牧師室22.12


 ◎ 2022.12 ◎ 
「喜びと慰めのおとずれ 」

               御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」
             (新約聖書 ルカの福音書2:10)



  教会に集い、聖書を読んだことがある方なら、次の御言葉は暗記しておられるか、少なくとも何度か耳にしたことのある言葉だと思います。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)。
  これは「聖書の中の聖書」と言われています。つまり、聖書に記されていることのエッセンスがここにあります。
  遙か昔に、神様は、神に背き神様との愛の交わりを失ってしまった人間を、再び神様との愛の交わりを取り戻すために、「ひとり子をお与えになった」のです。それがクリスマスの出来事です。しかし、この「お与えになった」と言うのは、「犠牲とされた」ということです。神様に背いて罪に陥った人間を、神様の愛の交わりに取り戻すためにひとり子イエス様を、私たちの身代わりに犠牲とされたのです。
  それが、十字架の出来事です。
  十字架は「世を愛された」神様のお姿です。
  このように「世の人」すなわち、あなたをそして私を愛するが故に十字架の上で命を捨ててくださった御子イエス様を信じる人は、だれ一人「滅びることなく、永遠いのちを持つ」ことができると、神様は約束してくださっているのです。この約束を成し遂げるために、御子イエス様は世にお生まれになりました。
  今からおよそ2020年前に、ベツレヘムという田舎のしかも家畜小屋で神の御子イエス様はお生まれになりました。
  その頃、この地方で、羊飼いたちが野宿をしながら羊の群れの番をしていました。すると、み使いが現れて、びっくりし恐れている羊飼たちに言いました。
  「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
  「大きな喜び」とはまさに「福音」です。
  「福音」とは「良きおとずれ」良い知らせです。
  皆さん。最近何か良き知らせを受け取られましたか。私事ですが、つい先日、北海道からクリスマスカードが届きました。
  『メリークリスマス!コロナ禍ですが、私たちのためにお生まれくださった、救い主イエス様を心からお祝いいたします。」その後に、「◯◯日頃、ジンギスカンが届くと思います。北海道の味を楽しんでください。」とありました。私たち北海道に生まれ育った者にとって、北海道のジンギスカンは、ソールフード・郷土料理です。まだ現物は届いていないのですが、必ず届くと信じ、この「良き知らせ」を心から喜びました。今までも「贈りました。」と言って知らせてくれて、届かなかったことは一度もない、信頼できる人ですから。
  さて、聖書の神様はその中で語られ、約束されたことは必ず成し遂げてくださるお方です。
  「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書 7:14) と、預言者イザヤを通して語られたことが、そのおよそ700年後に実現したのです。
  神様の御使いが、マリアの許嫁ヨセフに現れて言いました。
  「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20〜21)そしてその後に聖書はこう記します。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
  『見よ、処女が身ごもっている。
  そして男の子を産む。
  その名はインマヌエルと呼ばれる。』
それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。
」(マタイ1:22〜23)と。この知らせは、み使いが羊飼いに告げたように世のすべての人に与えられた、『喜びと慰めのおとずれ』なのです。
  コロナ禍にあって、教会によって対応は違うと思います。けれども、命がけで愛してくださった救い主イエス様が世にお生まれになった、大いなる喜びの知らせをどのような形であれ、全世界の教会が心一つに祝うときそれがクリスマスです。
  悲しみ苦しみの中にある方々の上に、癒やしと慰めがありますように祈りましょう。