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「あなたを喜ばれる神様」
あなたにとっての喜びとはなんですか?美味しいものを食べること。それも喜びの一つでしょう。 時には旅に出て、のんびり温泉につかるのもいいですね。 心ゆっくり、好きな盆栽いじりもまたおつなものです。 カラオケで心ゆくばかり懐かしのメロディーを熱唱なんていうのもいいかもしれませんね。このように私たちの周りには、たくさんの喜びがあります。ですからまた食べたい、行きたい、歌いたいと、欲求は尽きることがありません。人間の喜びには、二種類あると言われます。 その一つは、食べたい、飲みたい、行きたい、歌いたい、と欲求が満たされたときの喜びです。それは決して悪い事ではありません。でもそれらの喜びは暫くすると消えてしましまいます。 二つ目は、そのような外面的な要求は満たされなくても、うちにある喜びに満たされることです。これは決して妄想や幻覚によるものではなく、確かな約束によって与えられるものです。その約束を与えて下さるのは、すべてのものを創造された愛なる神様です。 聖書のはじめの書、創世記に、神が天と地とそこにあるすべてのものを創造された事が記されています。神様が「光あれ」と言われた。すると光があった。そして、野の花や木や果物、動物をお造りになり、最後に人を神の形に創造されました。そのすべての業をなし終えた神様は、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31)と。聖書は、神様が造られたすべてのものは「非常に良かった。」と記しています。 ところが、神のかたちに創造され「非常に良かった」と言われた人間は、神様の戒めに背き、愛なる神様との関係が失われてしまったのです。このよう神様との愛の交わり・絆が失われてしまった人間の状態を聖書は「罪」という言葉で表しています。 |
ここから、人間の惨めな歴史がはじまって行くのです。今起こっている悲惨な出来事も「非常に良かった」状態から「罪」の状態へと陥ってしまった結果、憎しみ、恨み、過度の欲望、殺戮、暴力等々、見ての通りです。 しかし、神様は愛なる御方なので、そのような人間の姿を哀れに思われ、そこから救い出そうと大いなる約束を与えてくださったのです。その約束こそがうちに与えられる決して失われることのない喜びなのです。 はじめに記してあります、ゼパニヤ書を読みますと、最初の1章〜2章は、神に背いたイスラエルの民の滅びの宣告が記されています。1章6節に「主に従うことをやめた者ども、主を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」と。しかし、2章3節では「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」と、悔い改めを語るのです。そして、3章17節です。「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。 神様は私たちを創造なさったときに「非常に良かった」と言われました。と言うことは、すべてのものとりわけ私たち人間のことを喜ばれたのです。 ですから、私たちが悔い改めて、神様の愛の中に戻っていくなら、私たちのただ中におられる神様の喜びが、私たちのうちに決して失われることのない喜びとして与えられるのです。 そのために、愛する独り子イエス様を世に遣わされたのです。 ヨハネの福音書 3:16「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と。永遠のいのちの喜びです。永遠ですから決して失われることのない喜びなのです。 世の楽しみも、決して悪いものとは思いません。けれども、私たちを愛しておられる神様は、あなたの存在そのものが喜びだと言っておられるのです。何という驚くべきことでしょうか。 「あなたを喜ばれる神様」に向かって喜びの賛美を献げつつ、歩んでいこうではありませんか。 |