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◎ 2005.11.14 ◎
「悲しんではいけません」

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第T 4:13)

 「悲しみ」という感情は、愛から出発していると言います。ですから、古くは「愛し」と書いて「かなし」と読んだ、と国語辞典に記されていました。その意味は、身にしみていとしい、切ないほどにかわいい、とあります。 イザヤ書の中に、53章ですが、その3節に「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とありますが、正にイエスさまは、私たちを、「身にしみていとしい。切ないほどにかわいい。」と心に留めていて下さっているのではないかと思います。
 聖書はこう言うのです。「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)と。神を恐れぬ者がどんなにみじめな終わりを迎えるか、聖書は歴史を通して警告を与えているのです。先程お読みいただきました、テサロニケ人への手紙第T 4:13 その後半に「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」とあります。
 私たちはそれぞれこの世に生を受け、今の時を与えられ、そしてやがて地上での歩みを終えて主の御許へと召されて参ります。これは主の再臨の時まで続きます。13節の始めに 「眠った人々のこと・・・」とありますが、この人々は、14節にありますように イエスにあって眠った人々」です。 と言うことは、私達はまだ眠ってはいませんが、やがて私たちもこの「 眠った人々」の仲間入りをするときが来る。でも、イエス様が再び来られるときには、「一緒に連れて来られる」というのです。何処にでしょう?それは地上に生き残っている人々の所です。しかしそれは地上ではなく、17節には「生き残っている私たちが、・・・空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とあります。
 私たちにはこのような希望・約束が与えられているのです。ですから、私たちにとっての終わりの時は、失望でも悲しみでもないのです。 「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(18)と聖書は言うのです。
 考えてみますと、「終わり」という言葉は何か暗い・悲しいイメージがありますよね。確かにそうだと思うのです。例えば卒業式、2年あるいは3年4年、共に学んだ先生や友との別れは悲しいものがあります。と同時に卒業は、次のステップへのスタートでもあるわけです。  ですから終わりというのは、暗い・悲しいイメージだけではなく、それは未来に向かって新しい道を歩み出す希望と期待の時でもあると思うのです。
 ただ問題はその人が、その未来に向かって希望と期待を持っているかどうかでしょう。 悲しんではいけない」とパウロ先生は言うのです。  先に眠った人々も、今こうして主にあって生かされている私たちも、主の再臨の時には、「いっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(17)。
 ですから私たちは共に祈りつつ、励まし合い、慰め合いつつ、与えられた日々を歩んでいきたいと願います。


◎ 2005. 9.11 ◎
「草の花のよう」

23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。
(新約聖書ペテロの手紙 第T 1:23〜25<新改訳>)

 世界には私たちが見たこともないような花が沢山咲いています。白いチューリップも可憐でいいですね。
 花は私たちの心をなごませ、楽しくしてくれます。私は個人的には、高山植物が好きです。山登りをしていて、フト見ると、足許に静かに咲いている小さな花。何とも言えない微笑みが生まれてきます。 そして疲れを吹き飛ばしてくれます。 神様は私たちに必要なものをこの地にすべて備えて下さっていることを思い心から感謝します。
 「野に咲くユリの花は、御神の命のままに、誰も見ていなくても綺麗に装うでしょう・・・・・」 昔よく歌われたゴスペル・フォークです。何か一生懸命、神様をほめたたえているそんな花の姿が心に浮かんできますね。
 でも、「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装って下さるのだから、 ましてあなたがたに、よくして下さらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタ 6: 30 ) とイエス様が仰ったように、確かに花の命は短いですよね。でも神様はその花にさえ御計画を持って居おられることを知るとき、まして私たちは、神様の姿に似せて創造された者ですから、神様はもっと、素晴らしく咲く花として、世に置いていて下さるのではないでしょうか。
 最初にお読みいたしましたペテロの手紙第一1:24に「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。……」とあります。
 私は、たとえ人知れず岩陰に咲いている、高山植物のような小さな小さな花であっても、神様をほめたたえる花でありたいと思います。
 「草はしおれ、花は散る。」そんな花をも美しく装って下さる神は、やがて地を去る私たちを、神の栄光の姿に変えて下さると約束して下さいました。
 イエス様を信じる信仰によって、新しく生まれた私たちは、「朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神様の言葉によって」永遠の命を与えられているからです。
 ペテロは、これが私たちに「宣べ伝えられた福音のことば」である、と言っています。
 「草の花のよう」でもいいのです。変わることのない神様によって生かされ、その御手の中に今あることを知り、主をあがめ主を賛美し、「いつも喜び、つねに祈り、すべてのこのに感謝し」て生きること、これこそが美しく咲くと言うことではないかと思うのです。 「世界にたった一つの花」という歌が若い人たちの間で歌われていましたが、あなたも、そして私も、「世界にたった一つの花」なのです。
 お互いの美しさを認め、主イエス様が私達を愛して下さったように、互いに愛し赦し受け入れあって、主をほめたたえつつ、美しく咲き、そして、永遠の希望の中を歩み続けていきたいと思います。



◎ 2005. 8.17 ◎

 主イエス様の御名を賛美致します。熊本ナザレン教会のウェブサイトを開いて下さり、 読んで下さって心から感謝致します。

 先日、某新聞の読者の欄を読んでいましたら、「勘違い」という 題で、ある主婦がこんな事を書いていました。『子どもの運動会の日、 朝から雨だった。学校から運動会中止の知らせがあった。せっかくお弁当を 作ったのだから、どこかへ出かけようと、息子と温泉に行くことにした。 温泉に行ってしばらくして、運動会中止の場合は火曜日と振り替えます、 と言う通知があったのを思いだし、・・・と言うことは今日は休みじゃない?!・・・しかし後の祭り。案の定、家に帰ると中学生の兄が、学校から電話があったとの事。 すぐに、学校へ電話し、担任の先生に事情を話す。しかし、流石に温泉に行ったとは 言えなかった。』

 皆さんの中にもこんな勘違いってあるんじゃないでしょうか?

 でも、勘違いではすまされないこともあると思うのです。その最大は、人生そのもの。 新約聖書のガラテヤ人への手紙の中に、こんな事が記されています。

 「6:7 思い違いをしてはいけません。 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、 御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

 神様は唯一人、永遠から永遠まで存在しておられます。このお方は、滅びの道も 永遠の命の道も御支配しておられます。ですから、全ての人を永遠の命の道へと導くために 神様の独り子イエス・キリスト様を世に御遣わしになり、これが道だこれに歩めと言われるんです。 もし、まだイエス様を信じておられないなら、是非聖書をお読み下さい。 この地上での歩みが終わってから「ああ、自分の人生は勘違いだった」ではすまされないからです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書 ヨハネの福音書3:16)


◎ 2005. 8.1 ◎

 主イエス様の御名を心から賛美致します。
「神の愛を伝えて90年」・熊本ナザレン教会は、1915年(大 正4年)熊本の地にキリストの香りを放ち始めてから今年で90年 目を迎えました。去る5月29日の聖日には、教団理事長の齋藤 清次先生をお招きして、盛大且つ厳かに90周年記念礼拝を持 たせていただきました。「主の御前では、一日は千年のようであ り、千年は一日のようです。」(新約聖書 ペテロの手紙 第二 3:8)と ありますが、90年と言う時の流れの中で培われてきた信仰の歩 みは、この教会にとりまして、そして教団にとりましても大いなる 主の生きた証しであると思います。

 そして今、ペテロがあのイエス様の変貌の時に「先生、私たち がここにいることは、すばらしいことです。」(新約聖書 マタイの福音書17:4) と思わず叫んだように、90周年を迎えたこの時に熊本教会に 置いていただいていると言う事は私にとりまして「なんとすばらしいことでしょう。」 因みに私は7代目の牧師と言うことです。先人 たちが汗と涙をもって祈り、十字架と復活、そして再び来られるイ エス様を待ち望みつつ宣教のわざに励まれ今日の土台を築き上 げて下さいましたその働きを思い、身の引き締まる思いでおり ます。

 さて90周年を迎えた今、この時代の中で神様の恵みとして与 えられている宣教の道具に、インターネットの普及があると思い ます。ナザレン教会に於いてもウェブサイトを開設する教会が 増え、私たちも何とかこの90周年を迎えた節目の時に、ウェブサイトを開設したいと切に願っておりましたが、この度7月半ば にようやく開設に漕ぎつけることが出来ました。

 私は技術的な面はさっぱりなので、そのほとんどをKE兄 がお忙しい中、労して下さっています。私は、この「牧師室か ら」を通して、折に触れ感じたことなどを、このウェブサイトを開 いて見て、読んで下さる皆さまにお分かちしたいと願っていま す。 全ての栄光は主に!