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「待つ身の辛さ」と良く言われますが、本当に「待つ」って忍耐が求められますよね。 ところで、犬が飼い主に「待て」と言われると、じっと待っている姿には感動します。 これは忍耐と言うよりは、むしろ主人に対する従順といった方が良いのかも知れませんね。 クリスチャンにとって「待て」というとすぐに思い起こすのが「アドベント」です。クリスマスを待つシーズン・待降節のことです。 今、教会では受難節「レント」の時を過ごしています。イエス様が苦しみを味わいながら歩んだ道を思い起こしながら、過ごすときです。そして、イエス様の苦しみの頂点があの十字架の死でした。けれどもイエス様の死は死では終わりません。イエス様は死んで墓に葬られ三日目に死を打ち破り甦られました。 そして弟子たちに復活の姿を現されたイエス様は、天に昇られる前に彼らに言われました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒の働き1:4)と。父の約束とは、同じ使徒の働き1:8に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と記されています聖霊による力を受ける、との約束です。この力とは、神様を愛し人を愛する愛の力です。ローマ人への手紙5章3節から5節に「5:3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、/5:4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。/5:5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と。 旧約聖書に、やがてメシヤ・救い主を遣わす、と約束されてから実際に救い主イエス様が世に来られたのは、数千年を経てからでした。いつ来るか分からないけれども、神様の約束を信じ待ち続けたのです。 |
これは忍耐と言うよりは神の言葉を信じる、ワンちゃんではないですが、神の言葉を信じる従順な信仰といえるのです。 そして、私たちはコロナ感染症の中で問われたのは、神様の時を信じて「待つ」従順さではなかったのかと思うのです。 最初に挙げました詩篇「私のたましいは 夜回りが夜明けを/まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」(130:6)ですが、その最初は「主よ 深い淵から私はあなたを呼び求めます。」(130:1)で始まります。絶望的な状況の中で、私たちが最も必要とするのは、「神様、仏様、八百万の神よ」と神様の存在です。 けれども、この詩篇の記者は、神様を呼び求めながら、「主よ あなたがもし 不義に目を留められるなら/主よ だれが御前に立てるでしょう。」(130:3)と、自らの不義(罪)の告白へと導かれ、そのような罪ある者を恵の故に赦してくださる神様に呼び求めるのです。 夜回りが、暗闇の中で、いつ敵が襲ってくるかもしれない、恐れの中で、早く夜が明けないかと待つような心境を「私のたましいは 夜回りが夜明けを/まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」(130:6)と祈るのです。 その苦しみから解放されるのを待つのは、辛い苦しい時間です。 けれども、自分ではどうにもならないのなら信じて「待つ」しかないのです。そこに信仰の従順が養われていくのです。 私は、このコロナ禍の中で、そのことを多くの人々が学び取ったのではないかと思うのです。特に私たち教会は、最も大切な礼拝を休まなければならない状況に追い込まれたとき、詩篇の記者のように「夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」 |