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「血潮の全き贖い」
「主は 御民のために贖いを送り
ご自分の契約をとこしえに定められた。
主の御名は聖であり 恐れ多い。」
(旧約聖書 詩篇 111:9)
あなたの愛する人から「ね!あなた、私のこと愛してる?」と、聞かれたら、どのように答えますか。 「もちろん愛しているよ。」と答えるでしょう。暫くしてまた「ね!あなた、私のこと愛してる?」と。 三度目に「ね!あなた、本当に私を愛してる?」 「え!俺のこと疑ってるのか?そんなに信用されていないのか?」と、イラッとするのではないでしょうか。その時点で、相手に対する愛は、半分以下になってしまうのではないでしょうか。 さて、イエス様が甦られてすぐに弟子たちにその姿を現されました。ヨハネの福音書の21章には三度目に現された記事が記されています。その15節を見ますと次のようにあります。 「21:15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」と。 このようにペテロは、イエス様から、「私を愛するか」と三度聞かれたのです。ペテロは「あなたがご存じです。」と答えるしかありませんでした。しかも三度目のときには、「心を痛めて」言ったとあります。 ご存じのように、ペテロはイエス様が十字架に架けられる直前に、イエス様から「ペテロあなたは私を三度知らないと言います。」と言われたとき、「いいえ、たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、決して知らないなどとは言いません。」と言ったのです。 にもかかわらず、ペテロはイエス様のことを三度も「私は知らない。」と言ってしまったのです。 これは明らかに裏切りです。けれどもペテロは、そう言った後、激しく後悔し涙を流したのです コリント人への手紙第二に 「 7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」 とありますが、ペテロは、自らのふがいなさに悲しみの涙を流したのです。 「あなたは三度私を知らないという」と言われたイエス様は、このペテロの流した涙をもご存じであったに違いないと思うのです。 ですからイエス様は甦られた後、ペテロに三度「わたしを愛するか」と流した涙の重さを、ずっしりと心に刻みつけられたのでしょう。 |
ペテロはイエス様が十字架の上で流された血潮の重さを心一杯に受け止めたに違いないのです。 新聖歌244の「信ずる者は何びとも」 1節 信ずる者は 何びとも 救わるるこそ 恵みなれ そして、折り返しにこう歌われます。 ハレルヤ 主は成し給えり 血潮の全き贖いを ハレルヤ 主は成し給えり 血潮の全き 贖いを 表題に掲げました詩篇111篇9節の御言葉「主は 御民のために贖いを送り ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり 恐れ多い。」は、父なる神様が、 「主の御民」すなわちすべての人々のために、「贖いを送り」つまり、贖い主・救い主イエス様を世にお遣わしになり、「ご自分の契約をとこしえに定められた。」これは、イエス様の十字架と復活を信じる者に永遠のいのちを与えてくださるという、聖なる恐れ多い約束が預言されているのです。 そして、イエス様の流された血潮と復活により、この預言を成し遂げてくださったのです。 ヨハネの福音書3:16 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 イエス様が流された十字架の血潮によって、信じる私たちの罪は完全に贖われ、喜びと感謝を持って、永遠の希望の道を永遠の御国目指して歩む者とされているのです。 ヨハネの福音書6:40「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」 ヨハネの手紙第一2:17「 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」 ハレルヤ 主は成し給えり 血潮の全き贖いを 御言葉の約束に信頼し、 主をほめたたえます。 ハレルヤ! |