってあげたり。
 秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。みなそれぞれ違う色に色づいていきます。
 そして冬。とうとう葉っぱが死ぬときがきます。死ぬとはどういうことなのか...ダニエルはフレディに、いのちについて説きます。「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」また、「死ぬということも 変わることの一つなのだよ」と。
 フレディは自分が生きてきた意味について考えます。「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」 そして最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、ねむりにつきます。
<絵本「葉っぱのフレディー」作:レオ・バスカーリア>

 この絵本は「死について」考えさせる作品です。人生には四季があり、やがて死の時を迎えるが、死は決して終わりではない。命は新しい命へと受け継がれていくのだ、と。
 私たちは普段余り「死」と言うことを考えることなく過ごしているのではないでしょうか。
 この絵本は、命の循環と言うことを語っています。葉っぱは枯れて土に帰りそれが肥料となって、新しい生命を育むと。
 ところで聖書を読んで参りますと、私たちは死と向かい合って生きている存在であることを語っています。
 「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」(伝道者の書3:2)と。このと「時」は神様の「時」です。すなわち生も死も神様の御手の中にあると言うことです。あるいは、お読みいただきました聖書中最も親しまれていると言われる詩篇23篇には、
 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(23:4)
 私たちクリスチャンが今こうして生きてここにあると言うことは、「主が共にいてくださる」という約束に生きることなのです。この主とは永遠なるお方であり、その根底にはイエス様が言われたとおり「死んでも生きる」という復活の信仰にあるのです。復活の主が共に生きて下さっているのです。
 しかし、共に生きた人との別れは言葉には言い表すことのできない、大きな悲しみが伴います。両親が召されて8年になりますが、その思いは決して消し去ることの出来ないものです。けれども私たちには、素晴らしい約束が与えられているのです。
 「やがて天にて喜び楽しまん。君にまみえて勝ち歌を歌わん」と希望を持って賛美する日々が与えられているのです。
 私たちのために命さえ捨てて愛して下さったイエス様にお会いできる日が来るのです。と同時に、先に召されていった多くの兄弟姉妹と共に、勝利の歌を思いっきり賛美するそんな時がやがて来るのです。
 ですから、今この時私たちは詩篇23篇を詠んだダビデと共に確信を持って勝利を宣言することが出来るのです。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(23:4)と。
 勝利の主が共にいてくださるから今の時を感謝と喜びと賛美と祈りとをもって歩んでゆくのです。勝利の人生を「主と共に」 アーメン