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「待つ身の辛さ」と良く言われますが、本当に「待つ」って忍耐が求められますよね。![]() これは忍耐と言うよりは、むしろ主人に対する従順といった方が良いのかも知れませんね。 クリスチャンにとって「待て」というとすぐに思い起こすのが「アドベント」です。クリスマスを待つシーズン・待降節のことです。 ![]() そして弟子たちに復活の姿を現されたイエス様は、天に昇られる前に彼らに言われました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒の働き1:4)と。父の約束とは、同じ使徒の働き1:8に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と記されています聖霊による力を受ける、との約束です。この力とは、神様を愛し人を愛する愛の力です。ローマ人への手紙5章3節から5節に「5:3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、/5:4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。/5:5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と。 ![]() |
これは忍耐と言うよりは神の言葉を信じる、ワンちゃんではないですが、神の言葉を信じる従順な信仰といえるのです。 そして、私たちはコロナ感染症の中で問われたのは、神様の時を信じて「待つ」従順さではなかったのかと思うのです。 最初に挙げました詩篇「私のたましいは 夜回りが夜明けを/まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」(130:6)ですが、その最初は「主よ 深い淵から私はあなたを呼び求めます。」(130:1)で始まります。絶望的な状況の中で、私たちが最も必要とするのは、「神様、仏様、八百万の神よ」と神様の存在です。 ![]() 夜回りが、暗闇の中で、いつ敵が襲ってくるかもしれない、恐れの中で、早く夜が明けないかと待つような心境を「私のたましいは 夜回りが夜明けを/まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」(130:6)と祈るのです。 ![]() けれども、自分ではどうにもならないのなら信じて「待つ」しかないのです。そこに信仰の従順が養われていくのです。 私は、このコロナ禍の中で、そのことを多くの人々が学び取ったのではないかと思うのです。特に私たち教会は、最も大切な礼拝を休まなければならない状況に追い込まれたとき、詩篇の記者のように「夜回りが夜明けを待つのにまさって/主を待ちます。」 |