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「裸一貫」と言う言葉がありますが、まさに私たちは、何も持たずに生まれ、そして、やがて地上での生は終わりを迎え、「裸一貫」何も持たずに、聖書が示すとおり「 土のちりは元あったように地に帰り、/霊はこれを与えた神に帰る。」(旧約聖書 伝道者の書 12:7)のです。 この伝道者の書の書き出しはこうです。「空(くう)の空。伝道者は言う。/空の空。すべては空。」(1:2)だと。 人の一生は空しい。莫大な財産を手に入れても、死んだらそれは誰のものになるのか?また、世に名を残す名誉を手に入れても、いつしか忘れ去られてしまう。「すべては空しく・・・空しい。」と。 けれども、神様は私たち人間を空しい存在ではなく、目的を持って創造されたと聖書は言うのです。 旧約聖書 イザヤ書にこう記しています。 「43:1 だが今、主はこう言われる。/ヤコブよ、あなたを創造した方、/イスラエルよ、あなたを形造った方が。/「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。/わたしはあなたの名を呼んだ。/あなたは、わたしのもの。 「43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。/わたしはあなたを愛している。」 43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、/わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。/これを形造り、また、これを造った。」と。 決して私たちは「空しい」人生を歩んでいるのではないのです。 神様に愛され、神様の栄光のために創造され、世に生まれ、生かされて生きているのです。 ですから、「すべては空しく・・・空しい。」と言っていた伝道者は悟るのです。「12:13 結局のところ、/もうすべてが聞かされていることだ。/神を恐れよ。神の命令を守れ。/これが人間にとってすべてである。」と。 私たちがこのことを悟るために知らなければならないことがあります。 それは、「わたしはあなたを愛している。」と言われる神様に出会うということです。どのようにして出会うのでしょう? |
それは、聖書の御言葉を通してです。きっと何度も耳にしている言葉だと思います。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16) 神様はあなたを、そして私を「ひとり子 −イエス様− をお与えになったほどに」愛しておられると言っています。「お与えになった」というのは、あの十字架の上で、あなたのため、そして私のために命を与えられたということです。 それほどに「高価で尊い」存在である私たちの人生が、「空しい」はずがないのです。 私たちは、この神様のひとり子イエス様に出会うことなしに、「神を恐れよ。神の命令を守れ。/これが人間にとってすべてである。」と言うことを悟ることはできないのです。いえ!悟ろうとさえしないのです。 ですから、多くの人の心を「空しさ」が占領してしまうのです。 科学技術が進歩発展し、人は何でもできると、神のようにでもなったかのように錯覚し傲慢になってしまっているのではないでしょうか。そんな私たちに聖書は、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(新約聖書 コリント人への手紙 第一 8:2)といって警告を与えているのです。 勿論、何かを知りたいと思う探究心、欲求が、人を、前に、未来に向かって歩もうとする力となるのですから、これはこれでとても大切なことなのです。 しかし人間のなすべきことには限界があることを知らなければならないと思うのです。 先の伝道者の書にこうあります。「3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と。ですから私たちは知らなければならないのです。 「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(コリント人への手紙 第一 6:19) あなたはこれを「知っていますか? 」 |