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秋の空によくお似合いの、コスモスの花。神様は季節ごとに相応しい花を咲かせてくださり、私たちを楽しませてくださいます。 先日(11月3日<木・祝>)に、三年ぶりに召天者合同記念会を開催することができました。11月とは思えない日差しの暑い日となりました。 コロナ感染症の関係で例年より参加者は少なかったのですが、信仰の歩みを全うして天に帰られた愛する方々を偲び、賛美をし、御言葉に聞き、心を神様に向けることができました。信仰告白には至っていない方々もおられましたが、先に召された愛するご家族の方々が、イエス様が約束された、天の父の家に導かれることを信じる信仰をもって歩まれたことを、思い起すことができました。 残された一人ひとりも又、イエス様を信じる信仰へと心開かれ、永遠の命に至る信仰へと導かれ「最高の人生」を歩まれますようにと心から祈らせていただきました。 「1あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」(ヨハネの福音書14:1−2) このように、私たちの人生は地上の死をもって終わるのではなく、その後も永遠に続く命の故郷があることを信じるのです。 ↑納骨堂 (写真は別の日に撮影したもの) 永代納骨堂↑ ピリピ人への手紙3:20には、「私たちの国籍は天にあります。」と書いてあります。つまり、私たちの最終的な住まいは、天の父の家なのです。 イエス様はそこから来られて、私たちのために、天の父の家に帰る道を備えてくださったのです。 生まれながらにしては父の家に帰る道をだれ一人知ってはいないのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14:6)と言われたイエス様は、十字架と復活を通して、私たちが帰るべき父なる神の家への道を示してくださったのです。苦労して、努力してその道を歩むのではないのです。 ただ信じることによってその道を歩むことができるのです。 |
ヨハネの福音書「11:25イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。』」 「あなたは信じますか」と言われるのです。答えは、二つに一つしかありません。「はい」「いいえ」これは強制でも何でもありません。一人ひとりに選び取る自由が与えられているのです。「まさに信教の自由」です。 そして「はい」と答えたなら、私たちは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マルコの福音書12:30)とあるように、ただおひとりの神様を愛し、与えられた道を歩み続けるのです。しかし、世にあって生きる限り色々な試練、試みに会うことは避けられないのです。 だからこそ、神様の約束、御言葉に聞き従うことが大切なのです。 「見ゆるところによらずして 信仰によりて 歩むべし 何をも見ず また聞かずとも 神の御約束に立ち 歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで 歩めよ信仰により 見ゆるところにはよらで」(新聖歌282−1) 見えるところは一時的です。見えないものこそが永遠の御国へと続く道なのです。 コリント人への手紙 第一 13:13「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」信じること、愛すること、そして神様が与えてくださった永遠の命の希望、これこそが、私たちが一生をかけて求め続けてゆくべきものなのです。そうするなら、私たちの想像を超えた神様の恵みが与えられるのです。私たちの信じる神様は、何かと引き換えに恵みを与えるとは言っておられないのです。 マタイの福音書 6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と。 もう一度言います。信仰と希望と愛、これこそが、私たちが一生をかけて求め続けてゆくべきものなのです。 |